第一章11 最初の仕事は、リフォームから
1周目の俺のログは、本当に正確だった。
宿屋の古びたドアを開け、五月の爽やかな朝光が満ちる大通りへと一歩を踏み出した瞬間、俺は文字通りそのことを肌で実感させられていた。
「ねえカナタ、何ぼーっとしてるの?ほら、早く行かないとルネさんの店、午前中の監査が始まっちゃうわよ?」
隣を歩くのは、透き通るような空色の髪を揺らしたエルフの少女、アリア。
淡い水色のブラウスに白いキュロットスカート。
髪の結び目には青い髪飾り、そして手首には優しく光る真珠のブレスレット。
俺のポケットに収まった『黒い手帳』の10ページ目に、1周目の俺が脳汁を撒き散らしながら殴り書きしていた通りの、息を呑むほど可愛い相棒の私服姿がそこにあった。
「いや、ちょっと自分の体の重さに感動しててさ。」
「体の重さ……?もう、カナタったら変なことを言うのね……。まだ、頭痛が残ったりはしていない?無理はしちゃダメよ?」
アリアは少しだけ心配そうに美しい水色の瞳を揺らし、俺の顔を覗き込んできた。
記憶を失ったばかりの俺をどこまでも気遣ってくれるその優しさに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
俺は笑って「大丈夫、平気だよ」と応えたが、内心では安堵で冷や汗をかいていた。
一歩進むごとに、周囲の空気がピキピキと音を立てて張り詰めていくのが分かる。
指先ひとつでスマホを粉砕し、机に風穴を開けた数分前と同じく、今の俺の体には一切のブレーキがかかっていない。
宿の床を踏み抜かないのは、神様がくれた『幸運:941』の自動調整が辛うじて働いているからだろう。
だが、意識して力を抜こうとしても、全ステータスが固定されている俺には「手加減」という概念そのものが存在しなかった。
「カナタ、やっぱり歩くだけでもの凄い威圧感が出ちゃってるわよ……。ほら、私の後ろに隠れて、できるだけ体を小さくして歩いてね?」
隣を歩くアリアが、俺の歩調に合わせてそっと寄り添うように位置を変えた。
すべてを忘れてしまった俺が孤立しないよう、さり気なく味方であり続けてくれる彼女の行動に、胸の奥に確かな信頼感が灯る。
1周目のラストで、俺はギルドの精鋭部隊と戦うために『魔力遮断の指輪』を床に投げ捨ててしまったらしい。
レジ袋の中に回収はしてあるものの、一度外した指輪は俺のデタラメな魔力と筋力に当てられて一時的に機能が狂っているらしく、今は使い物にならない。
『手帳のログ:4月2日、お騒がせ精霊の古着屋で購入。身に付ける者の気配とデタラメな魔力を完全に隠蔽する銀のリング。これがないと歩くだけで周囲の人を威圧してしまう。万が一のために、動けるようになったら真っ先に予備を買いに行くこと。』
「前回の俺、マジでグッジョブだな……。このログがなきゃ、今頃街の衛兵に包囲されてた。」
「カナタ、さっきから何をごちゃごちゃ呟いてるの?……あ、もしかしてまたお腹が空いたとか?前みたいに、また妙な異界の食べ物を取り出したりしないでね?」
アリアは俺の黒い上着の袖口をきゅっと掴み、軽く周囲を警戒しながら歩調を合わせてくれる。
時折、すれ違う冒険者たちが俺の放つ気配に本能的な恐怖を感じたのか、ビクリと肩を揺らして道を開けていく。
そのたびにアリアが「すみません、この人ちょっと寝起きが悪くて!」と愛想笑いを振りまいて誤魔化してくれた。
彼女の後ろ姿を見つめながら、俺は上着のポケットの中でフリクションペンをカチリとノックした。
頭の中は真っ白な『はじめまして』。
なのに、ポケットのノートを開けば、世界をハッキングするためのログがすべて揃っている。
2周目の異世界攻略。
どうやら、思った以上に退屈しない1ヶ月になりそうだ。
大通りの賑やかな喧騒を抜け、俺たちは表通りから一歩外れた薄暗い裏路地へと足を踏み入れた。
アリアの言う通りにできるだけ猫背になり、湿ったレンガの壁を伝ってしばらく進んだ先にある、怪しげな蔦の絡まる木製のドア。
そこが目的の場所だった。
カランカラン、とひび割れた真鍮の鈴が鳴る。
「あら、アリアじゃない。それに……。」
店の奥から姿を現したのは、人間サイズのエルフの女性。
どこか妖艶な雰囲気を纏ったこの店の店主、ルネさんだ。
彼女は俺の顔を見るなり、その端正な顔立ちを綺麗に引き攣らせ、カウンターから盛大に身を乗り出してきた。
「随分とデタラメな気配を剥き出しにしたお兄さんねぇ!っていうか、この間最高級の『魔力抑制のベスト』を試着しただけで肉体の力で爆破して、銀貨をドッサリ積んでいったのはどこの誰かしら!?」
──手帳のログ:4月2日。ルネの店でベストを試着したら、オール941の筋力に耐えきれずトマトのように四散した。嘘みたいだがマジだ。
「あ、やっぱりガチで爆破してたんだな、俺……。」
「お兄さん!?なんで他人事みたいに感心してるのよ!最高級の魔獣の革よ!?まぁ、弁償代はきっちり貰ったから文句は言わないけれど!」
ハァ、とルネさんは大げさにため息をついたが、次の瞬間、その目が獣のようにギラリと怪しく光った。
「それよりアリアちゃん。今日はお兄さんのあの『世界に刻まれた記録を無に還す神聖魔法の魔筆』を、この店丸ごとと物々交換する手続きをしに来てくれたの!?」
身を乗り出しすぎてカウンターから落ちそうなルネさんに対し、俺は懐の『黒い手帳』の記述を脳内でなぞりながら、ごく冷静に胸を張って言い放った。
「いいえ。前回の俺の遺言でも、このペンは俺の生きていくための相棒だから絶対に手放すなって書いてあるので無理です。」
「遺言っ!?お兄さんこの間までピンピン生きてたわよ!?あと相棒って何!?というかさっきから誰の文字を読んで喋ってるのよおぉぉ!」
ルネさんのもっともすぎる絶叫が薄暗い店内に響き渡る。
隣を見れば、アリアが「あちゃあ……」と言わんばかりに片手で額を押さえ、ぷるぷると肩を震わせて必死に笑いを堪えていた。
「もう、ルネさん、からかわないで。今日はあの魔力遮断の指輪を、もう一度買いに来ただけ。カナタ、ほら、お会計して。」
アリアに促され、俺は腰の革袋から銀貨を一枚取り出した。
正式な通貨での支払いに慣れていない俺は、1周目の俺が日常的にやっていたであろう、小銭を揃えるためのごく自然な動作――右手の指先をカウンターに向けて「トントン」と。
「ス、ストーーーーップ!!!ダメええええええええええええッッッ!!!!」
その瞬間、アリアの悲鳴のような絶叫が炸裂した。
アリアの鼓膜を震わせるような絶叫とほぼ同時に、視界が猛スピードでブレた。
何が起きたのかを脳が認識するより早く、俺の右手首に強烈な衝撃が走る。
アリアが文字通り全力の跳躍を見せ、カウンターへ振り下ろされかけていた俺の手を、まるで獲物に飛びかかる小動物のような勢いでガシッと両手で掴み取ったのだ。
「ひゃうっ……!?」
そのまま勢い余ったアリアの体が俺の胸元に思いきり飛び込んできて、柔らかい感触と、どこか甘い花のようないい匂いが鼻腔をくすぐる。
だが、今の俺たちにそんなラッキースケベを堪能している余裕は1ミリもなかった。
アリアは顔を真っ赤にしながらも、俺の手首を親指と四指でこれ以上ないほど強固にホールドし、涙目で俺を見上げてくる。
「か、カナタ、だめ……っ!お願いだから、その手を下ろしちゃだめ……!ルネさんの大切なカウンターが、本当に壊れちゃうから……っ。」
「あ、いや……ただ小銭の端数を揃えようと、トントンって叩き直そうとしただけで……。」
「ううん、その『トントン』は絶対にだめなの……!お願いだから思い出して……!筋力だけは、まだ上手に崩せないんだからね……?」
アリアはハァハァと激しい息を吐きながら、俺の手をこれでもかと強く握りしめている。
その指先は驚くほど小さくて、少しひんやりとしていて、そしてびっくりするくらい震えていた。
すべてを忘れてしまった俺が、また無意識に周囲を破壊してしまうんじゃないか。
またギルドに目を付けられて、どこか遠くへ連れ去られてしまうんじゃないか。
彼女の小さな手の震えは、そんな健気な恐怖と、俺を絶対に守るという強い覚悟の現れそのものだった。
「ごめん、アリア。ちょっと手帳のログの復習が足りてなかった。」
「ううん、私がもっとちゃんと見てなきゃいけなかったのに、ごめんなさい……。でも、本当に無事でよかった……。」
ほっと胸をなでおろしたアリアは、そこでようやく自分が俺の胸に飛び込み、恋人繋ぎ以上の密度で両手をがっちりと絡ませ合っているという現状に気がついたらしい。
水色の瞳が丸くなり、視線が俺の手元から胸元、そして俺の顔へとゆっくり上がってくる。
「あ……。」
「ん?」
「え、あ、あの、これは、その……っ!ご、ごめんなさい!私はただカナタの暴走を止めようと必死だっただけで、変な下心があったわけじゃなくて、その……!」
みるみるうちにアリアの顔が耳の先端まで真っ赤に染まっていく。
慌てて手を離そうとするアリアだったが、今度は俺がその小さな手を、ほんの少しだけ力を込めて握り返した。
「ありがとな、アリア。止めてくれて。」
「う、ぅぐ……っ。ずるい、記憶がないくせに、そういうところだけずるいよ……。」
アリアは完全に容量オーバーを起こしたようで、蚊の鳴くような声でボソボソと呟くと、そのまま俺の黒い上着の胸元に額をコツンと預けて、完全にフリーズしてしまった。
そんな俺たちの甘酸っぱいやり取りを、カウンターの向こう側から、死んだ魚のような目で見つめている人物が一人。
「……ねえ。この間ベストを爆破された段階で薄々察してはいたけれど、アリア、朝から一体何を見せつけられてるのかしら?」
頬杖をついたルネさんが、これ以上ないほどジト目になりながらパチパチと瞬きをしていた。
その視線は、俺たちの繋がれた手と、アリアの真っ赤な後頭部に固定されている。
「お兄さん。記憶がどうとか遺言がどうとか電波なこと言ってた割には、アリアちゃんをたらし込む手際だけは超一流じゃない。この間あんなに神聖魔法のペンをケチってたくせに、アリアちゃんにはそんな国家予算級の深海真珠のブレスレットを貢いじゃってさぁ。」
「ルネさん!からかわないでって言ってるでしょ……っ!これはカナタが昨日、その、一生懸命取ってくれた大切なものなの!」
「はいはい、ごちそうさま。それで?お会計の銀貨がまだカウンターに届いてないんだけど、まさかこのまま私を無視して愛の逃避行でも始める気?」
ルネさんの呆れた声に、アリアは弾かれたように俺の胸から飛び退いた。
そのまま、俺の手からひったくるようにして銀貨を奪い取ると、今度は一切の「トントン」が発生しないよう、まるで高級なガラス細工でも扱うかのように慎重な手付きでカウンターの上へ銀貨を滑らせる。
「はい!お会計!これで魔力遮断の指輪の予備をちょうだい!」
「はいよ。まいどあり……。まったく、お兄さんのあのデタラメな気配、早くその指輪で引っ込めなさいよね。店の中の魔導具たちが、さっきから恐怖でカタカタ震えっぱなしなんだから。」
ルネさんは苦笑しながら、カウンターの奥から小さなベルベットの箱を取り出した。
蓋を開けると、そこには俺のホンペンの袋の中にあるものと全く同じ、鈍い銀色に輝くシンプルなリングが収まっていた。
1周目の俺が、この世界で最初に手に入れた「命綱」の予備。
アリアが身を挺して守ってくれた、これからの2周目を生き抜くための大切な防壁だ。
「ありがたく使わせてもらうよ、ルネさん。」
「いいってことよ。あ、それとアリアちゃん、お兄さん。今街を出るなら、ちょっと中央通りの掲示板は避けて裏道から行ったほうがいいわよ?」
商品を袋に詰めながら、ルネさんがふと思い出したように、店の外の路地へと視線を向けた。
「掲示板?何かあったんですか?」
俺が首を傾げると、ルネさんはどこか楽しげに、それでいて少しだけ引き攣った笑みを浮かべた。
「何かっていうか……今朝からギルドの衛兵たちが、血相を変えて街中に『とんでもない求人票』を配り歩いてるのよ。特にギルドのオズワルド長官が、夜も眠れないくらい精神的に追い詰められてるらしくてねぇ。」
──手帳のログ:4月17日。ギルド本部に殴り込みをかけ、オズワルド長官と全面対決。色々あって長官を完全降伏させた。詳細は省くが俺の勝ちだ。
手帳のログにある『色々あって』という雑すぎる記述が、脳裏を不吉によぎる。
アリアも同じことを思い出したのか、引き攣った笑顔のまま、恐る恐るルネさんに尋ねた。
「……ねえ、ルネさん。その求人票って、一体どんな内容なの?」
「それがねぇ、私も二度見しちゃったんだけど――。」
「……ギルド本部の一画を、謎の『スープ状の超高粘度潤滑油』で満たした不届き者がいるらしくてね。しかも、よりによってそこへ、呼吸器を破壊するレベルの『超激辛香辛料』を高濃度で混合して、部屋ごと爆破トラップに変えてやがったらしいのよ。」
ルネさんは大真面目な顔で、とんでもない国家機密級の惨状を暴露し始めた。
「おかげでギルド最高戦力のはずのエリート特務衛兵たちが、誰一人として侵入者に触れることすらできず、スープまみれで激痛にのたうち回りながら全滅。精神崩壊した彼らを救い出すために、今は聖職者たちが総出でトラップの『解呪』を試みてるらしいんだけど……これがまた、ただのスープのくせに神聖魔法の結界より頑丈で、一向に除去できないんだって。だから今朝、オズワルド長官の直筆で街中に緊急要請が出されたわけ。」
そこまで言って、ルネさんはカウンターの下から一枚の羊皮紙を引っ張り出し、俺たちの前にひらひらと提示した。
【急募:ギルド本部・特務待機室の『魔の超高粘度潤滑油の床』および『激辛スパイス大爆発』の完全清掃、ならびにマホガニー製高級執務机の修繕を行える超上級魔導建築士。報酬・白金貨3枚。なお、激辛成分により精神に異常をきたした特務衛兵のメンタルケアを行える者には、追加で金貨5枚を支給する。――ギルド長官オズワルド】
「……え、えぇ……?」
隣で求人票を覗き込んでいたアリアが、あまりの文面に衝撃を受けたのか、呆然とした様子で小さく口元を押さえた。
水色の瞳を限界まで丸くして、その綺麗な眉を困ったように下げている。
そりゃそうだ。
ファンタジー世界の最高権力機関が出す格式高いはずの公文書に、『魔の超高粘度潤滑油の床』なんていう、前代未聞の奇妙な単語がこれでもかとデカデカと踊っているのだから。
「ア、アリア、これ……。」
「ど、どうしましょうカナタ……っ。長官、本当にかわいそう……!あんなに威厳のある人だったのに、こんなお触れを出さなきゃいけないなんて……っ。この前、私たちがギルドをあんなにしちゃったから、今頃生きた心地がしてないわよ……!」
アリアは涙目になりながら、本気でオズワルド長官の胃の限界を心配して、申し訳なさそうに胸元できゅっと両手を合わせている。
悪党に仕立て上げられそうになった相手なのに、やりすぎた被害に対して本気で心を痛められる、どこまでも優しくて健気な俺の相棒だった。
だが、俺の方は全く笑い事ではなかった。
背中にじっとりと冷や汗が伝うのを感じながら、俺はポケットの『黒い手帳』のページを、脳内で高速でめくり直していた。
──手帳のログ:4月17日。ギルド本部特務待機室。無傷で気絶させようと軽く指を鳴らしたら、『幸運:941』のせいでピタゴラスイッチが作戦開始。湯沸かし器の爆発、スープの床でのスリップ、激辛スパイスの直撃など、数々の不運な連鎖によって衛兵たちが直接触れることなく自滅・全滅した。
「……俺だ。これ、完全に1周目の俺のやらかしだわ。」
「そうよ!カナタがこの前、私のためにギルド中を大パニックにしちゃった結果がこれね。」
俺の小さな呟きに、アリアは困ったように眉を下げながらも、どこか愛おしそうな苦笑いを浮かべた。
水色の瞳を優しく細め、俺の黒い上着の襟元を優しくきゅっと掴んで、上目遣いに俺を見上げてくる。
「思い出したんじゃなくて、手帳に書いてあっただけでしょ?もう、本当に規格外な力なんだから……。カナタの手帳には『スープの床』って書いてあるかもしれないけどね、あの時、私のケガに怒ったカナタが凄い気配を出すから、幸運の力働いちゃって……特務衛兵たちの夜食のスープ鍋がひっくり返って、部屋中が大変なことになっちゃったのよ。」
「スープ鍋……?」
「そう。それがカナタのデタラメな魔力と混ざって、あんな絶対に消えない『魔の超高粘度潤滑油の床』になっちゃったの。オズワルド長官をハゲるほど追い詰めちゃったのは申し訳ないけど……でも、私を守るためにそこまで全力になってくれたんだもんね。ありがとう、カナタ。」
「い、いや、前回の俺がやったことで、今の俺には全く身に覚えがなくて照れるというか……っ。ほら、アリア、あんまり近くに寄ると豆腐の加減が狂ってルネさんの床を踏み抜いちゃうから!」
「あ、危ないから踏み抜かないでっ!……もう、記憶がなくなっても照れ隠しの仕方は変わらないんだから。」
アリアはクスリと笑うと、少しだけホッとしたように俺の胸元に小さく寄り添った。
自分のために世界を敵に回すような無茶をしてくれたヒーローへの、彼女なりの最大限の信頼と優しさがそこにはあった。
そんな俺たちのパニック映画のようなやり取りを、カウンターの向こうで見ていたルネさんが、今度は頬杖をついたまま完全に目を見開いた。
「……ちょっと、お兄さん。今の話、本当?」
「え? あ、いや、えっと……。」
しまった、完全に口が滑った。
ルネさんは、俺がポケットに手を突っ込んで『手帳』の感触を確かめている様子と、アリアの尋常じゃない狼狽えっぷりを見て、すべてを察したように引き攣った笑みを深くした。
「なるほどねぇ……。オズワルド長官を完全降伏させて、お触れまで全部白紙にさせた『規格外の怪物』の正体って、この間私の店でベストを爆破した電波系お兄さんだったわけだ。道理で、指輪なしの時の気配が魔王軍の幹部より恐ろしいわけよ。」
「ル、ルネさん……!今の話は、その、国家機密というか、ギルドには内緒にしてほしくて……っ!」
アリアが慌ててルネさんに向かって両手をぶんぶんと振るが、ルネさんは「安心しなさいって」と、ひらひらと手を振ってそれを制した。
「私はギルドの監査が大嫌いな非公認の商人よ?ギルドが鼻面ひねられて大恥かいてるなんて、むしろ酒の肴にちょうどいいくらいだわ。通報なんて面倒なこと、これっぽっちもする気はないわよ……。ただ、そうねぇ。」
ルネさんは怪しく目を細めると、すっと人差し指を立てて、俺の胸ポケットを指差した。
「その、お兄さんがさっきからチラチラ見てる『遺言が書いてある黒い冊子』と、文字を消せる『神聖魔法の魔筆』。あれ、やっぱり白金貨3枚以上の価値があるんじゃない?ねえ、本当に店ごと交換しない?」
「ごめんなさい、やっぱりできません。これがないと、2周目の俺は明日何をしていいかも分からなくなるので。」
「ちぇー、ケチ。まぁ、命綱じゃあ引き下がってあげるわよ。――ほら、これ予備の指輪。おしゃべりはここまでにして、早くそれをはめて、その恐ろしい気配を消しなさいな。これ以上ここにいたら、私の店の可愛い精霊たちが全員ショック死しちゃうわ。」
ルネさんからベルベットの小箱を受け取り、俺は中から二代目となる『魔力遮断の指輪』を取り出した。
アリアがハラハラとした様子で見守る中、今度は細心の注意を払って、左手のひと差し指へとその銀のリングを滑り込ませる。
カチリ、と微かな魔力の駆動音が響いた。
その瞬間、世界から音が消えたかと思うほど、俺の身体から狂ったように溢れ出ていたデタラメな威圧感が、完全に世界の境界線の向こう側へとシャットアウトされた。
ピキピキと鳴っていた周囲の空気が一瞬で弛緩し、店の隅でカタカタと震えていた怪しげな魔導具たちも、嘘のように静まり返る。
「……ふぅ。やっと普通の身体に戻った気分だ。」
「よかったぁ……。これでひとまずは安心ね、カナタ。」
アリアも自分のことのようにほっと胸をなでおろし、ようやくいつもの眩しい笑顔を取り戻してくれた。
指輪の予備も手に入り、気配の隠蔽も完璧。
これでようやく、『2周目の異世界攻略』の準備が整ったわけだ。
「さて、ルネさん、色々とありがとう。それじゃあ俺たちはこれで――。」
「あ、待って、お兄さん。最後にこれ、お近づきの印に持って行きなさいよ。」
店を出ようとした俺たちを引き留め、ルネさんがカウンターの上にとある奇妙な球体を転がした。
それは、半透明のガラスのような材質でできており、中に小さな新緑の若葉が封じ込められている、不思議なオーナメントのような道具だった。
「これは……?」
「『精霊の落とし物』。まぁ、ちょっとした実用魔導具よ。中に風の精霊の悪戯が仕込まれててね、衝撃を与えると、周囲の物質の摩擦抵抗を数分間だけ完全にゼロにするっていう、使い道に困る代物なんだけどさ。この間ベストを爆破された時、お詫びに何かオマケをあげるってアリアちゃんと約束してたのよ。」
ルネさんはウィンクしながら、その球体を俺のホンペンのポリ袋の中へと放り込んだ。
──手帳のログにはないアイテムだな……。摩擦抵抗をゼロにする魔導具、か。
現代日本で言えば、超強力な潤滑油、あるいはコーティング剤のような効果だろうか。
何に使うかは全く想像がつかないが、俺の『幸運:941』がこれを引き寄せたのだとしたら、いずれ思わぬやらかしの役に立つのかもしれない。
「ありがとう、ルネさん。大事に袋に入れとくよ。」
「ええ、役に立つといいわねぇ。オズワルド長官のリフォームの手伝いに行くなら、特にね。」
ルネさんの不敵な笑い声に見送られながら、俺たちはお騒がせ精霊の古着屋のドアを押し開け、再び裏路地へと出た。
5月の爽やかな風が、俺とアリアの髪を優しく揺らす。
指輪のおかげで、もうすれ違う冒険者たちが怯えて道を開けることもない。
俺たちはごく普通の、どこにでもいる仲の良い冒険者のペアとして、中央大通りへと戻ってきた。
「ねえ、カナタ。これからどうする?ルネさんの言う通り、長官の求人票がある掲示板は避けて、大通りの食堂にでも向かう?」
アリアが俺の顔を覗き込み、これからの予定を楽しそうに尋ねてくる。
だが、その瞬間――俺の視界の端で、何かが不自然にギラリと光った。
バサササッ!と、突風が吹いたわけでもないのに、中央大通りの掲示板から一枚の羊皮紙が不自然に剥がれ落ち、まるで意志を持っているかのように空を舞った。
そして、一直線にこちらへと飛んできて――。
ペタァッ!!!
「ぶふっ!?」
信じられない精度で、俺の顔面にジャストミートして張り付いた。
「も、もがーっ!?なんだこれ!?」
「キャッ!?カ、カナタ、大丈夫!?いま、何かが凄い勢いで顔に……!」
慌てて顔から羊皮紙を引き剥がし、その内容を見た瞬間、俺とアリアは同時に声を失った。
そこには、さっきルネの店で見たばかりの、【魔の超高粘度潤滑油の床清掃・報酬白金貨3枚】という、オズワルド長官の直筆求人票がデカデカと印刷されていた。
「……アリア。これ、神様がくれた『幸運:941』の仕業だな?」
「う、嘘でしょ……!?掲示板を避けて歩いてたのに、向こうから飛び込んできちゃうなんて……!」
どうやら世界は、俺に自分のやらかした後片付けをさせたくてたまらないらしい。
顔を真っ青にするアリアの横で、俺は呆れ果てながらも、どこか獰猛に唇を吊り上げた。
「いいぜ、上等だ。アリア、予定変更。2周目の最初の仕事は、ギルド長官室のリフォームに決まりだ。前回の俺のやらかしのケツを拭きつつ、ついでにその偉そうな長官に、もう一回お会計を請求しに行ってやろうぜ。」
俺はフリクションペンを力強くカチリとノックし、手帳の新しいページへと文字を刻むべく、ギルド本部への道を不敵に歩き出すのだった。
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