第一章14 大迷宮への一歩とお揃いの青
──カチリ。
静まり返った宿屋の部屋に、フリクションペンのノック音が小さく響く。
『5月2日。昨日はアリアと一緒に長官室を完璧にリフォームし、ついでにギルドの最高機密である巻物のデバッグログを解析した。この世界の「記憶寿命30日」というクソ仕様をハッキングするため、俺たちは街の地下深くにある大迷宮の最深部を目指すことになった。オズワルド長官という、氷の上を滑るアザラシみたいな格好をしながらも心強いバックアップも手に入れた。今日からは本格的な大迷宮攻略の準備に入る。まずは手元のアイテムの整理からだ。』
黒い手帳にさらさらと文字を殴り書きし、俺はふぅと短く息を吐き出した。
ルネさんの店で手に入れた2代目『魔力遮断の指輪』のおかげで、お会計バグに由来する全ステータス『オール941』の筋肉が暴発することもなく、文字はいたって綺麗なままだ。
4月30日の夜が満ち、記憶を失った真っ白な脳髄のまま迎えた2周目の2日目。
だが、この手帳のログと、昨日食堂で食べた『ココパの厚切り平焼きサンド』の暴力的な美味さ、そして何より隣でリスのように頬を膨らませていたアリアの笑顔が、俺の胸に確かな現実感と、消えない熱を与えてくれている。
魂のレベルで惚れ直した相棒のために、2周目の俺は、1周目の俺の遺言通りに世界の理不尽をクリーンアップしてやるのだ。
「よし、それじゃあ……1周目の俺が残してくれた、この『世界の法則をクラッシュさせる最悪の不正データ』たちの確認といくか。」
俺はベッドの上に、昨日長官室から大事に抱えて持ってきた、お馴染みの黄色いホンペン柄のレジ袋をそっと置いた。
中を覗き込むと、ギルド長官から巻き上げた──いや、正当なリフォーム報酬としていただいた白金貨3枚が、眩いばかりの輝きを放ってポリ袋の底に鎮座している。
異世界の大富豪が一生遊んで暮らせるレベルの超大金が、薄っぺらいレジ袋の耐久力だけで支えられている絵面はなかなかにシュールだった。
だが、今の俺にとって、その白金貨以上に重要な『現代日本の日用品』が、この袋の中にはまだ眠っている。
ササッ、とレジ袋の中に手を突っ込み、現代日本の技術が詰まった日用品をいくつか引っ張り出す。
現状、手元に残っている『現代日本の日用品』は、この『黒い手帳』と、今まさに握っている『フリクションペン』だけだ。
たったこれだけ。
だが、これこそがこの世界の法則から見れば、存在自体がエラーを起こす最悪の不正データであり、ギルド長官の言っていた「世界の安全弁を外すほどの力」を秘めた唯一無二の神の遺物になるのだ。
文字を摩擦熱で消去し、世界の因果を書き換える魔筆。
そして、白紙になる俺の記憶を未来へと繋ぎ止めるためのログ。
これさえあれば、大迷宮の最深部に眠る『根源の端末』までの道のりも、文字通り物理的に道を切り開いていけそうだ。
トントン、と小気味よい音がして、部屋の木製の扉が優しく叩かれた。
「カナタ、起きてる?大迷宮に持っていく物資の買い出し、そろそろ出発しましょう?」
扉の向こうから聞こえてきたのは、鈴の音のように透き通った、大好きな相棒の声。
俺はすぐに手帳をレジ袋に収めると、上着のポケットにペンを差し込んで立ち上がった。
筋肉のブレーキを意識し、心の中で『絹豆腐、絹豆腐……』と呪文を唱えながら、慎重にノブを回す。
「おう、アリア!今開ける!」
ガチャリと扉を開けると、そこには昨日と変わらない、透き通るような空色の髪をなびかせたエルフの少女が立っていた。
動きやすそうな白いキュロットスカートに、淡い水色のブラウス。
その胸元で、俺が贈ったという青い髪飾りが、朝の光を受けて嬉しそうにきらきらと揺れている。
アリアは、手首の『深海真珠のブレスレット』を大切そうに愛おしそうに撫でながら、水色の瞳を丸くして、俺の部屋の中をキョロキョロと見回した。
「……ねえ、カナタ。気のせいかしら?あなたの部屋、なんだか昨日からずっと、もの凄いきれいな気配がするんだけど……。あと、壁がなんか不自然にピカピカに白くなってない?」
「あー、いや。ちょっと朝のルーティンで、部屋の空気をリフォームしてただけだから気にするな。」
「カナタの言う『ちょっとリフォーム』は、大抵の場合、国家規模の魔導士が総出でやる聖域結界の展開なのよ……。まぁ、宿を物理的に破壊してないならいいけれど。」
アリアはもはや宇宙の真理を悟ったような、深すぎるジト目を俺に向けてから、クスリと楽しそうに微笑んだ。
記憶がリセットされても、俺が相変わらず俺のままであることに、どこか安心しているような、そんな温かい笑顔だ。
「ほら、行くわよ。オズワルド長官が裏で手を回してくれたおかげで、大迷宮の第1階層への特別立ち入り許可証と、ギルド特製の保存食の支給品がもう中央大通りの出張所に届いてるんだから。」
「マジか。長官、氷の上を滑るアザラシみたいな格好でツルツル滑ってたくせに、仕事が早くて助かるな。」
「ちょっと、一応私の育ての親なんだから、アザラシって言うのはやめてあげて!アザラシが何かは知らないけど、いい意味じゃないのはわかる。……まぁ、確かに昨日の長官、床のリフォームのせいでずっと壁に激突してたけど……。」
アリアは思い出し笑いをするように肩を震わせると──。
「それじゃあ、まずは市場に行って、その白金貨を崩しましょう。大迷宮の探索に使う、お揃いのランタンとか、丈夫なロープも買わなきゃいけないしね。」
と、楽しそうに続けた。
「お揃い、か。いいな、それ。」
俺が何気なくそう言うと、アリアは一瞬だけピキッと動きを止め、それから尖ったエルフの耳の先端を、みるみるうちに熟した林檎のように真っ赤に染め上げた。
「なっ……!?べ、別にお揃いじゃなくてもいいんだけどっ!ただ、同じお店で買った方が割引が効くかなって思っただけで──もう、バカカナタっ!」
キャパオーバーで真っ赤になったアリアは、ブラウスの袖で顔を隠しながら、ツカツカと音を立てて宿の階段をもの凄い勢いで駆け下りていってしまった。
これも怒っているわけじゃない。
ただただ照れているのだ。
「ハハ、2周目の朝も、最高のスタートだな。」
俺はニヤニヤする口元を黒い上着の襟で隠しながら、黄色いレジ袋を片手に、彼女の後を追って5月の爽やかな朝風が吹き抜ける大通りへと一歩を発み出した。
行き交う馬車の轍の音、露店から漂う焼き立ての麦パンの香ばしい匂い、そして威勢の良い商人たちの呼び込みの声が、幾重にも重なって鼓膜を震わせる。
その賑やかな雑踏の数歩先を、空色の髪をなびかせたアリアが、まだ少しだけ耳の先を赤くしたままツカツカと小走りで歩いていた。
「おーいアリア、そんなに急がなくても市場は逃げないぞ?」
「も〜うるさいわね!誰のせいで私がこんなに早歩きになってると思ってるのよ!ほら、のんびりしてるとお目当ての冒険者ショップが混んじゃうんだから、カナタも早くついてきて!」
振り返ったアリアはぷいっと拗ねたように頬を膨らませたが、その水色の瞳はどこか嬉しそうにきらきらと輝いていた。
俺は苦笑しながら、お馴染みの黄色いレジ袋を片手に、彼女の白いキュロットスカートの後を追う。
袋の底では、オズワルド長官からせしめた白金貨3枚が、ジャラリと重苦しい音を立てていた。
まずはこの、国家予算レベルの超大金を崩さなければ何も始まらない。
俺たちは大通りの中心部にある、ギルド公認の大両替所へと滑り込んだ。
大理石でできた格式高いカウンターの向こうでは、いかにも神経質そうな初老のドワーフの鑑定士が、虫眼鏡を片手に忙しなく書類をめくっている。
「すまない、この白金貨を崩してほしいんだが。」
「あん?新米の小僧が白金貨だと?からかうのも大概に──。」
鑑定士のドワーフが面倒くさそうに顔を上げた瞬間、俺がレジ袋からそーっと取り出した白金貨3枚の眩い輝きが、彼の老いた眼球を直撃した。
「……な、ななな、なんだとォォォッ!?これ、最高純度の王室直轄鉱山産の白金貨じゃねえか!しかも傷一つない完全な極上品が3枚だと!?」
鑑定士は椅子からひっくり返りそうな勢いで立ち上がり、血相を変えて白金貨を毟るようにひったくった。
周囲にいた他の冒険者たちからも、ヒュッと息を呑む音が聞こえてくる。
「お、おい小僧……いや、お客様!一体これをどこで手に入れた!?まさかどっかの古代遺跡でもハッキングしてきたんじゃねえだろうな!?」
「いや、ちょっと知り合いの部屋をクリーンアップしたら、そのお礼にと長官が──。」
「カナタ、ストップ!!」
俺が素直に答えるより早く、隣のアリアが音速のステップで俺の口を両手で塞いできた。
アリアの小さくて柔らかい手のひらから、ポカポカとした体温がダイレクトに唇に伝わってくる。
「あ、ハハハ!冗談ですよ!この人はちょっと冗談がおかしいだけで、これはギルド本部のオズワルド長官から正当な依頼の報酬として、直々にいただいたものです!ほら、これが証明書の特別魔導サイン!」
アリアが懐から引っ張り出したギルドの公式書類を突き出すと、鑑定士のドワーフはさらに目を剥いた。
「お、オズワルド長官の直筆……!?あのケチで有名な老英雄が、新米に白金貨を3枚も出す依頼だと……?一体どんな大天変地異を解決したんだ……。」
ガタガタと震える手で、鑑定士は奥の金庫からずっしりと重い大袋を取り出してきた。
中には、純度の高い大銀貨がびっしりと詰まっている。
「金貨や大銀貨の枚数が多い。これだけあれば、大迷宮の物資どころか、この街の高級邸宅が一つ買えるぞ……。お釣りは正確に数えろよ?」
「ああ、助かる……。おっと。」
俺が大銀貨の袋を受け取ろうと、ほんの少しだけ右手を伸ばしたその瞬間──。 2代目『魔力遮断の指輪』のおかげで制御できているはずの、俺のデタラメなステータス『幸運:941』の因果が、朝の清々しい空気と共鳴して勝手に作動してしまった。
──バララララララララッッッ!!!
突然、鑑定士のドワーフが数えようとしていたお釣りの銀貨の山が、まるで生き物のようにカウンターの上で激しく跳ね踊り始めた。
確率の暴発だ。
銀貨たちは寸分の狂いもない正確な軌道を描いて空中を舞い、俺が広げていた黄色いレジ袋の中へと、吸い込まれるように次々と飛び込んでいく。
チャリン、チャリン、チャリンと、信じられないテンポで袋に収まっていく銀貨の雨。
最後の1枚がピタリと袋の底に収まった瞬間、ドワーフの鑑定士は完全に呆然としたまま、口をアングリと開けて固まっていた。
「……き、綺麗に、大銀貨が941枚……。私が数えるまでもねえ、頼まれた通りの額が、一瞬で、完璧に収まりやがった……。どんな手品だ、これは……。」
「いや、ただの幸運っていうか、俺のベースの数字がこれなもんで。」
「カナタ、いいからもう行くわよ!!」
アリアにまたしても黒い上着の袖を強く引っぱられ、俺たちは嵐のように両替所を後にした。
「もう!指輪をしてるのに、なんでお会計の時だけそんなに綺麗にその数字を揃えちゃうのよ!」
「仕様だから仕方ないだろ……。それより、お目当ての店はあそこか?」
俺たちが辿り着いたのは、中央大通りの一角を占める、老舗の冒険者ショップ『頑強なトカゲ亭』だった。
店内には、大迷宮の過酷な環境に耐えうる、様々な魔導機材やサバイバルグッズが所狭しと並んでいる。
「よし、まずは大迷宮の暗闇を照らすランタンね。エルフの目は暗視が利くけど、人間のカナタには必須だから、一番性能が良いやつを選ばなきゃ……。」
アリアは棚に並んだ様々なランタンを、水色の瞳をきらきらと輝かせながら真剣に見定め始めた。
魔獣の油を使う安物から、純粋な魔石を動力源とする高級品まで様々だ。
アリアはその中から、淡い青色の美しい装飾が施された、コンパクトな一対の魔石ランタンを指差した。
「ねえカナタ、これなんてどうかしら?『蒼氷石』の光だから熱を持たないし、魔力の消費も少ないの……。それに、その、デザインも、ちょっとお揃いっぽくて、いいかなって……。」
アリアは照れ隠しのように、手首の『深海真珠のブレスレット』をいじりながら、上目遣いで俺の顔を覗き込んできた。
お揃いのランタン。
昨日、宿の階段で真っ赤になって逃げ出したくせに、結局自分で選ぶのはちゃんとお揃いのやつなのだ。
そのいじらしい健気さが、記憶のない俺のハートを秒速で撃ち抜いていく。
「最高だな。これにしよう。アリアの選んでくれたやつなら、大迷宮のどんな暗闇でも一瞬でピカピカにリフォームできそうだ。」
「リフォームじゃなくて、ただ照らすだけよ!もう、カナタが言うとランタンから熱線でも出るんじゃないかってハラハラするわ……。」
アリアは呆れたようにジト目を向けつつも、嬉しさを隠しきれない様子でランタンを2つ抱え込んだ。
その後も、俺の筋肉が引っ張っても絶対にちぎれないという、魔獣の髭で編まれた特製の『金剛ロープ』や、異世界オリジナルの保存食などを、たっぷりのお釣りを使ってホクホク顔で購入していく。
もちろん、支払いのたびにお釣りは正確に『941』の因果に収まるため、店の主人は神の奇跡でも見たかのように拝んできたが、それはもう気にしないことにした。
物資の買い出しを完璧に終えた俺たちは、最終目的地である『ギルド大通り出張所』へと向かった。
大迷宮の第1階層への特別立ち入り許可証を受け取るためだ。
受付のカウンターへ向かうと、そこには昨日のパニックが嘘のように、背筋をピンと伸ばした若い女性のギルド職員が待っていた。
俺が名乗るより早く、彼女は俺の顔を見た瞬間、まるで国家の最高位の貴賓でも迎えるかのように、ガタガタと椅子を鳴らして深く頭を下げた。
「お、お待ちしておりました!我がギルドの特級魔導士、カナタ様!および随行員のアリア様!」
「え、俺の名前、もう登録されてるのか?」
「はい!オズワルド長官より、特級の緊急魔導通信にて、直々に指示が届いております!『我がギルドの最高峰の頭脳であり、世界の理を修復する奇跡の魔導士である。どのような不条理な行動をしようとも、全面的な信頼を以て最優先で便宜を図れ』とのことでございます!」
ギルド職員の女の子は、目をきらきらと輝かせながら、厳重に封印された金色の魔法の羊皮紙──『大迷宮特別通行許可証』を、両手で恭しく差し出してきた。
「……ねえカナタ。長官、気持ちの整理がついたのはいいけれど、あなたのことを完全に『神聖なる存在』か何かに勘違いしたまま、ギルド全体にその設定を知らせているわよ……?」
隣のアリアが、今日一番の、深淵のように深いジト目で俺を見上げてくる。
「ハハ、まぁ、ギルドに追われるよりは、特別扱いされてる方が動きやすくて助かるな。ありがとう、オズワルド長官。アザラシなんて言って悪かったよ。」
俺は苦笑しながら許可証を受け取り、アリアとお揃いのランタンを上着のベルトに固定した。
これで、すべての準備は整った。
俺たちは許可証を手に、いよいよ世界のシステムエラーそのものである、未知の大迷宮の入り口へと向かって歩き出すのだった。
ギルド大通り出張所のガラス扉を押し開け、街の喧騒へと再び足を踏み入れた俺たちは、お揃いの青い魔石ランタンを腰のベルトに心地よく揺らしながら歩いていた。
中央大通りの賑やかな雑踏を徐々に外れ、目指すは街の北西の端に位置する旧区画。
大迷宮の入り口があるとされる、古びた石造りの建物が並ぶエリアだ。
5月の暖かな陽光が、レンガ造りの古い家々の隙間から細い路地へと遮るものなく差し込んでいる。
先ほどまでの両替所や市場の爆発的な活気が嘘のように、一歩進むごとに周囲の空気はしっとりと落ち着きを取り戻し、静寂が心地よく鼓膜を包み込み始めた。
道を行き交う人影もまばらになり、時折、風が古い石壁の隙間を吹き抜ける乾いた音だけが響く。
「……ねえ、カナタ。本当にこれから、あの『大迷宮』に潜るのよね。」
アリアは白いキュロットスカートの裾を5月の風に軽くはためかせながら、少しだけ緊張を滲ませた声で、歩調を緩めて俺の顔を覗き込んできた。
透き通るような水色の瞳が、未知の領域への不安と、それを遥かに上回る強い決意を秘めて、きらきらと細かく揺れている。
「ああ。昨日長官の部屋で見せてもらった、あの最古の巻物の通りなら、大迷宮の最深部にこの世界の理不尽の源泉──『根源の端末』があるはずだ。そこに俺のこのフリクションペンを突き刺して、30日ごとにやってくる記憶消去の仕組みを、根っこから綺麗さっぱり消し去ってやる……。アリア、お前のことを二度と忘れないために、俺の『941』の力は全部そのために使い切るつもりだからな。」
「もう、カナタったら……。記憶がなくなっても、またそんな気恥ずかしいことを、大真面目な顔してさらっと言うんだから……。」
アリアは呆れたように小さく吐息を漏らしながらも、再び尖ったエルフの耳の先端をほんのりと綺麗な桜色に染め上げた。
だが、今度は今朝の宿屋のときのように、キャパオーバーで真っ赤になってどこかへ駆け出してしまうことはなかった。
代わりに、少しだけ歩幅を狭めて俺の距離を詰めると、俺の黒い上着の袖を、細くて白い指先でぎゅっと控えめに掴んできたのだ。
ポカポカとした彼女の優しい体温が、上着の布地を通して俺の右腕にしっかりと、愛おしく伝わってくる。
たとえ30日ごとに記憶がリセットされ、脳髄が真っ白に初期化されてしまう世界のバグがあろうとも、このアリアのいじらしい仕草一つだけで、2周目の俺の胸の奥のメーターは簡単に限界突破してしまいそうだった。
1周目の俺が、命を懸けてでもこの女の子を守れと書き残した理由が、秒ごとに深く理解できてしまう。
「でもね、カナタ。大迷宮の第1階層は、いくらオズワルド長官の特別通行許可証があるからって、絶対に油断しちゃダメよ。あそこは古い巻物にあった通り、世界のシステムエラーがそのまま『肉体』を持って彷徨っているような場所なんだから。この大通りの周りにいる通常の野生の魔獣とは、生態も、強さも、全く違う性質の変異種がウロウロしているって、昔ギルドの講習でも教わったわ。」
「世界のシステムエラー、か。まぁ、存在自体が不条理バグの塊みたいな今の俺には、これ以上ないくらいお似合いのステージかもな。」
俺がフッと自嘲気味に笑いながら、上着のポケットの中にある『黒い手帳』の感触を指先で確かめた、その瞬間だった。
──ピキリ。
周囲の空間が、まるで見えない薄いガラスに一筋のヒビが入ったかのように、不自然に 歪んだ。
さっきまで俺たちの頬を優しく撫でていた五月の穏やかな風が、まるで世界の時間が止まったかのようにピタリと鳴り止む。
直後、旧区画の影が濃い路地の奥から、およそ有機物である生物のものとは思えない、キィィィンという『電子音のひずみ』に酷似した、悍ましい唸り声が地を這うように響いてきた。
「──ッ!カナタ、下がって!何か来るわ!」
アリアがそれまでの甘酸っぱい空気を一瞬で吹き飛ばすような、鋭く張り詰めた静止の声を上げた。
同時に、驚くべき速度のステップで俺の斜め前に滑り込みながら、腰の細身の剣を音速で引き抜く。
彼女の手首で、真珠のブレスレットがシャランと冷たく鋭い金属音を立てて瞬いた。
薄暗い路地の奥。
ドロリとした重苦しい影が蠢く中から、ゆっくりと四足で這い出てきたのは、一見するとこの世界で一般的に生息している中級魔獣『影這い狼』の姿だった。
しかし、その肉体は明らかに異様であり、この世界の生態系から逸脱していた。
狼の形をした漆黒の毛並みの一部が、まるで壊れた液晶画面のディスプレイのように、ドット単位で四角くモザイク状に激しく欠損しているのだ。
その歪な空間の隙間から、赤黒いエラー魔力のノイズが、チカチカと不気味な明滅を繰り返しながら激しく 爆ぜている。
さらに恐ろしいことに、その姿はまるで現実の座標に固定されていないかのように、輪郭が絶え間なく左右にブレ、酷い残像を残していた。
こちらを憎悪に満ちた目で睨みつける顔面には、歪に配置された三つの眼球が、これまた不規則な速度で点滅を繰り返している。
──グルルルル……ピ、ピピ……ガガガッ……!
生物の喉から鳴らされているとは到底思えない、まるで機械の故障音のようなノイズを周囲の大気に撒き散らしながら、エラー変異種の狼が狂暴な 牙を 剥いてこちらへと肢を進める。
大迷宮の入り口を目前にして、俺たちの前に牙を剥いて立ち塞がったのは、世界のバグそのものが形を成した、おぞましき未知の魔物だった。
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