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【第一章完結】記憶寿命30日の世界で、はじめましてから始める異世界攻略  作者: 新井 はじめ
第一章 『白紙の記録』

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第一章13 何回はじめましてになっても

 カチリ、とポケットの中でフリクションペンのノック音を響かせる。


 ギルド長官室を完璧にリフォームし、俺たちは一階にあるギルド併設の巨大食堂へと向かっていた。


「もう、カナタったら。さっきからニヤニヤして、手帳のログの何にそんなに食いついてるのよ?」


 隣を歩くアリアが、尖ったエルフの耳を少しだけピコピコと動かしながら、水色の瞳で俺の顔を覗き込んできた。


 動きやすそうな白いキュロットスカートから伸びる華奢(きゃしゃ)な脚。

 手首で優しく光る真珠のブレスレット。


 記憶を失った真っ白な俺の脳髄に、1周目の俺の殴り書きが鮮烈に蘇る。


『28日後の俺へ。自分の全てを懸けて味方でいてくれるこの最高の女の子を、どんなことがあっても絶対に裏切るな。』


──なるほどな、1周目の俺。お前の気持ちが、今なら痛いほどよく分かる。


「いや、手帳にさ、『アリアが選んでくれた黒い上着が似合ってて、照れて顔やを真っ赤にするアリアがたまらなく愛おしい』って書いてあってさ。今まさにその状態の女の子が隣にいるなーって思って。」


「なっ、ちょっとぉぉぉ!?なんでそんな恥ずかしいログを本人の前で朗読するのよバカカナタァァァッ!!」


 一瞬で耳の先まで真っ赤に染め上げたアリアが、ブラウスの袖で顔を隠しながら俺の背中をポカポカと叩き始める。

 怒っているわけじゃない。

ただただキャパオーバーで照れているのだ。


 その健気な仕草が、記憶のない俺のハートを再び秒速で撃ち抜いていく。


「ほら、お詫びに何でも好きなものを奢るから。お腹ペコペコだろ、アリア?」


「う、ぅぐ……。何でも好きなものって言ったって、白金貨3枚なんて大金、この街の食堂じゃ使い切れるわけないでしょ……っ!」


 ブラウスの袖から涙目で俺を睨みつけながらも、アリアはポカポカと叩いていた手を引っ込め、恥ずかしさを誤魔化すようにフンスと小さな鼻を鳴らした。

 空色の髪の結び目で揺れる青い髪飾りが、彼女の心情を表すようにきらきらと細かく震えている。


 本当に、1周目の俺のログは1文字の狂いもない。

この女の子は、どこまでも健気で、端から見ていてたまらなく可愛い。


「まぁ、細かいお釣りは銀貨でたっぷり貰ってあるから安心しろ。ほら、ここが手帳に書いてあった食堂だな。」


──ギィ……。


 油の切れた重厚な木製の両開きドアを押し開けると、その瞬間、暴力的なまでの『美味い匂い』が俺たちの鼻腔を容赦なくジャックした。


 じゅうじゅうと肉が焼ける香ばしい脂の煙、香草をたっぷり練り込んで焼き上げた平焼きパンの甘い香り、そして何かの果実をじっくり煮込んだ高糖度のスープの匂い。

 ギルド本部の一階に位置する巨大食堂は、朝からクエスト帰りの冒険者や、夜勤明けの衛兵たちで活気に満ちあふれていた。


 ルネさんの店で手に入れた二代目『魔力遮断の指輪』の効果は絶大だ。

 今度こそ、俺の周囲の空気がピキピキと張り詰めることもなければ、周囲の人が威圧感で怯えることもない。

俺たちはごく普通の、どこにでもいる仲の良い新米冒険者のペアとして、賑やかな空間へ足を踏み入れた。


 食堂を見渡すと、皆それぞれにこの世界特有の美味そうな料理を楽しんでいる。

 大柄な戦士が豪快に噛む大肉、魔導師たちがスプーンですする色鮮やかなスープ。


 どこを見ても、俺にとっては新鮮で、それでいて不思議と懐かしい光景だ。


 アリアに袖を引っぱられ、俺たちは食堂の隅にある頑丈な木製の丸テーブルへと滑り込んだ。


 1周目の俺が指先ひとつで会計のテーブルを破壊したという『跳ねウサギ亭』のやらかしを思い出し、俺は両手を膝の上に行儀よく揃え、1ミリも木肌に触れないよう細心の注意を払う。

筋肉のブレーキは未だに壊れているのだ。


「いらっしゃいませ!ご注文はお決まりですか?」


 注文を取りに来た給仕(きゅうじ)の女の子が、明るい笑顔で羽根ペンとメモ帳を構えている。

 トラブルなんて何一つ起きない、これ以上ないほどに平和で穏やかな、ギルドの日常の一コマだ。


「あ、えーっと。手帳の指示によると……アリア、ここの『ココパの厚切り平焼きサンド』と『聖水蜜(せいすいみつ)のラテ』が絶品なんだろ?それを二つずつ、あとこの美味そうな串焼きも適当に。お会計はこれで足りる?」


「はい、銀貨2枚になります!ちょうどいただきますね。」


 俺は筋肉が暴発しないよう、絹豆腐を扱うかのようなスローモーションで、革袋から綺麗な銀貨2枚を指先でつまみ、テーブルの上へとそーっと滑らせた。

 一切の「トントン」を発生させない完璧なコントロール。


 アリアが「よかったぁ……」と隣で細く息を漏らして胸を撫で下ろす。

これなら今回は、完璧に平和的かつ日常的なお食事イベントを完遂できる。


「お待たせしました!ごゆっくりどうぞ!」


 数分後、運ばれてきた料理のビジュアルは、俺の胃袋を瞬時に刺激するほどに見事なものだった。


 香ばしく焼き上げられた、ふっくらとしたココパの実の粉の平焼きパン。

その間にこれでもかと挟(はさ)まれているのは、じっくりと炭火で炙(あぶ)られた、肉汁がハチミツのように溢れ出ている肉厚な魔獣の炙(あぶ)り肉だ。

未知の香草ソースがたっぷりと塗られており、嗅いだことのない官能的なスパイスの香りが鼻腔をくすぐ る。


 さらにガラスのジョッキに注がれた、淡い青色の光を放つ聖水蜜(せいすいみつ) のラテからは、飲む前から精神が浄化されそうなほどに甘く瑞々しい香りが漂っていた。


「うわあ……!すごい、本当に美味しそう……!」


 アリアの水色の瞳が、パッと花が咲いたように輝いた。


 彼女は小さく両手を合わせると、壊れ物を扱うように慎重に特大のサンドを手に取り、小さな口をめいっぱい開けて──ガブッ、と健気に頬張(ほおば)った。


「んんっ……!おいしい……っ!カナタ、これ、お肉がすっごくジューシーで、ネピ草のソースがピリッとしてて最高に美味しいわ!」


 咀嚼(そしゃく)するたびに、彼女の白い頬がリスのようにぷっくりと膨らみ、手首の真珠のブレスレットが嬉しそうにきらきらと揺れる。


 美味そうに食べるその表情が、至近距離で弾けるその笑顔が眩しすぎて、俺の心臓はオール941の脈拍を別の意味で限界突破させそうだった。


──よし、2周目の俺も、完全にこの女の子に胃袋ごと魂を掴(つか)まれた。1周目の俺、お前の遺言は本当に正しい。


「だろ?1周目の俺の日記にも『アリアのモグモグする姿は国家予算を出してでも保護すべき天然記念物だ』って書いてあったからな。」


「ぶっ!?げほっ、ごほっ……!な、何よその頭のおかしい記録はぁぁぁッ!?食べるたびにそんな恥ずかしい台詞で実況されたら、味が全部吹き飛んじゃうでしょおぉぉ!」


 ラテを喉に詰まらせかけたアリアが、耳の先まで真っ赤にしてポカポカと空を仰ぐ。

そのリアクションがいちいち可愛すぎて、俺はサンドを口に運びながらニヤニヤと笑うしかなかった。


 俺もさっそく、手元のサンドを大きく一口齧(かじ)ってみる。


──うまっ……!なんだこれ。 肉の歯ごたえはガッシリしているのに、噛むたびに未知の濃厚な旨味が口いっぱいに広がり、ピリッとした香草の酸味がそれを完璧に引き締めている。ココパのパンの素朴な甘みとの相性も抜群だ。


 続いて聖水蜜(せいすいみつ)のラテを流し込むと、まろやかな乳白色のコクの中に、すうっと染み渡るような不思議な清涼感(せいりょうかん)のある甘さが広がり、サンドの脂っぽさを綺麗に洗い流してくれた。


「……信じられない。異世界の食べ物って、こんなに美味いんだな。」


「ふふ、お気に召してよかったわ。カナタのいた世界には、ココパのパンも魔獣の炙(あぶ)り肉もないんでしょ?記憶がなくなっても、美味しいって思ってくれるのはなんだか嬉しいな。」


 アリアは口元のソースを小さな指先で拭いながら、嬉しそうに目を細めた。


 その穏やかな表情を見つめていると、食堂のガヤガヤとした喧騒すらも、心地よい背景音のように遠のいていく。


 テーブルの上には、追加で頼んだ「ルルの実の蜜焼き串」も並んでいる。

 外側はカリッと香ばしく、中はとろりとした黄金色の果蜜が詰まった、この世界の定番のおやつだそうだ。


 アリアはそれを一本手に取ると、ふーふーと小さく息を吹きかけ、今度は本当に幸せそうに唇を湿らせた。


「ねえ、カナタ。手帳には、他にどんなことが書いてあるの?私の恥ずかしいことばかりじゃなくて、これからの攻略に役立ちそうなこととか……。」


「んー、そうだな。ちょっと待って、今見てみるから。」


 俺は空いている左手で、慎重に『黒い手帳』のページをさらさらと繰った。


 指輪のおかげで、俺の筋肉が暴発して手帳がトマトのように四散することはない。

普通の人間と同じように、紙の感触を楽しみながら文字を追うことができる。


 俺は手帳から、4月3日にジークとマルタの古道具屋に匿ってもらった際のログを見つけ出し、そこで食べた特製焼き菓子「ポム・ベイク」が美味しかったことをアリアに伝える。

アリアも懐かしがりつつ、カナタを心配していたジークらへ挨拶に行かなきゃねと微笑んだ。


 記憶がなくても手帳の言葉から周囲の温もりが伝わると語る俺に、アリアは、記憶が消えてもまっすぐなカナタの優しさを愛おしく思うと返す。

デートだとはぐらかす俺に、アリアは真っ赤になりながら蜂蜜焼き串を向けて牽制(けんせい)しつつも、穏やかな瞳で微笑むのだった。


 トラブルなく平和に朝食を終えた俺たちは、お腹も心も満たされ、次なる目的地であるギルド長官室の報告へと向かった。


 ギルド食堂の重厚な木製の扉を背に、俺たちは再び、高級な魔導照明が静かに廊下を照らす上階への大階段を並んで上り始めていた。


 お腹が満たされたアリアは、さっきまで俺をポカポカと叩いていたのが嘘のように、今は機嫌よさそうにステップを踏むような軽い足取りで歩いている。

 動きやすそうな白いキュロットスカートが、彼女が動くたびにふわりと揺れ、手首の深海真珠(マリーン・オーブ)のブレスレットが朝の光を浴びてきらきらと上品な波紋を描いていた。


「……ねえカナタ、さっきの食堂、本当に誰も驚いてなくてよかったわね。」


 アリアは階段の手すりにそっと手を添えながら、どこかホッとしたように水色の瞳を細めて俺を振り返った。


「まぁな。俺としては、一歩進むごとにレンガの床がメリメリきしむ感覚がなくなっただけで、精神的にめちゃくちゃ楽だわ。ルネさんの2代目リング、マジでいい仕事してる。」


「ふふ、本当ね。でも、カナタのその左手の人差し指の指輪、たまに魔力が馴染むまで変な気配が出ることがあるから、あんまり強く手を振ったりしちゃダメだからね?」


「ああ、分かってるって……。それにしても、これから行く長官室、手帳のログによると一時はガチの戦場になってたらしいけど、大丈夫かな。」


 俺が上着のポケットに手を突っ込み、指先で黒い手帳の表紙に触れながら呟くと、アリアは少しだけ気まずそうに、だけど愛おしそうな苦笑いを浮かべた。


「大丈夫よ。だって、さっきカナタが完璧にピカピカに大掃除しちゃったんだもの。オズワルド長官、最後の方は完全に魂が抜けて白目剥いてたけど……。」


「ハハ、自分のやらかしとはいえ、今の俺には全く身に覚えがないから不思議な感覚だな。」


 俺たちはそんな会話を交わしながら、最上階の廊下の奥に鎮座する、マホガニー製の重厚な扉の前へと辿り着いた。


 ギルド長官室──すべての因果と、俺の1周目のやらかしが詰まった部屋だ。


──ギチ……。


 油の切れた重苦しい音を立てて扉を開けると、そこには数分前と全く変わらない、一点の曇りもない美しすぎる白亜の空間が広がっていた。


 床の石畳は窓からの朝光をそのまま跳ね返す完璧な鏡面ガラスコーティングの床。

壁も新品同様の白さを取り戻し、激辛カレーの臭いは一切残っていない。


 そしてその部屋の最奥。

 ひしゃげた高級ソファーに深く腰掛け、ハゲそうなほどやつれた顔で両手で頭を抱えていた初老の男──ギルド長官のオズワルドが、俺たちの足音を聞いて、ゆっくりと顔を上げた。


「お、お前たち……。本当に、戻ってきたのか……っ。」


 長官の口から、驚愕(きょうがく)に引き攣(つ)った、掠れた声が漏れる。

 だが、その瞳に宿る色は、先ほどまでの底なしの恐怖や絶望だけではなかった。


 冷たいスプリンクラーの雨が止み、激辛の煙が消え去ったこの清浄な空間で、じっくりと呼吸を整え、彼なりに気持ちの整理をつけたのだろう。


 長官は深く、深くため息をつくと、ひしゃげたソファーからゆっくりと立ち上がった。


──ツルッ。


「どわっ!?……っと、危ない、危ない。床の摩擦がなさすぎる……!」


 立ち上がった瞬間に足を滑らせかけ、マンガのように激しく手足をバタつかせながらも、長官はなんとか壁の柱を掴んで体勢を維持した。

 鼻の頭を真っ赤に腫らし、軍服のバイザーはへし折れたままだが、その佇(たたず)まいには、この街の頂点に立つ者としての誇りと、老練な戦士としての覚悟が静かに戻っていた。


 「長官……大丈夫ですか?」


 アリアが心配そうに声をかけると、オズワルド長官は、自分のハゲかけた頭部を美しく映し出している床をジッと見つめ、それから俺の胸ポケットの『黒い手帳』へと視線を移した。


「……カナタと言ったか。私は、ギルド長官として、自由奔放(ほんぽう)なアリアを育てた身として、自らの不明を恥じるばかりだ。」


「え?不明、ですか?」


 俺が首を傾げると、長官は柱からそっと手を離し、摩擦ゼロの床の上を、まるで氷上を滑るスケート選手のような見事な足捌(あしさば)きで、俺たちの目の前まで音もなくスライドしてきた。

流石は伝説の戦士、バグだらけの環境に適応するのが異常に早い。


「お前がこの部屋で行った『神聖なるリフォームの儀式』……。壁に染み付いた呪いの歴史を剥ぎ取り、大気を清め、この私を傷つけることなくすべての脅威を霧散させた。それは、破壊のための力ではない。理不尽な不条理を以(もっ)て、歪んだ現実をあるべき姿へと『修復』する、至高の優しさだ。」


 長官は真剣な眼差しで、俺の手元にある黄色いホンペン柄のレジ袋を見つめた。


「お前は、記憶を失うという世界の呪いを背負いながらも、その手帳に刻まれた『覚悟』のままに、アリアを、そしてこの街の理を守り抜いた。そのような稀代の英雄を、ギルドの狭い規則で縛り、国家の敵として扱おうとした私は、本当に愚かだった。ルネの店での魔筆の報告に惑わされ、勝手にお前を魔王の如き怪物だと勘違いしてパニックを起こしていた自分が、たまらなく恥ずかしい。」


 長官はそう言うと、胸に手を当て、俺たちに向かって深く、深く頭を下げた。 その潔(いさぎよ)い姿に、俺は思わず唖然(あぜん)としてしまう。


──いや、長官。本当にただの勘違いだし、手帳は数百円のノートだし、激辛カレーをぶちまけたのも1周目の俺のやらかしなんだけどな……。


「長官……!」


 隣のアリアの水色の瞳が、じわりと温かい涙で潤んでいく。


 自分を裏切り者扱いした組織のトップ。

だけど、不器用ながらも自分を導いてくれた親代わりの男が、こうして気持ちの整理をつけ、カナタにとっての普通を正しく受け入れてくれたことが、彼女にとってはたまらなく嬉しかったのだろう。


「顔を上げてください、長官。俺はただ、この求人票の通りに掃除をしただけですから。街の衛兵たちの強制捜索の件も、これで完全に無しってことでよろしくお願いしますね。」


「ああ、もちろんだとも!捜索命令は完全に白紙。アリアの規則違反も、すべて私の独断で特別休暇扱いとして処理した。それどころか──。」


 オズワルド長官はガシッと俺の両肩を掴むと、目を血走らせたまま、しかし今度は燃え上がるような熱い信頼の眼差しを真っ直ぐにぶつけてきた。


「カナタ!お前が背負うその『30日の記憶寿命』という世界の理不尽な呪い、この私が、ギルドの総力を挙げてバックアップすることを誓おう!お前が記憶を失うたび、私が何度でもギルドの最高権力としてお前を迎え入れ、不自由のないよう衣食住を保証する!アリアと共に、この世界をあるべき姿へと導く影の立役者として、我がギルドの特級魔導士(とっきゅうまどうし)になってはくれないか!?」


「ええっ!?と、特級魔導士(とっきゅうまどうし)!?」


 まさかの『国家最高機関のトップが仲間に加わる』という超展開に、今度は俺の口から間の抜けた声が漏れた。

 百数十円の文房具と、ただのレジ袋から始まったやらかしが、気づけば街の支配者を完璧に味方に引き込むという、これ以上ない大戦果を叩き出してしまったのだ。


「あの、長官!カナタを味方に引き込むのはいいけど、あまり熱くなりすぎて指輪に触らないでください!カナタの魔力が暴発して、今度こそこの部屋が物理的に更地になっちゃうから!」


「ぬっ!?し、しまっ──!す、すまんカナタ、あまりの感動に手が滑った!」


 アリアのキレのある絶叫ツッコミに、長官は大慌てで俺の肩から手を離し、再びツルツルと鏡面の床の上をスケートのように滑りながら後退していった。

そのあまりにもシュールな老英雄の姿に、俺とアリアは同時に吹き出し、部屋の中に晴れやかな笑い声が響き渡った。


「神様の作ったシステムがどれだけクソだろうが、これだけ頼もしい仲間がいれば、何度だってハッキングして書き換えてやれるな……。……よし、長官。これからの2周目の異世界攻略、よろしく頼みます!」 


「うむ!任せるが良い、新米職人……いや、特級魔導士(とっきゅうまどうし)カナタよ!」


 俺はニッと不敵に笑うと、長官が差し出してきた分厚い手と、床の上でツルツル滑りながらも固い握手を交わした。


 ガシャリ、とへし折れたバイザーの破片が鏡面の床に落ちて、小さく高い音を立てた。

 その冷たい響きが、嵐の去った室内に不思議な静寂をもたらしていく。


 オズワルド長官との、床の上で滑りながらの固い握手を交わした後──。

 長官はふぅ、と深く息を吐き出すと、折れたバイザーを指先で毟(むし)り取り、真剣そのものの表情で俺とアリアを見つめてきた。


「さて、カナタ。お前を我がギルドの特級魔導士(とっきゅうまどうし)として迎えた以上、私もただバックアップを約束するだけで終わるつもりはない。お前たちが挑もうとしているその『記憶寿命30日』の呪いについて、ギルドの最高機密アーカイブに眠る、ある『新しい情報』を開示しよう。」


 その言葉に、アリアがハッとして水色の瞳を見開いた。


「長官……それって、ギルドの最奥に封印されている『迷い人の観測記録』のことですか……っ?」


「うむ。お前たちも知っての通り、これまでこの世界に現れた『異界の迷い人』は、例外なく30日ごとに記憶をリセットされ、やがて精神を摩耗(まもう)させて世界から消えていった。だが──。」


 長官は鏡面の床をスケートのように器用に滑りながら、部屋の隅にある、俺の風圧で中身がひっくり返りかけた高級本棚へと近づいた。

 その最下段。

一見するとただの装飾に見える獅子のような彫刻の頭を長官が捻(ひね)ると、 ギチギチ と重苦しい駆動音を立てて、壁の一部がガラリと反転した。


 現れたのは、幾重もの強力な封印結界が施された、禍々(まがまが)しいまでの魔力を放つ一本の古びた巻物だ。


「これは、お前たちより数百年前にこの街に現れた、最初の『迷い人』が残したとされる、世界のシステムに関する最古の解析データだ。その迷い人もまた、お前と同じようにデタラメな神の祝福を受け、この世界の『バグ』を追い求めたという。」


 長官は厳重な結界の呪文を唱え、床の上で一度ツルッと体勢を崩しかけながらも、慎重にその巻物を広げた。

 そこには、古代の魔法文字に混じって、なぜか俺にとって非常に馴染み深い、現代日本の『数式』や『プログラムコード』のような文字列が、歪な筆跡でびっしりと書き込まれていた。


「な、何これ……?魔法の術式とは全然違う……。カナタ、あなた、これ読めるの?」


 アリアが不思議そうに巻物を覗き込み、俺の黒い上着の袖をきゅっと掴んできた。


 俺は、指輪のおかげで暴発しない左手でフリクションペンをカチリとノックし、その文字列をじっと見つめる。

脳髄(のうずい)の真っ白な部分に、前世の俺の知識がパチパチと電撃のように閃いた。


「……読める。これ、魔法の解説じゃない。この世界そのものを動かしている『メインシステム』の、構造欠陥を指摘するデバッグログだ。」


「でばっぐ……ろぐ?」


 アリアが小首を傾げる。

 俺は手帳の白紙のページを開き、フリクションペンの先でその数式の一部をなぞりながら、言葉を続けた。


「長官。この巻物に書いてある通りなら、俺たちの『記憶寿命』は、神様が転移者に嫌がらせでかけた呪いなんかじゃない……。もっと機械的で、理不尽な、世界の『バグ対策』だ。」


「な、何だと……っ?バグ対策とは、一体どういう意味だ、カナタ!」


 オズワルド長官が、思わず鏡面の床を踏みしめて滑りそうになりながら身を乗り出してきた。


「この世界は、地球から迷い人が持ち込む『概念』や『異界のアイテム』の質量を、正しく処理するだけの容量を持ってないんだ。俺たちが持ち込んだホン・キホーテのレジ袋や、このフリクションペン、それから俺の『941』っていうステータス……。これらは異世界の法則から見れば、存在自体が世界をクラッシュさせかねない、最悪の不正データなんだよ。」


 俺の言葉に、長官の顔がみるみるうちに土気色に変わっていく。


「世界を……クラッシュ、させる……?」


「ああ。だから世界のシステムは、これ以上のデータ肥大化を防ぐために、30日ごとに転移者の『記憶』を強制的に初期化して、世界全体の安全を保とうとしている。それが、記憶寿命30日の正体だ。だけど──。」


 俺は巻物の最下部に記された、赤黒い魔力で書かれた一文を指差した。


「ここに、その初期化システムを完全に停止させるための『座標』が書いてある。この街の地下深く、ギルドの管理すら届かない大迷宮の最深部に、世界のシステムサーバーと直結した『根源の端末(オリジン・コア)』が存在するらしい。」


「端末(オリジン)……。そこへ行けば、カナタの記憶が消えなくなるのね……っ!?」


 アリアが、希望に満ちた水色の瞳で俺の顔を見上げてくる。

その健気な表情を裏切りたくないと、俺の『幸運:941』の直感が激しく脈打った。


「理屈の上ではそうなる。そこにこのフリクションペンを突き刺して、記憶消去のプログラム自体を摩擦熱で消去して上書きしてやれば、世界のシステムを完全にハッキングできるはずだ。そうすれば、30日のタイムリミットは消滅し、俺は二度とアリア、お前を忘れずに済む。」


「カナタ……っ!」


 アリアの胸元で、俺が贈った青い髪飾りが、未来を祝福するようにきらりと輝いた。


 しかし、オズワルド長官は、その老練な知性で即座にリスクを弾き出していた。


「だが、カナタよ。その端末(オリジン)とやらに触れるということは、世界の安全弁を外すということだ。システムが暴走すれば、お前のそのデタラメな『941』のステータスや、お前が持つアイテムの因果が爆発し、この街ひとつが丸ごと消滅する大天変地異が起きる可能性もあるぞ。」


「望むところですよ、長官。」


 俺はニッと不敵に笑い、ホンペン柄のレジ袋を肩に担いだ。


「俺のステータスは、戦うためじゃなく、理不尽な現実をリフォームするためにあるんです。世界がバグで壊れそうなら、大迷宮の最深部ごと、俺の筋肉と手帳で完璧にクリーンアップしてやりますよ。それに、今回は長官っていう、ギルド最高権力の頼もしいバックアップもあるわけですからね。」


「……フッ、ハハハハハ!言うようになったな、我がギルドの特級魔導士(とっきゅうまどうし)よ!よろしい、大迷宮への隠し通路の封印解除、および物資の補給はすべて私が裏で手を回そう。お前たちは、そのデタラメな不条理を以て、世界を好きなように書き換えてくるが良い!」


 長官は豪快に笑い声を上げ、再び床の上をツルツルと滑りながら、今度こそ大満足の表情で俺たちの背中を見送った。


「よし、行こうぜ、アリア。2周目の日記の最初の1ページ目は、大迷宮のハッキング大作戦からスタートだ。」


「もう、カナタったら調子に乗っちゃって。でも……うん、何回『はじめまして』になっても、絶対にそこまで辿り着いて、その呪いを終わらせましょうね!」


 アリアは満面の笑みを咲かせ、俺の黒い上着の袖を強く引きながら、一歩一歩、確かな足取りで大階段を降りていく。


 ギルド本部を後にした俺たちは、すっかり暖かくなった五月の風に吹かれながら、賑やかな中央大通りを歩いていた。

 ポケットの中の手帳が、歩くたびに俺の太ももをコツコツと叩く。


 30日というタイムリミットの正体。

世界のシステムサーバー。

そして大迷宮の最深部。


 手に入れた情報はあまりにも壮大で、普通の人間なら頭を抱えて引き返すレベルの難局だ。


 けれど、俺の隣には空色の髪をなびかせる最高の相棒がいて、手元には白金貨3枚という超大金な軍資金がある。

さらにギルドのトップまでが、氷の上を滑るアザラシみたいな格好をしながらも、全力での支援を約束してくれたのだ。


 宿に戻ったら、まずは新しく買ってもらった黒い手帳の1ページ目を開こう。

 そして、あのフリクションペンのノックをカチリと響かせて、新しい文字を力強く殴り書きするんだ。


『5月1日。アリアと長官室を完璧にリフォームし、世界をハッキングするための大冒険が始まった。』


──と。


 記憶を失った少年と、記憶を繋ぐエルフの少女。

そして世界の秘密を握るギルド長官。


 世界のシステムという名のクソゲーをハッキングするための、3人の本格的な異世界大迷宮攻略の幕が、いま静かに、そして圧倒的なバグの予感を孕(はら)みながら、鮮烈に切って落とされるのだった。

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毎回面白いです!昨日の敵は今日の友。感動しますね(*´ω`*)
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