第一章12 今日からお世話になる新米職人です
──ギチ……。
油の切れた重苦しい音を立てて、マホガニーの扉が開く。
一歩足を踏み入れた瞬間だった。
俺の鼻腔を、激しい臭気が突き抜けた。
高級な葉巻の香りではなく、格式高いアロマでもない。
現代日本の安価な定食屋を想起させる、異常なまでに濃厚な「激辛カレースープ」の臭いだ。
天井の最高級魔導スプリンクラーは、いまだに稼働していた。
1周目の俺のやらかしから、実に2週間以上が経過しているというのに。
プシュー……プシュー……と、壊れた機械のように虚しい冷たい雨を降らせ続けている。
正面玄関から堂々と最上階まで上がってきた俺たちだったが、目の前の光景は完全に地獄絵図だった。
床一面が、とんでもないことになっている。
最高級の羊皮紙や、豪奢な絨毯。
それらがすべて、スプリンクラーの冷水とひっくり返ったルーの油分によって水浸しになっていた。
融合した液体は水深数センチに達している。
文字通り『神聖解除魔法すら弾く呪いの超高粘度激辛カレーローションの海』だ。
その地獄絵図の最奥。
ひしゃげた高級ソファーに、一人の男が深く腰掛けていた。
かつて数々の国家級魔獣を討伐し、生ける伝説と称えられたギルド長官オズワルドだ。
長官は、ハゲそうなほどやつれた顔で両手で頭を抱えていた。
ブツブツと、呪詛のように何かを呟いている。
「……なぜだ。なぜ我がギルドの誇る一級建築魔導師たちが総出で解呪を試みて、ただのスープの油分一枚すら除去できんのだ……っ!聖水蜜を混ぜようが、不滅草の術式を展開しようが、床に触れた魔導具がことごとくローションの因果に囚われて滑り落ちていく……これは、神の領域の呪いだというのか……っ!」
どうやら、この部屋で起きた出来事は、老英雄の脳裏に消えない恐怖を刻み込んでいたらしい。
指先一つのノックで極秘の隠し通路をハッキングした怪物。
たかが黄色い鳥の描かれたレジ袋で、伝説の聖剣を完全攻略した正体不明の『歩く天災』。
それが、今の俺のことだ。
さらに恐ろしいのは、俺の持っている手帳が、あの世界の歴史を強制的に書き換える『最悪の因果固定の神の遺物』だと思われていることだ。
あそこに書き込まれた『全裸でギルド万歳スープ溺死劇』というおぞましいシナリオ。
──いや、待て。冷静に考えてほしい。俺が持っている黒い手帳は、ただのノートだ。
日本のホン・キホーテの文房具売り場で、5冊束になって数百円で売られていた安物である。
神の遺物でもなければ、歴史を書き換える不条理な力なんてこれっぽっちもない。
記憶喪失対策に、俺が必死に書いたただの日常の記録用紙だ。
だが、オズワルド長官は本気で怯えていた。
ルネさんの店での「フリクションペンで文字が消える現象」を神聖魔法か何かと誤解した結果、このオズワルド長官の脳内は、完全に斜め上のパニックを起こしているらしかった。
ノートに悪口を書かれたら、世界のシステムが作動して本当に全裸でスープに溺れる未来が強制確定する。
そんな、デスノートもびっくりの最悪の呪いの書だと勝手に勘違いしているのだ。
その破滅の確定を回避するため、彼は長官としてのプライドを犬にでも喰わせ、すべての捜索命令を白紙に戻すしかなかったのだ。
だが、物理的に残されたこの長官室だけはどうにもならない。
特務衛兵たちはカレーの匂いがするだけで「ギルド万歳!」と叫んで失神する奇病を患ってしまった。
部屋は完全に使い物にならない。
胃に穴が空きそうな絶望の末に、彼は街中に白金貨3枚の清掃求人を出したのだ。
「失礼しまーす!緊急求人の看板を見てやって来ました、リフォーム業者のカナタです!あと、こちらは助手の世界一可愛い笑顔のエルフことアリアさんです!」
静まり返った長官室に、俺の軽快な挨拶が響く。
「ちょっとカナタァァァッ!?何の脈絡もないところで手帳のログに書いてあった私の恥ずかしい二つ名を、公式の役職みたいに名乗るのやめてええぇぇ!?」
すかさず、アリアのキレのある絶叫ツッコミが木霊した。
アリアは耳の尖った先まで、一瞬で真っ赤に染め上げている。
俺の黒い上着の袖を両手ときゅっと掴んだ。
恥ずかしさのあまり、俺の後ろへと隠れてぷるぷると震えている。
「ぶ、ぶふっ!?」
「げ、お、お前は……ッ!?」
その声を聞いた瞬間、オズワルド長官の口から悲鳴が上がった。
この街の最高権力者とは思えない、踏み潰されたカエルのような声だ。
長官はソファーから弾かれたように飛び起きようとした。
しかし、床のカレーローションに思いきり足を取られる。
どわっ!?と無様な声を上げながら、豪快に宙を舞った。
そして、再びひしゃげたソファーへと尻餅をつく。
「な、なぜお前がここにいる……!お前に対するギルドの追跡はすべて白紙に、アリアの規則違反も休暇扱いで処理したはずだ!まさか、私へのさらなる追い打ちとして、その胸ポケットの黒い冊子に新たなる全裸の歴史を刻みに来たというのか……っ!」
長官はガタガタと震えながら、腰の黄金の聖剣に手をかけた。
だが、その目は剣を抜くためではない。
完全に、俺の胸ポケットの『黒い手帳』に釘付けになっている。
恐怖のあまり、大粒の冷や汗が滝のように顎を伝って滴り落ちていた。
「いや、何言ってるんですか長官。俺はただ、このお触れ書きに物理ハッキングされたから来たんですよ。」
2周目の俺には、このハゲかけた初老の英雄が、なぜこれほどまでに絶望し、怯えているのかがさっぱり分からなかった。
ただ純粋に、さっき俺の顔面にジャストミートしたあの羊皮紙を提示する。
「大通りを歩いてたら、この求人票が突風に乗って飛んできたんです。」
「もの凄い精度で、俺の顔面をピンポイントで襲撃してきました。」
「報酬を見たら『白金貨3枚』って書いてあったので、これはもう、お会計を請求……じゃなくて、真面目にリフォームの手伝いをするしかないなと。あ、はじめまして。今日からお世話になる新米職人です。」
「は、はじめまして……!?」
「記憶を失ったというのは真実だったのか……!だがお前、今『お会計』と言いかけたな……!?」
オズワルド長官の老練な知性は、俺の爽やかな「はじめまして」に1ミリも欺かれなかった。
長官は引き攣った顔のまま、限界まで見開いた目で俺を凝視している。
その視線は、俺の胸ポケットの『黒い手帳』へと完全に釘付けになっていた。
──いや、めちゃくちゃ深読みされてるな、これ。
俺がログを確認するために手帳のページをパラパラとめくるたび、長官の肩がビクッと大きく跳ね上がる。
額からは、滝のような冷や汗がダラダラと床のカレーローションへと滴り落ちていた。
どう見ても、記憶喪失のフリをした俺が、これから我が身に起きる理不尽な歴史を手帳の予言書から選別している──とでも言いたげな、底なしの恐怖に満ちた顔だ。
俺が単に「えーっと、前回のやらかしは……」と日記を読んでいるだけなのに、長官の視線は、まるで最悪の因果を選択しようとする魔王の挙動でも見守るかのように絶望しきっている。
勝手に一人で限界までパニックを起こして自爆していく長官。
それを余所に、俺は手帳のログの続きを確認した。
「えーっと、手帳の指示によると……。」
「『無傷で気絶させようと指を鳴らしたら、湯沸かし器とスープ鍋がピタゴラスイッチして大惨事になった』か。」
「なるほどね。この床のヌルヌル、全部前回の俺のやらかしじゃねえか。」
「よし、アリア。さっそくリフォームを始めよう。」
「だからリフォームじゃなくて清掃でしょおおぉぉ!」
「あと長官が心臓を押さえて白目剥きかけてるから、これ以上刺激しないでカナタァァァ!」
アリアのキレのある絶叫が室内に響き渡る。
俺はホン・キホーテのポリ袋の中から、ルネさんの店で貰ったばかりの半透明の球体を取り出した。
『精霊の落とし物』だ。
これを、ギルドの備品置き場から拝借してきたモップの先端へと、ヤケクソ気味に括り付ける。
「ルネさん曰く、摩擦抵抗を完全にゼロにする魔導具、だっけ。」
「カレーの油分を分子レベルで分解する、超強力洗剤として使わせてもらうよ。」
「いくぞ、アリア。『オール941』のハッキング・クリーニングだ!」
俺が一歩を踏み出した、その瞬間だった。
2代目の『魔力遮断の指輪』をはめているにもかかわらず、俺の『素早さ:941』が、清掃という平和的な行為に向けて完全解放された。
──ドゴォォォンッッッ!!!
室内の空気が、あからさまに爆発音を立てた。
大気が悲鳴を上げ、凄まじい衝撃波が円状に広がってスプリンクラーの冷水を吹き飛ばす。
俺の肉体は、すでに俺の動体視力を置き去りにしていた。
一歩踏み出しただけのはずなのに、視界が光の速さで後ろへと流れていく。
完全に『素早さ:941』の暴走だった。
残像。
文字通り、俺の身体が十数人の千手観音のようにブレて室内に同時出現している。
──シュバババババババババババババババババッ!!!
鼓膜を破壊しそうな超高速の衣擦れの音。
俺の手元で、ギルドの木製モップが激しいブレとなって空間を削り取る。
そのモップの先端が、床のカレーローションの海に触れた、その瞬間だった。
──パキィィィィィンッ!!!
まるで空間のガラスが割れたかのような、甲高い魔導音が長官室に響き渡る。
ルネさんの店で貰った『精霊の落とし物』が、俺のデタラメなステータスに反応して完全暴発したのだ。
「ひ、ひえぇぇぇぇぇぇ機能停止ぃぃぃ術式崩壊ぃぃぃぃぃっ!?」
ソファーの上で、オズワルド長官が裏返った悲鳴を上げた。
長官の目には、俺の超高速モップがけが『未知の神聖神撃魔法の超高速詠唱』にでも見えているらしかった。
──違う。
ただの雑巾がけのめちゃくちゃ早いやつだ。
だが、効果は絶大だった。
『精霊の落とし物』が持つ『摩擦抵抗を完全にゼロにする』という不条理な概念。
それが、床を覆う激辛カレーローションの分子をダイレクトに直撃する。
ドロドロとしていた粘性が、一瞬で完全消滅した。
超高粘度を誇っていたルーの油分が、摩擦を失ったことで文字通り「水よりもサラサラな液体」へと強制還元されていく。
油と水分が分離し、ただの透明な水へと変わる。
だが、本当の地獄はここからだった。
「わ、わああ黄金の騎士団あああああっっっ!?」
突然、オズワルド長官がソファーごと横滑りを始めた。
──ズザザザザザザザザザザッ!
と、凄まじい勢いで部屋の壁に向かって直進していく。
当然だ。
床の摩擦抵抗が『完全なゼロ』になったのだ。
少しでも傾斜があれば、あるいは少しでも重心が動けば、すべての物質が慣性の法則に従って無限に滑り続ける狂気のステージ。
それが、現在の長官室である。
高級ソファーが壁に激突し、オズワルド長官が「ぶふぇっ!?」と無様な声を上げて床に転げ落ちる。
落ちた長官は、そのまま今度は反対側の壁に向かって、アザラシのようにツルツルと滑っていった。
かつて数々の魔獣を屠った老英雄が、床の上で一切静止できずにバタバタと手足を動かしている。
生まれたての小鹿どころか、氷の上のマグロ状態だった。
「助けてくれぇぇぇ因果の魔王ォォォッ! この世界の摩擦を奪うなど、どのような神への反逆だぁぁぁ!」
「誰が魔王ですか!ちょっと滑りやすくなってるだけだから大人しくしててください!」
滑っていく長官に向かってアリアがツッコミを入れつつ、俺はモップを動かし続けた。
本来なら、摩擦抵抗ゼロの床の上では、俺だってまともに立てないはずだ。
一歩踏み出した瞬間に、長官のように壁までスライディングする運命にある。
しかし、俺には『幸運:941』があった。世界全体の確率論をハッキングするその理不尽な数値は、俺の足裏にだけ、奇跡的な確率で「滑らない絶妙なグリップ力」をピンポイントで提供し続けていた。
つまり、俺だけがこの摩擦ゼロの氷上カーリング場のような室内で、平然とサクサク歩き回れるのだ。
「よし、このまま一気に乾燥させるぞ!」
俺はさらにモップを加速させた。
『素早さ:941』の限界突破。
──ゴオォォォォォォッ!!!
長官室の中に、局地的な大型台風並みの烈風が吹き荒れる。
あまりの超高速摩擦によって、室内の温度が急上昇し始めた。
凄まじい熱量。
摩擦ゼロによって分離し、ただの水となったカレーの残滓が、俺の放つ熱によって一瞬で「ジュワァァァァァ!」と白い水蒸気へと変わっていく。
部屋全体が、まるでサウナのように真っ白な煙で満たされた。
「熱っ!?冷たい雨の次は熱気!?ねえカナタ、これ本当に清掃なの!?なんか部屋の石畳が赤く発光し始めてるんだけど!?」
入り口のドアノブを掴んで辛うじて耐えていたアリアが、煙の中で必死に絶叫している。
「大丈夫だってアリア!これがいわゆる『ヒートコーティング』ってやつだよ!俺の世界のDIY知識さ!」
「嘘をおっしゃい!床の分子が焼き固まる音が聞こえるDIYがあるわけないでしょおおぉぉ!」
アリアのツッコミの通りだった。
俺の放つ異常な熱量と魔力は、フリクションペンの原理──「熱によってインクを透明化させて消滅させる」という挙動を引き起こしていた。
ただの汚れ落としのつもりが、世界に刻まれた「激辛カレー」という歴史そのものを、熱で消し去っているのだ。
さらに、熱でドロドロに溶けた石畳の表面が、俺の超高速モップがけによって寸分の狂いもなく平らに均されていく。
本来なら職人が数日かけて行う床の研磨と乾燥のプロセスが、俺の理不尽なステータスによって、文字通り「コンマ数秒」で強制完了していった。
白い水蒸気が、開いた窓から一気に外へと抜けていく。
視界が開けたとき、長官室は完全に変貌していた。
ひび割れていたはずの石畳は、まるで一枚の巨大な宝石を切り出したかのように滑らかだった。
天井の魔導スプリンクラーは熱で完全に溶けて機能停止し、冷たい雨は止んでいる。
床は、部屋の高級な調度品を鏡のように美しく反射する、まばゆいばかりの『鏡面ガラスコーティング床』へと生まれ変わっていた。
「……よし。これで床のコーティングは完璧だな。」
俺はふぅ、と小さく息を吐き、モップを立てて満足げに頷いた。
時間はわずか数分。
完璧なリフォームの成果が、そこにはあった。
「……し、信じられん……。」
部屋の隅で、ソファーと壁の間に挟まれてカタカタと震えていたオズワルド長官が、呆然とした声を漏らした。
長官は、自分のハゲかけた頭部を寸分の狂いもなく美しく映し出しているピカピカの床を見つめ、絶望に満ちた目で俺を見上げてくる。
「宮廷魔導師たちが束になっても解除できなかった『因果の呪い』を……たかがモップを数回振っただけで、世界の理ごと上書きして滅尽させただと……?これが……これが因果を統べる少年の、神聖なる『リフォームの儀式』か……!」
いや、だからただの掃除だって言ってるだろ。
長官は未だに俺の『素早さ:941』による異常な挙動が頭から離れないらしく、恐怖のあまり涙目でソファーのクッションを強く握りしめている。
普通の大掃除用のモップを動かしただけなのに、この長官の目には、俺という人間そのものが世界の法則を壊しにきたバグの塊にでも見えているらしかった。
「さて、長官。床は綺麗になりましたけど……まだ終わりじゃないですよ。」
俺は手帳のログの次のページをパラパラとめくった。
そこには『激辛スパイス大爆発による壁と家具の汚染』について書かれている。
「ひっ!?つ、次は私に何の因果を突きつける気だ……!?」
手帳をめくる俺の指先を見て、長官の顔がさらに土気色に変わる。
俺がただ手帳で「次の掃除箇所」を確認しているだけなのに、長官にとっては「次なる破滅の預言」をめくって選別しているようにしか見えないらしい。
俺はレジ袋の底に視線を落とした。
ここに入っている日本のアイテムは、何も書かれていない4冊の黒い手帳の束とペンだけだ。
あとはルネさんの店で手に入れた、このモップの先に縛り付けてある半透明の球体。
「アリア、床の水気は飛んだけど、壁と家具に染み付いたこの赤い激辛スパイスの粉と、鼻を突くカレーの臭いはまだ残ってるな。」
「そうね……。お肉を焼く寸胴鍋が爆発したって手帳に書いてあったし、部屋の上半分はまだスープの油混じりの煙がこびり付いたままだわ。」
アリアが布で鼻を押さえながら、赤く汚れた壁のパッチワークを見上げる。
なるほど、床のローションは摩擦ゼロで吹き飛ばせたが、壁や高級な木製家具に染み込んだ「臭いと油汚れ」は、ただモップでこするだけじゃ落ちそうにない。
現代日本ならファブリーズンやら爆落ちくんやらがあるが、ここにあるのはモップと、摩擦をゼロにする『精霊の落とし物』だけだ。
「よし、じゃあ次はこれの応用だな。」
俺はモップの先端を、今度は長官室の壁へと向けた。
摩擦抵抗をゼロにするということは、言い換えれば物質の表面に働くあらゆる「吸着力」や「結合力」を無効化するということでもある。
つまり、壁の石材の隙間にガチガチに入り込んだカレーの粒子を、文字通り『一切留まれない状態』にして浮かび上がらせることができるはずだ。
「な、何を企んでいる……!その不気味な神聖遺物を、次は壁へと向けるというのか……っ!待て、よせ!その美しい鏡面の床だけで私は十分に満足している!これ以上の世界の改変は──。」
「いや、ただの壁掃除ですって。すぐ終わりますから、ちょっと風圧に気をつけてくださいね、」
俺はそう言って、再び『素早さ:941』のトリガーを引いた。
──ゴォォォォォォォッ!!!
再び長官室の空気が爆ぜ、局地的な暴風が吹き荒れた。
俺の肉体は『素早さ:941』の超速度によって、またしても千手観音の残像と化す。
俺は『精霊の落とし物』を括り付けたモップを両手で構え、部屋の壁一面を、まるで超高速のペンキ職人のように上下左右へと滑らせた。
木製モップの先端が、赤く汚れた石壁を撫でていく。
──シュババババババババババババッ!!!
モップが壁に触れた瞬間、摩擦抵抗ゼロの不条理な概念が、壁のミクロな隙間に染み込んでいた激辛スパイスの粉と油汚れをダイレクトに直撃した。
物質の表面に働くあらゆる「吸着力」が、強制的にゼロへと書き換えられる。
「あ、あれ……!?壁が、壁の赤みが勝手に剥がれていく……!?」
ドアノブに掴まっていたアリアが、驚愕の声を上げた。
アリアの言う通り、俺がモップで壁をひとなでするたび、石材にガッチリとこびり付いていた頑固なカレーの油煙と赤いスパイスの粉が、まるで磁力を失った砂のように「ポロポロ」と音を立てて壁から浮き上がってくる。
壁だけじゃない。
高級な木製の机も、本棚も、俺の放つ風圧がかすめるだけで、繊維の奥に入り込んでいた臭いの粒子ごと、すべての汚れが宙へと一斉に弾き出されていった。
本来なら完全に染み付いて修復不可能なはずの汚染が、文字通り『壁や家具に一切留まれない状態』になって、空間に放り出されているのだ。
「ひ、ひぃぃぃぃぃっ!今度は壁の歴史まで剥ぎ取りおったぁぁぁ!」
ソファーの隅でアザラシのように丸まっていたオズワルド長官が、それを見て涙目で絶叫した。
長官の目には、俺がモップを一振りするたびに「壁に付着していたカレーの歴史」が事象ごと消滅させられているように見えているらしい。
──いや、だからただ汚れを浮かせてるだけですって。
だが、空間へと一斉に弾き出された大量の激辛スパイスの粉と油煙は、今や部屋の空気を真っ赤に染め上げるほどの巨大な質量となって、長官室の宙をうねっていた。
このままでは、浮かび上がった激辛の粉塵が部屋中に充満し、全員が呼吸困難になって全滅する。
「カナタ、危ないわ!その赤い煙、こっちに来る──。」
「大丈夫!俺にはこれがあるから!」
俺は叫び、モップを大きく円形に振り回した。
ここで発動するのが、俺のもう一つのバグステータス『幸運:941』だ。
世界全体の確率論をねじ曲げるその異常な数値は、俺の放った超高速の風圧を、完璧な「空気の障壁」へと自動的に変換した。
俺がモップをひと振りするだけで、発生した烈風がピタゴラスイッチのように計算され尽くした軌道を描き、宙に浮かんだ赤い粉塵をすべて包み込んでいく。
──ゴオォォォッ!!!
渦巻く激辛の赤い煙は、部屋の隅でガタガタ震えている長官のソファーの周りだけを「綺麗に円状に避けて」進み、そのまま開け放たれた窓に向かって一直線に誘導されていく。
まるで意志を持つ赤い龍のように、すべての汚れとカレーの臭いが、窓の外の青空へと勢いよく排出されていった。
──バサァァァンッ!
最後に俺がモップをビシッと一振りの風圧で引くと、窓が自動的に閉まり、室内の空気は一瞬で澄み渡った。
時間はわずか、三分。
先ほどまで濃厚に漂っていた激辛カレーの臭いは一欠片も残っていない。
赤く汚れていた壁は本来の白さを取り戻し、高級な木製家具は磨き上げられたように美しい光沢を放っている。
天井の雨は止み、床は鏡面ガラス。
壁と家具は新品同様。
どこからどう見ても、王宮の最高賓客を迎えるにふさわしい、完璧な大長官室へとリフォームが完了していた。
「……ふぅ。これで全部綺麗になりましたね。」
俺はモップをパチンと床に立て、満足げに手帳を閉じた。
──2周目の最初の仕事としては、なかなかいいクオリティのリフォームができたんじゃないだろうか。
「……ありえん……。このような不条理が、現実に存在していいはずがない……。」
壁の隅でソファーに挟まっていたオズワルド長官が、魂が抜けたような顔でボソリと呟いた。
長官は、一点のシミも残っていない真っ白な壁と、鏡のようにピカピカな床を見つめ、ガタガタと震える手で懐へと手を伸ばす。
これ以上のお会計を要求される前に、自ら進んで代償を払う。
老英雄の防衛本能が、そう叫んでいるようだった。
「や、約束の報酬だ……。白金貨3枚……。頼むから、その黒い冊子にこれ以上の因果を書き込むのだけは勘弁してくれ……っ!」
長官は涙目で、白く輝く巨大な白金貨3枚を、床に滑らせるようにして俺の足元へと差し出してきた。
記憶のない俺には長官の怯えっぷりの理由がさっぱり分からなかったが、貰えるものは貰っておく主義だ。
日本の価値で言えば、数千万円は下らない超大金である。
ポテチが化けた白金貨に続き、これで2周目の当面の生活費は完全に看破した。
「毎度あり!確かにお会計、白金貨3枚いただきました!」
俺が爽やかに笑って白金貨をレジ袋に回収すると、長官は「歴史の強制確定が回避された……」とでも言いたげな顔で、安堵のあまりそのままソファーに倒れ込んで白目を剥いた。
「もう……本当にリフォームのスケールがおかしいって言ってるでしょおおぉぉ!」
緊張の糸が切れたアリアが、俺の隣で本日一番のキレのある絶叫ツッコミを炸裂させた。
でも、アリアは俺が長官を物理的に一発も殴らず、部屋も見事にピカピカにしてみせたことに気づいたのか、呆れ顔の裏で、どこか誇らしげにふにゃりと口元を緩めている。
「さぁアリア、2周目の初仕事は大成功だ。手帳のログにあるギルドの食堂へ、美味いものを食いに行こう。お会計なら、この通りたっぷりあるからさ。」
「うん!でも、次は絶対に普通の掃除にしてよね、カナタ!」
呆れ返るアリアの手を引いて、俺たちはピカピカになった長官室を後にした。
記憶寿命30日の代償が世界を縛ろうとも、俺のバグステータスとこの黒い手帳があれば、2周目の世界だって何度でもハッキングして攻略して見せる。
まずは、この最高に可愛い相棒とのお祝いの飯からだ。
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