第一章10 はじめましてから、もう一度
「……痛っっ……!」
割れるような頭痛と共に、俺は目を覚ました。
脳味噌を直接、冷たい金属のヘラでかき回されているかのような、得体の知れない不快感がこめかみの奥に居座っている。
視界に飛び込んできたのは、見たこともない重厚な木目の天井だった。
「……ここ、どこだ?」
上体を起こそうとして、自分の手がふかふかのシーツを掴んでいることに気づく。
周囲を見回せば、壁には煤けたランタンが掛けられ、窓の向こうには見たこともない西洋風の石造りの街並みが、朝の光に照らされて広がっていた。
俺の思考は、完全にフリーズしていた。
「おかしい……。俺、ホン・キホーテで買い物をして、さっき家に帰って来て布団に入ったはず、だよな……?」
確かにいつも通りのつまらない日常に飽き飽きしながら、黒い手帳の5冊束と、フリクションペン、エナジードリンク、ポテトチップスをカゴに入れてレジに向かったはずだ。
合計941円を支払い、黄色いホンペンが描かれたポリ袋を下げて自動ドアをくぐった。
その直後に激しい頭痛に襲われて──。
帰り道に謎の頭痛に襲われたものの、そのまま無事に帰宅して、布団に入って夢の世界に入ろうとした──。
そこまでの記憶は、はっきりと残っている。
だが、その後の記憶が、綺麗さっぱり抜け落ちている。
途方に暮れ、冷や汗がじわりと背中を伝っていくのを感じながら、俺はとっさにポケットの中のスマホを取り出し、画面を点灯させた。
ディスプレイに表示されていたのは、無機質なデジタル数字だった。
──5月1日、08時01分。
「……は? 5月……1日?」
心臓がドクンと嫌な音を立てた。
俺がホン・キホーテで買い物をしていたのは、絶対に4月1日の夜中だったはずだ。
画面の故障を疑い、何度も目をこすり、画面を指先でトントンと叩いてみるが──。
──パキィィィンッッッ!!!
「うおっ!?」
スマホを操作する時には鳴り響かないはずの、凄まじい破壊音が室内に響き渡った。
見ると、俺が軽く触れただけのスマホの液晶画面が、大型トラックに正面衝突でもされたかのように粉々に砕け散り、机の木製の天板にまで綺麗に指の形の穴が空いていた。
「な、なんだこの力は……!?っていうか、スマホがァァ!?」
自分の指先を恐る恐る見つめる。
怪我一つしていない。
それどころか、信じられないほどの万能感が全身に満ち溢れていることに、遅まきながら気づいた。
まるで、自分がこの世界の法則そのものをハッキングしてしまったかのような、デタラメな全能感。
ふと、これまで読んできた異世界ファンバジー漫画の知識が脳裏をよぎる。
まさかと思い、俺はゴクリと唾を飲み込むと、空間に向かってその言葉を口にしてみた。
「──『開示』!」
呟いた瞬間、俺の目の前の空間が淡く発光し、半透明の光の画面が浮かび上がった。
これこそが、この世界の住人が自らの能力を確認するための本物のステータス画面だった。
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【ステータス】
名前:カナタ
クラス:異界の迷い人
・体力(HP):941
・魔力(MP):941
・攻撃力(ATK):941
・防御力(DEF):941
・素早さ(SPD):941
・幸運(LUK):941
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「オール、941……?てかこれ、俺がレジで払ったお会計の金額じゃねえか……!」
壊れたスマホ、異常なステータス、精度「5月1日」というあり得ない日付。
画面の故障なんかじゃない。
買い物をしていたあの日から、丸々30日間──時間が進んでいる。
「ただ、単に時間が進んだだけ……なのか?」
混乱する頭を抱え、ベッドの上で立ち尽くしていた俺の目に、サイドテーブルの上にポツンと置かれた、見覚えのある黒い手帳が飛び込んできた。
ホン・キホーテで買った、あの5冊束のうちの1冊だ。
何かに弾かれるようにしてその手帳を手に取り、パラパラとページをめくる。
真っ白なはずの紙面には、紛れもなく俺自身の筆跡で、インクの文字がびっしりと殴り書きされていた。
それは、凄まじい決意と焦燥感が狂ったように刻まれた、過去の俺からの『遺言』だった。
手帳には、4月17日にギルド長官オズワルドをレジ袋のバグで攻略したことや、アリアの怪を励ました温もりを忘れないよう記されていた。
さらに、14日後の自分へ向けた警告や、アリアを絶対に一人にせず彼女のヒーローになること、そしてアリアというエルフを信じるよう強く訴えるメッセージが残されていた。
文字を追うごとに、俺の背中を冷たいものが走る。
スマホが示す5月1日という日付。
俺は時間が進んだのではなく、この異世界で過ごした1ヶ月間の記憶をごっそり失っていることに気づいた。
この手帳こそが、忘却の代償に抗うための唯一のログだった。
「30日間の記憶の喪失──。だったらまた、この新しい1ヶ月の最後にも、俺はすべてを忘れることになるのか……?」
底の抜けたような絶望感に、俺の身体がカタカタと震えたその時、部屋のドアがどこか躊躇うような、少し控えめな音で叩かれた。
「カナタ、おはよう。入るわよ?」
その声が鼓膜を震わせた瞬間、俺の全身の血流が、まるでもの凄い圧力で逆流したかのように激しく沸騰した。
バックバクと、胸の奥で心臓が非常警報のような爆音を打ち鳴らす。
──アリア。
つい一歩手前で、俺自身の筆跡によって手帳の紙面に狂ったように書き殴られていた名前。
過去の俺が『俺の全てを懸けて守った女の子』であり、『世界のすべてがお前を忘却の底へ突き落とそうとも、絶対に一人にするな。』と、未来の俺に命じるように遺した、その張本人が、今まさにこの薄い木扉の向こう側に立っているのかもしれない。
「あ、あぁ……。いいぞ、入ってくれ。」
自分の声が、情けないほどに掠れて震えているのが分かった。
俺は慌てて、指先ひとつで粉々に砕き割ってしまった文明の利器──液晶がバキバキに砕けたスマホをベッドの布団の奥深くへと押し込み、まだ空間にうっすらと居座っていた淡い光のステータス画面を消去した。
視界がいつもの宿屋の風景に戻ると同時に、ギチ……と、油の切れた宿屋のドアが静かに内側へと押し開かれる。
そこに立っていたのは、俺の貧弱なボキャブラリーではおよそ形容しきれないほど、言葉を失うほどに綺麗な女の子だった。
透き通るような空色の髪。
吸い込まれそうなほどに深く、澄み切った水色の瞳。
昨日まで、いや、数時間前までの1ヶ月目の俺のログによれば、彼女は『かっこいい冒険者』として常に銀の鎧を身にまとっていたはずだった。
だが、今の彼女は違った。
淡い水色のブラウス。
その裾から覗く、動きやすそうな白いキュロットスカート。
普段の戦闘服を脱ぎ捨てた彼女の姿は、手帳に書かれていた通りの『年相応の可愛い女の子の私服姿』そのものだった。
少し高めの位置で結ばれた空色の髪の結び目には、青い髪飾りがちょこんと揺れている。
1周目の俺が「幸運:941」のバグでタダで手に入れ、彼女の髪にそっと挿してあげたという、世界に一つだけのプレゼント。
そして、ブラウスの袖から伸びる華奢な右手首には、朝の光を複雑に反射して神聖な輝きを放つ、大粒の深海真珠のブレスレットがはめられていた。
──本当だ。全部、本当だったんだ。
手帳に刻まれていた生々しい記憶のログが、目の前の少女という絶対的な現実を伴って、俺の脳髄を直接殴りつけてくる。
ドアノブを握ったまま、アリアは部屋に入ってすぐの場所で、ピタリと足を止めた。
彼女は、じっと動かない。
値踏みするような、あるいは俺の表情の微細な変化を見落とさないようにするような、ひどく張り詰めた視線が俺の顔に向けられる。
その水色の瞳の奥に、言葉にできないほどの巨大な不安と、今にも泣き崩れてしまいそうなほどの、深い、深い寂しさが揺らめいているのを、俺は見逃さなかった。
彼女の手首が、かすかに震えている。
彼女は、俺が『記憶寿命30日』のシステムによって、今夜の午前0時を迎えた瞬間に、自分と過ごした全ての思い出を失ってしまったことを、誰よりもよく知っている立場なのだ。
「おはよう、カナタ。……よく眠れた?」
アリアは小さく、いつも通りを装うようにフンスと細い鼻を鳴らすと、胸を張った。
そして、水色の瞳に今にも大粒の涙が溢れ出しそうになるのを、目元の筋肉を必死に緊張させて奥へと押し戻し、俺に向かって満面の笑みを作ってみせた。
それは、過去の俺が命を懸けて守ろうとしたのも当然だと、心の底から納得してしまうほど。
間違いなく──世界で一番可愛い笑顔だった。
「あっ……はじめまして!私は“アリア”。よろしくね、カナタ!」
宿屋の室内に、鈴を転がしたような、透き通った元気な声が響き渡る。
それは、1ヶ月かけて育んできたはずの二人の絆を、あえて自らの手でゼロに戻すような、あまりにも残酷で、そしてどこまでも優しい、約束の『はじめまして』だった。
俺を混乱させないために。俺が記憶を失ってパニックを起こさないように、彼女はすべての悲しみを自分の胸の内だけに抑え込んで、出会いの最初の瞬間を演じてくれているのだ。
その健気さが、痛い。
記憶のない俺の胸の奥を、まるで鋭利な刃物で抉られるかのように、激しく、猛烈に締め付けた。
俺はベッドの縁に腰掛けたまま、完全に硬直していた。
手帳の言葉が本物であること。
目の前の女の子が、俺がこの世界で絶対に裏切ってはならない、命をかけて守るべき唯一無二の相棒であること。
その事実が、脳の記憶ではなく、魂の、もっと深い部分の血流のレベルでドクドクと腑に落ちていく。
けれど、客観的な事実として、今の俺の頭の中には彼女と笑い合った思い出が何一つとして存在しない。
ここで下手に「いや、手帳を読んだから知ってるよ」などと軽々しく口にすれば、彼女が昨夜どれほどの絶望を抱えて夜を明かし、今この瞬間にどれほどの覚悟でこの笑顔を作ったのか、そのすべての重みを踏みにじってしまうような気がした。
どう言葉を返せば正解なのかが分からず、俺が唇を硬く結んだまま立ち尽くしていると──。
アリアは作った笑顔を崩さないまま、しかしその歩みはどこか探るようにゆっくりと、俺が座るベッドのすぐ側まで近づいてきた。
彼女が動くたびに、宿屋の埃っぽい空気の中に、朝露に濡れた花のような、どこかひんやりとしていて、それでいて胸がすうっと落ち着くような彼女自身の綺麗な香りが漂ってくる。
アリアは俺の目の前まで来ると、少しだけ悪戯っぽく、いつもの調子を模倣するように小首を傾げた。
「ふふ、どうしたの? そんなに魂が抜けたような顔をして固まっちゃって……。もしかして、別の世界から来たばかりで、言葉が通じないのかな?それとも……何か大切な『合言葉』でも忘れてる?」
合言葉。
その単語が彼女の薄い唇から零れ落ちた瞬間、俺の脳の最も深い領域に、手帳の最後のページに血文字の如き執念で刻まれていた、あの1行が鮮烈な光を伴ってフラッシュバックした。
『もしお前がすべての記憶を失い、世界のすべてがお前を忘却の底へ突き落とそうとしても──彼女がその数字を口にした瞬間、お前は世界の誰よりも君の味方になる。約束だ。』
「アリア、お前……。」
「ふふん、私の勝ちね。……いい?耳をすませて、よく聞いて。」
アリアはベッドの横に小さく膝をつき、俺の顔のすぐ近くまでその綺麗な顔を寄せた。
あまりの至近距離に、彼女の尖ったエルフの耳の先端が、恥ずかしさでみるみるうちに真っ赤に染まっていくのがはっきりと見える。
けれど、彼女はその耳を隠そうともせず、ただひたすらに真っ直ぐ、俺の瞳だけを見つめ返してきた。
その水色の瞳の奥に溜まった涙の膜が、朝日の光を浴びてキラキラと揺れている。
彼女は、俺たちの絆を、この世界のバグシステムごと一瞬で再リンクさせるための、最強の暗号を静かに口にした。
「──『銅貨9枚と、鉄貨41枚』。」
その数字が、アリアの小さな唇から、宿屋の静まり返った空気の中にぽつりと落とされた。
ドクン、と、俺の胸の奥で、何かが確かに繋ぎ合わされる音がした。
それは脳の記憶回路が強引に修復されたわけではない。
手帳の向こうにいた、一瞬前の俺の強固な執念が、現世の俺の右腕を力強く引っ張り上げたかのような、そんな奇妙で圧倒的な感覚。
──銅貨9枚。鉄貨41枚。
この世界においてはおそらく意味をなさない、あまりにも端端な、お小遣いにも満たないようなちっぽけな数字。
だが、俺にとっては違う。
俺がこの世界にハッキングを仕掛けることになった、すべてのバグの始まり。
あのホン・キホーテの会計で支払った、合計『941円』という、俺と世界のシステムしか知らないはずの、絶対のデバッグコードだ。
それを、今、目の前のエルフの女の子が口にした。
アリアは、俺の顔を覗き込んだまま、じっと返る言葉を待っている。
その水色の瞳の奥に溜まった涙の膜が、朝日の光を浴びて、今にも堰を切ったように溢れ出しそうだった。
彼女は笑っている。
記憶を失った俺を不安にさせまいと、世界で一番可愛い笑顔を必死に維持したまま、それでも、奇跡が起きることを心のどこかで祈るように、俺の瞳を真っ直ぐに見つめている。
俺は、ふっと息を漏らした。
唇の震えは、いつの間にか止まっていた。
代わりに、胸の奥から湧き上がってきたのは、過去の俺に対する呆れと、そして、こんなにも愛おしい相棒を遺してくれたことへの、最大級の感謝だった。
「アリア。」
「ど、どうしたの……?やっぱり、意味が分からなくて困惑しちゃった?いいのよ、別に、ただの私が考えたおまじないみたいな──。」
「お前さ、やっぱりどこまでも心優しい、最高に可愛い女の子だな。」
手帳に刻まれていた、過去の俺の言葉を、そのまま口の端から滑り込ませる。
「……え?」
アリアの水色の瞳が、丸く見開かれた。
必死に作られていた彼女の完璧な笑顔が、その一言によって、嘘みたいにピキリと凝固する。
「な、何言ってるのよ、カナタ……?あなた、記憶が消えちゃって、私のことなんて、なーんにも……。」
「あぁ、記憶はないよ。お前とどこで出会って、どんな風に笑い合って、どんな大騒ぎを起こしたのか、俺の頭の中は綺麗さっぱり白紙のままだ。」
俺はそう言って、隠すようにシーツの上に伏せていた左手を動かした。
指先で、しっかりと握りしめていた一冊の『黒い手帳』。それをアリアの視線の先へと、わざとらしく差し出してみせる。
「だけどさ──1周目の俺を、ナメないでほしいな。」
俺はニヤリと、少しだけ不敵に笑ってみせた。
「この手帳に、お前のことがびっしり書かれてるんだよ。4月17日にギルド長官のオズワルドをレジ袋のバグで完全攻略したことも。お前が敵である長官の身すら案じる、優しすぎる女の子だってことも……。そして、もし俺の記憶が消えて、お前が『銅貨9枚と、鉄貨41枚』って合言葉を口にしたら、世界の誰よりもお前の味方になれって、過去の俺が狂ったように命令してきてるんだ。お前が彼女のヒーローになるんだ、ってさ。」
「あ……、あ……。」
アリアの薄い唇が、小さく開閉した。
彼女は、俺の手の中にある黒い手帳と、俺の顔を、何度も何度も往復するように見つめている。
「記憶は消えたよ、アリア。でも、俺の『覚悟』だけは、この世界のどんなバグシステムでも消せなかったみたいだ……。だから、はじめまして、アリア。1周目の俺の遺言通り、今度は2周目の俺が、お前のヒーローになりに来た。よろしくな。」
その瞬間だった。
アリアが必死に目元を緊張させて、奥へと押し留めていた大粒の涙が、堰を切ったようにボロボロと彼女の白い頬を伝って流れ落ちた。
「──ッ、な、なによそれ……っ!なによ、それえぇぇ……!!」
アリアは両手で顔を覆い、その場にぽろぽろと崩れ落ちるようにして泣き出した。
いつもなら『かっこいい冒険者』として毅然としているはずの彼女が、まるで小さな子供のように、声を上げて、肩を激しく震わせている。
「私、昨日の夜から、ずっと、ずっと怖かったんだから……っ!0時が過ぎて、朝になって、カナタの部屋のドアを叩くとき、本当に私のことを見知らぬ他人を見るような目で、冷たくあしらわれたらどうしようって……っ!『はじめまして』って笑うの、どれだけ練習したと思ってるのよ、カナタのバカ……!!」
顔を覆った指の隙間から、涙でぐしゃぐしゃになった水色の瞳が、恨めしそうに俺を睨みつけてくる。
その瞳は、寂しさと、恐怖と、探っていた安堵と喜びで満たされていた。
俺たちの絆は、この世界の忘却の呪いをハッキングして、完全に再リンクを果たしたのだ。
その後、ひとしきり泣きじゃくったアリアは、俺の布団の下から覗くバキバキに砕け散ったスマホと、机に綺麗に開いた指の形の穴を見つけて言った。
「ちょっとカナタ、起きて数分で何やらかしてるのよおおぉぉ!?」
宿屋の部屋に、アリアのいつもの、呆れたような、だけどどこか嬉しそうなツッコミが響き渡った。
さっきまでの涙で濡れた顔のまま、腰に手を当てて俺を指差す彼女の姿は、手帳に書かれていた通りの『お騒がせな相棒』そのものだ。
「いや、違うんだアリア。俺としては、ちょっと画面を叩いて日付を確認しようとしただけで……。」
「トントンって叩いただけで机を貫通して床まで見えそうになってるじゃない!どんな叩き方したらそうなるのよ!っていうか、その黒くて薄い板、完全に粉々じゃないの!それ、あなたの世界の魔導具なんでしょ!?」
「あー、うん。スマホっていうんだけど……。まぁ、完全に天に召されたな。液晶がバキバキなんてレベルじゃねえや。」
俺は布団の奥から、無惨にひしゃげたスマホの残骸を拾い上げ、苦笑しながらサイドテーブルの上に置いた。
1周目の俺のログを読んだ直後だからこそ、自分の指先に宿る『オール941』のバグステータスの理不尽さが、リアルな感触として心に馴染んでいく。
アリアはまだ少し赤くなった目元をパチクリさせながら、壊れたスマホと、俺の手帳を交互に見つめた。
「……でも、本当に驚いたわ。まさか、あの手帳にそんなことまで書いてあったなんて。昨日までのあなたの記憶は全部消えちゃったのに、手帳の文字を読んだだけで、私のことをそんな風に言ってくれるなんて思わなかったから……。」
「1周目の俺が、優秀で助かったよ。アリアの腕の怪を励ました手の温もりを忘れるなって、相当な熱量で書かれてたからな。」
「なっ、ちょっと!それ、本気で言ってるの……っ!?」
アリアは尖ったエルフの耳を一瞬で真っ赤に染め上げ、ブラウスの袖で顔を隠すようにして、ぷいっと横を向いてしまった。
後ろから見ていると、その細い肩が恥ずかしさで小刻みに震えているのが分かって、なんだか無性に愛おしくなる。
記憶はなくても、魂が彼女に一目惚れするって、こういうことか。
「も、もう!からかわないでよ!とにかく、そんなデタラメな筋力のまま街に出たら、今度はギルドの本部じゃなくて街そのものが物理的に粉砕崩壊しちゃうわ!今日からまた、その力を隠して制御する方法を叩き込んであげるから!」
「あぁ、頼むよ。前回の俺も、お騒がせ精霊の古着屋で魔力遮断の指輪を買って気配を抑えてたみたいだしな。」
「えっ?ルネさんの古着屋のことも手帳に書いてあるの?」
「バッチリ書いてあるぞ。ついでに、フリクションペンが『文字を無に還す神聖魔法の術式』って勘違いされて、店丸ごと物々交換されそうになったってこともな。」
それを聞いたアリアは、「あちゃあ……」と額を押さえて深いため息をついた。
「ルネさん、相変わらず商魂たくましいというか、勘違いが斜め上だわ……。でも、そうね。まずは身だしなみを整えて、ルネさんの店へ行って使い物にならなくなった『魔力遮断の指輪』をもう一度手に入れないと。今のカナタ、歩くだけで周囲の空気がピリピリしてて、野生の魔獣なら一瞬で気絶するレベルの威圧感を放っているもの。」
「マジか。自分じゃ全然気づかないもんだな。」
俺は自分の両手を開閉してみる。
確かに、一歩歩くごとに足の裏から床がメリメリときしむような、おかしな手応えがある。
「幸運:941」のおかげで、宿の床が踏み抜けない程度のご都合主義は働いているみたいだが、早急に制御リングを手に入れないと、街の門をくぐる前に衛兵に包囲されかねない。
「よし、じゃあ出発の準備をしよう。アリア、1ヶ月目の俺がやらかしたカオスな伝説、歩きながらもっと詳しく教えてくれよ。特務衛兵をカレーローションと激辛スパイスで壊滅させたってくだり、気になりすぎて夜しか眠れそうにない。」
「ちょっと、なんでそんな恥ずかしい事件ばかり真っ先に食いつくのよ!あれは本当に大変だったんだからね!?」
アリアはぷんぷんと怒ったように頬を膨らませながらも、その水色の瞳には、もう先ほどまでの寂しさは一切なかった。
「……また、記憶喪失になりかねない──。」
ふと、部屋の鏡に映る自分の姿を見つめながら、俺は小さく独白をこぼした。
今日から始まる新しい1ヶ月。
世界の無慈悲なルールがそのままなら、きっと今月末にも、俺は再びすべてを忘れてしまうのだろう。
だけど、もうそこに進む恐怖はなかった。
記憶をなくした5月1日の朝。
世界の呪いによって頭の中は真っ白にされたけれど、1周目の俺が遺した手帳のログと、アリアが勇気を振り絞ってくれた最強の合言葉によって、俺たちの絆は忘却の壁を超えて、完全に再リンクを果たしたのだから。
「神様の作ったシステムがどれだけクソだろうが、何度だってハッキングして書き換えてやるさ……。よし、待たせたなアリア。2周目の異世界攻略、はじめようぜ。」
「ええ!特等席でその規格外な力、また見せてもらうんだから!」
手帳をしっかりとポケットに押し込み、俺はアリアと共に宿屋の部屋のドアを開け放った。
窓から差し込む5月の爽やかな朝光が、俺たちの行く手を眩しく照らしている。
記憶を失った少年と、記憶を繋ぎ止めたエルフの少女。
2人の、新しくも懐かしい『2ヶ月目』の異世界攻略が、今、ここに最高の日常と共に本格的なスタートを切った。
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