第一章15 世界は白紙に戻せても、思い出のログは残したい
――キィィィィィン……ピピ、ガガガッ……!
旧区画の薄暗い路地裏に響き渡るのは、生物の喉から鳴らされているとは到底思えない、壊れた電子機器のようなノイズだった。
「カナタ、下がって!この魔物は……普通の魔物じゃないわ……っ!」
アリアの鋭い制止の声と同時に、手首の深海真珠のブレスレットがシャランと冷たい音を立てる。
空色の髪をなびかせ、滑らかなステップでエラー狼の懐へと滑り込んだアリアは、その細身の剣を容赦なく一閃させた。
現役の優秀な冒険者としての、寸分の狂いもない、狼の首筋を完璧に捉えたはずの必殺の軌道。
だが、次の瞬間、俺たちの目の前であり得ない不条理が起きた。
──ザシュッ……ピピリ、ガッ……。
手応えの無い、妙に電子的な音が路地に響く。
剣先が触れた瞬間、狼の肉体がまるで壊れた液晶画面のように、ドット単位で四角くモザイク状にブレたのだ。
アリアの刃は、そのモザイクの隙間をすり抜けるようにして、虚しく虚空を切り裂いていた。
「え……っ!?刃が、通り抜けた……!?」
「物理的な当たり判定が消えてる……!?なんだよその無敵バグ性能は!」
俺が驚愕の声を上げた時には、すでに遅かった。
狼が不気味に三つの目を明滅させ、鋭い爪をアリアへと振り下ろす。アリアは即座にバックステップを踏み、爪の軌道から完全に身をかわした――はずだった。
──ズガッ!!!
「きゃああっ!?」
ワンテンポ遅れて、何もない空間から激しい衝撃波が発生し、アリアの体が弾かれたようにレンガの壁へと吹き飛ぶ。
身をかわしたはずなのに、世界のシステムが『攻撃が当たった』という結果を遅れて強制的に書き込んできたのだ。
「アリア!!」
俺は『絹豆腐、絹豆腐……』と心の中でブレーキの呪文を唱える余裕すらなく、アリアを助けるために一歩前へ踏み出した。
だが、足元に広がる黒いエラーノイズに触れた瞬間、全身の『オール941』の万能感が、まるでデータ容量の処理落ちを起こしたかのように、泥のように重く沈み込んでいく。
──クソっ、神様の作ったバグってのは、怪力や素早さの数値だけで力任せに殴れる相手じゃねえってことか!
じわり、と全身にまとわりつくエラーノイズの不快感が、脳の奥を直接かき回してくる。
指輪で抑え込んでいるはずの全能感が、まるで見えない鎖でがんじがらめにされたかのように動かない。
「カナタ、ダメ……!その魔物の近くにいたら、体からどんどん生気が吸い取られて、まともに動けなくなっちゃう……っ!」
壁に背中を打ち付けながらも、アリアは必死に声を張り上げ、俺を背中に隠そうとよろよろと立ち上がった。
引き裂かれた水色のブラウスの袖から、かつてジークさんの店で手当てしてもらったという、アリアの白い二の腕が覗く。
そこには、さっきの奇妙な衝撃の余波による細い赤みが、痛々しく浮き上がり始めていた。
せっかく、1ヶ月前の俺が命がけで守り抜いた大切な女の子が、俺の目の前でまた傷つけられている。
頭がカッと熱くなる。
脳内の手帳のログが、激しい警告灯となって明滅した。
『お前がすべての記憶を失い、世界のすべてがお前を忘却の底へ突き落とそうとも、彼女を絶対に一人にするな。お前が彼女のヒーローになるんだ。』
「ヒーローが、目の前で相棒を傷つけられて黙っていられるかよ……っ!」
俺は奥歯を噛み締め、呪いのような寒気で鉛のように重くなった右足を、無理やり地面へ叩きつけた。
一歩。
世界の理が俺の挙動を拒絶するように、足元で赤黒い火花がチカチカと爆ぜる。
だが、俺の根底にある『体力:941』の圧倒的な質量が、不条理な世界の拒絶に力任せに打ち勝った。
直接殴っちゃダメなのは分かっている。
触れた瞬間に『攻撃力:941』が暴発して、狼の存在ごとこの路地裏が物理的に消滅しかねない。
ならば、周囲の環境を巻き込んだ、いつもの『幸運:941』による連鎖事故の始動だ。
俺は路地の隅に放置されていた、頑丈な魔鉄製の空き樽へと視線を走らせた。
身体の出力をコンマ数ミリ単位で計算し、その側面を右足のつま先で軽く弾く。
狙うは、狼の頭上に今にも崩れ落ちそうに引っかかっている、古びた道具屋の鉄製看板。
樽を跳ね返らせて看板を叩き落とし、その鉄の質量で狼を上から圧殺する――完璧な、因果の連鎖の始まり。
――ドゴォォォンッ!!!
弾かれた魔鉄の樽が、狙い通りの弾道を描いて突進していく。
しかし、その樽がエラー狼の頭上数センチの空間へと差し掛かった、まさにその瞬間だった。
――ピ、ピピピ……ガガガガガガガッ!!!
耳を瞑りたくなるような激しいノイズ音と共に、狼の周囲の空間そのものが、完全に凍りついた。
大型トラックを容易にひしゃげるはずの速度で飛んでいた鉄樽が、見えない透明な壁に阻まれたかのように、空中でピタッと静止してしまったのだ。
「は……?飛んでいた樽が、完全に止まった……!?」
「嘘……っ!?カナタのあの異常な幸運の連鎖が、届かない……!?」
アリアが水色の瞳を限界まで丸くして絶叫する。 『幸運:941』による確率論の捻じ曲げすら、世界の不条理そのものであるこいつの前では、因果関係の法則ごと『無かったこと』に書き換えられてしまうらしい。
空中で完全に静止した鉄樽は、やがて四角いモザイク状に変異し、そのまま世界の境界線から零れ落ちたかのように、サラサラと灰色のチリとなって虚空へ消滅していった。
――グルルルル……ピピ、ガガッ!
三つの眼球を不規則なコマ送りで明滅させながら、バグ狼がじり、じりと距離を詰めてくる。
狼が歩くたびに、石畳の地面が四角い反転を繰り返し、まるで世界の見た目が 剥がれ落ちていくかのような不気味な光景が広がっていく。
「カナタ、逃げて……!この魔物は、普通の攻撃じゃ絶対に 倒せないわ!大迷宮の門が開く前に、世界の歪みそのものに私たちが呑み込まれちゃう……っ!」
アリアが俺の黒い上着の袖をきゅっと掴み、涙目で俺を引っ張ろうとする。
だが、逃げようにも、路地の入り口はいつの間にか、赤黒い奇妙な光の壁によって完全に閉ざされていた。
物理も通じず、偶然の連鎖も届かない。
触れればこちらの肉体まで奇妙なノイズに侵食され、泥のように重くなる、最悪の無敵能力。
1周目の俺が残してくれた数々のカオスな伝説も、新調したお揃いの青いランタンも、この理不尽な世界の拒絶の前には、ただの紙切れ同然に無力化されようとしていた。
バグ狼が、大きく身を翻す。
空間を完全に無視した、瞬きする間のワープを伴った超高速の噛みつき。
残像すら置き去りにしたその黒い顎が、俺とアリアの喉元へと、同時に迫り狂う。
──クソ、どうすりゃいい……!怪力も、素早さも、幸運も、世界そのものが狂っているこの状況じゃ、一切の因果が噛み合わねえ。世界の不条理を、力任せに『殴る』以外の手法で、上書きして消し去る裏技なんて――。
絶望的な速度で迫る黒い牙を見つめながら、俺の指先が、黒い上着の胸ポケットの奥深く、1ヶ月前の俺の相棒であった『あの文房具』へと、吸い寄せられるように触れた。
その瞬間、脳髄の真っ白な領域に、昨日ギルド長官室でオズワルド長官から見せてもらった『最古の巻物』の光景が、鮮烈な電撃となってフラッシュバックした。
『そこにこのフリクションペンを突き刺して、記憶消去のプログラム自体を摩擦熱で消去して上書きしてやれば、世界のシステムを完全にハッキングできるはずだ。』
――摩擦熱で、消去して、上書き。――熱によって、インクの文字を透明化させて消滅させる原理。
昨日、あの最高機密のデバッグログを前にして、俺自身が確信したあの仮説が、目の前のバグ狼の存在理由と完璧な一本のコードとなって繋ぎ合わされた。
「……なるほどな。そういうことかよ、神様。」
俺はニヤリと、この絶体絶命の窮地において、最高に獰猛な笑みを唇の端に吊り上げた。
「カナタ……!?危ない、笑ってる場合じゃ――。」
アリアの悲鳴のような静止の声を背中で受けながら、俺は『絹豆腐、絹豆腐……』と心の中で唱えていたブレーキの呪文を、完全に脳内から消去した。
もう手加減なんて糞食らえだ。
力任せに殴って世界が壊れるなら、最初から世界のバグの仕組みそのものを、俺の持つ現代日本のアイテムで上書きしてやればいい。
俺は左手に下げていたホン・キホーテのレジ袋の奥へと、躊躇なく右手を突っ込んだ。
歪んだ空間のノイズに負けることなく、袋の底で冷たく触れたのは、さっきルネさんの店でお近づきの印として貰ったばかりの、半透明のガラスのような球体――『精霊の落とし物』だ。
──手帳のログ:衝撃を与えると、周囲の物質の摩擦抵抗を数分間だけ完全にゼロにする、使い道に困る魔導具。
「ルネさんには悪いけど、使い道なら今ここで100パーセントの正解を見つけてやったぜ!」
俺は『素早さ:941』の超速度のトリガーを、静かに引き絞った。
時間が完全に停止したかのような、白黒反転しかけたモノクロのスローモーションの世界の中、目の前に迫る狼の黒い顎に向かって、俺は右手の『精霊の落とし物』を、思いきり握りつぶすようにして正面から叩きつけた。
――パキィィィィィンッ!!!
路地裏の湿った空気を引き裂いて、空間のガラスが割れたかのような甲高い魔導音が激しく鳴り響く。
球体が砕け散った瞬間、中に封じ込められていた風の精霊の悪戯が爆発し、エラー狼の肉体を構成する赤黒いノイズの表面へと、ダイレクトに吹き付けられた。
摩擦抵抗、完全なるゼロの概念。
それは物質の表面に働くあらゆる『吸着力』や『結合力』、そして世界のシステムと噛み合う『因果の紐付け』すらも無効化する不条理な防壁だ。
次の瞬間、アリアの細身の剣すら虚しくすり抜けていた狼の理不尽な「空間のすり抜け能力」が、摩擦ゼロの膜によって周囲の世界から完全に乖離させられた。
――ピ、ピピピ……ガガガッ!?!?
狼が、これまで聞いたこともないような狼狽した電子バグノイズを上げて、空中で不自然に硬直する。
左右へのブレも、時間軸を無視したコマ送りのワープをすることもできなくなり、完全にただの『物理的な質量を持った的』として、俺の目の前に強引に実体化して縫い付けられたのだ。
「よし、実体化完了だ。次は――お前のお会計の時間だよ。」
俺は間髪入れずに、右手の親指で黒い上着の胸ポケットから『フリクションペン』を完全に引き抜いた。
カチリ、と静まり返った世界の境界線の中で、プラスチックの小さなノック音が妙に大きく響き渡る。
インクを浸す先もない、現代日本のありふれた百数十円の文房具。
だが、この世界のシステムから見れば、存在自体がエラーを引き起こす最悪の不正データ。
俺はペンをひっくり返し、後ろについている半透明のラバーを、バグ狼の額に浮かび上がる赤黒いエラー文字のノイズへと、ダイレクトに押し当てた。
そして――文字通り、俺の持つすべての『素早さ:941』をペン先の一点へと集中させ、猛烈な勢いで「ゴシゴシ」と擦りつけ始めたのだ!
──シュババババババババババババババババババババババババッッッッ!!!
路地裏の空気が、およそ文房具を動かしているときには鳴り響かないはずの、凄まじい超音速の衣擦れの音を立てて爆ぜた。
俺の右腕はすでに人間の動体視力を完全に置き去りにし、何十本もの残像となって空間を埋め尽くしている。
指輪の魔力遮断効果がギリギリで耐えているものの、ペンを持った右腕の残像はまるで千手観音のようにブレて、路地裏の壁を削り取るほどの風圧の渦を生み出していた。
摩擦抵抗ゼロの膜の上で、フリクションペンのラバーが、神速の速度で狼の肉体を往復する。
そこに発生したのは、この世界の最高級の攻撃魔法すら遥かに凌駕する、局地的な太陽をも想起させるほどの圧倒的な『超高速の摩擦熱』だった。
熱によって、色を透明化させて、存在そのものを無に還す原理。
世界のメインシステムに書き込まれた『消えないエラー文字』と同じである目の前のバグ狼に対し、現代日本の最先端化学技術が、最強の修正を強制執行していく。
「な……何よ、それ……っ!?カナタ、何をしているのよおおぉぉっ!?」
背後で、剣を構えたまま完璧にフリーズしていたアリアの、本日一番のキレのある絶叫ツッコミが炸裂した。
そりゃそうだ。
命がけの不条理な魔物を前にして、記憶を失ったはずの青年が、ただの小さなペンを握りしめて、超高速で狼の顔面を「ゴシゴシ」と必死に大掃除しているのだから。
アリアの水色の瞳は顎が外れそうなほど丸くなり、引き裂かれたブラウスの袖のことも忘れて、俺の手元のあり得ない挙動を凝視している。
だが、その効果は、アリアの常識を何重にもバグらせるほどに圧倒的だった。
――ジュワァァァァァァァッ……!!!
俺の放つ凄まじい摩擦熱と『魔力:941』の不条理なエネルギーに直撃された瞬間、エラー狼の肉体を構成していた赤黒いモザイクや、左右にブレる残像の術式が、まるで消せるボールペンのインクのように、跡形もなく綺麗に『透明化』して消滅し始めたのだ。
ゴシゴシと擦るたびに、狼の頭が消え、胴体が消え、バグのノイズごと世界のシステムから強制的に消去されていく。
──ガガッ……ピ、ピピ……ッ……。
最後の断末魔のようなエラー音を残し、狼の巨体は光の塵すら残さず、完全に空間から『無かったこと』に書き換えられて消え去っていった。
バグ狼が完全に消滅した路地裏には、ただ、フリクションペンのノック部分が発した微小なプラスチックの焦げる匂いと、俺たちの荒い息遣いだけが取り残されていた。
赤黒いノイズによって白黒反転を繰り返していた石畳の地面は、何事もなかったかのように元の古びたレンガの色へと戻っている。
入り口を塞いでいた奇妙な光の壁も、まるで最初から存在していなかったかのように綺麗さっぱり霧散していた。
「……ふぅ。これで、綺麗に全消し完了だな。」
俺は右手のフリクションペンをカチリとノックしてペン先を引っ込めると、額の汗をぬぐいながら、大きく一つ息を吐き出した。
まさか現代日本の文房具が、異世界のシステムバグを根こそぎ消去する究極の消しゴムとして機能するとは、我ながらとんでもないハッキング手法を見つけてしまったものだ。
「……消えた。光の塵すら残らないなんて……高位の神聖消滅魔法だって、あんな風に魔物の存在そのものを無に還すなんて不可能なのに……。」
アリアは、狼がさっきまで浮かんでいた虚空を、水色の瞳をこれ以上ないほど丸くして見つめたまま、完全に石化していた。
右手に握られた細身の剣は、完全に戦う目的を失ってだらりと地面へ向けられている。
「ねえ、カナタ……。今、何をしたの?何でその小さな棒をゴシゴシって動かしただけで、世界の不条理が文字通り消しゴムで消されたみたいにいなくなっちゃうわけ?ルネさんの言っていた『記録を無に還す魔筆』って、もしかして本物の神聖遺物だったの……っ!?」
アリアはガタガタと肩を震わせながら、俺の胸ポケットへ仕舞われたフリクションペンを、恐ろしい呪いのアイテムでも見るかのような目で見つめてくる。
無理もない。
命がけの死闘の結末が、百数十円のペンによるゴシゴシ大掃除なのだから、現役冒険者としてのプライドや常識が何重にもバグを強制上書きされて、処理落ちを起こしてしまっているのだろう。
「いや、だからただの摩擦熱で色を透明にしてるだけだって。ほら、それよりアリア、腕の怪我は大丈夫か?」
俺は苦笑いしながら一歩歩み寄り、彼女の引き裂かれたブラウスの袖口へと視線を向けた。
手帳のログにあった通り、かつて負った傷の痕のすぐ近くに、さっきの衝撃判定による細い赤みがじんわりと浮かび上がっている。
「あっ……う、うん。大丈夫よ。カナタがすぐにそいつを消してくれたから、かすり傷で済んだわ……。それより、本当にカナタって、記憶がなくなっても信じられないやらかしばかりするんだから……。」
アリアは照れ隠しのようにフンスと小さな鼻を鳴らすと、真っ赤になった尖った耳を隠すようにブラウスの袖を引っ張った。
手首の深海真珠のブレスレットが、彼女の乱れた呼吸に合わせてシャランと小さく揺れる。
そのどこまでも健気で、記憶のない俺を本気で心配し、そして必死に強がってみせる姿が、たまらなく愛おしい。
1周目の俺が遺した『お前が彼女のヒーローになるんだ』という言葉の重みが、静まり返った路地裏の空気の中で、確かな熱を持って俺の胸の奥へと染み渡っていく。
──世界のシステムがどれだけバグに満ちていようが、この女の子の笑顔を守るためなら、2周目の俺だって何度でも不条理をハッキングしてやる――。
そう、固く心に誓い、腰のお揃いの青い魔石ランタンに手をかけようとした、まさにその瞬間だった。
――キチキチキチキチ……ピ、ピピ、ガガガガガガガガッッッ!!!
路地裏の静寂を切り裂いて、さっきのバグ狼のそれとは比較にならないほどの、鼓膜を直接ナイフで抉られるかのような激しい電子ノイズの大爆音が一斉に鳴り響いた。
「なっ……何よ、この音……っ!?地面が……街が揺れてる……!?」
アリアが悲鳴のような声を上げ、咄嗟に俺の黒い上着の袖をギュッと掴み込んできた。
掴まれた袖口から、彼女の指先が尋常ではない強さで震えているのが伝わってくる。
見れば、周囲のレンガの壁や石畳の床が、凄まじい速度でドット単位の白黒反転を開始していた。
路地裏の景色全体が、まるで壊れたテレビ画面の砂嵐のようにチカチカと激しく明滅し、視界の境界線が不気味に歪んでいく。
そして、その空間の歪みの奥から、ドロリとした漆黒の影が、次から次へと溢れ出してきた。
――グルルルルル……ピピピ……ガガッ!
――キィィィィィン……ギギギギギッッッ!!!
現れたのは、さっき倒したエラー変異種の狼だけではなかった。
毛並みが完全にモザイク状にバグった影這い狼の大群。
それだけにとどまらず、羽の一部が四角く欠損し、残像を左右に激しくブレさせながら滑空するエラー変異種の怪鳥。
さらには、全身が黒い立方体のノイズに覆われ、歩くたびに石畳の物理演算を仕事放棄させて泥のように陥没させていく、巨大な岩石の魔物まで。
その数、ざっと見ても数十匹、いや、百匹近く。
狭い路地裏の空間を完全に埋め尽くすようにして、世界のシステムエラーそのものであるバグ魔物の『大軍勢』が、チカチカと不気味な赤黒いノイズを爆ぜさせながら、俺たちを完全に包囲していた。
「う、嘘でしょ……!?何でこんな旧区画の路地裏に、大迷宮の最深部にしかいないはずの変異種が、こんな大群で湧き出てくるのよぉぉぉっ!?」
アリアの声が、かつてないほどの恐怖と絶望で完全に引き攣っていた。
いくら彼女が現役の優秀な冒険者だとしても、物理攻撃が一切通用せず、触れただけで生気を吸い取られる無敵のバグ魔物が、これほどの質量で押し寄せてきては、戦うどころか逃げる術すら存在しない。
周囲の空間全体が、限界を超えたエラーデータの肥大化によって、まるで世界そのものが処理落ちを起こしたかのように、泥のように重く、冷たい寒気となって俺たちの肉体を締め付け始める。
『幸運:941』の自動防衛システムを起動させようと指をパチンと鳴らしてみるが、連鎖事故を起こすための周囲の看板や樽すらも、大量のノイズに当てられてカタカタと完全に停止し、途中で消滅してしまった。
確率論の完全無効化。
圧倒的な数の暴力。
さっき見つけたばかりのフリクションペンによる「全消しハッキング」も、これだけの数の魔物に一斉にラグ噛みつきを食らわされれば、ゴシゴシと擦る時間すら与えられずに、一瞬で肉体ごとデータを消去できる。
「カナタ、だめ……もう、入り口も、空も全部囲まれてる……。大迷宮に辿り着く前に、私たちはここで……っ。」
アリアの水色の瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ落ち、俺の袖を掴む力がへなへなと弱まっていく。
お揃いのランタンを灯して、2人で未来を掴むはずだった2周目の異世界攻略が、開幕わずか数分で、世界の圧倒的な拒絶によって完全に詰みへと追い込まれようとしていた。
チカチカと明滅する百匹近い3つの眼球が、一斉に鋭い牙を剥き、時間軸を完全に無視した瞬きする間のワープ攻撃で、俺たちを肉片ごと消去すべく、四方八方から同時に襲いかかってくる――。
──クソが、数が多いなら多いで、やり方なんていくらでもあるんだよ。
俺は、恐怖に震えるアリアの華奢な肩を、左腕でそっと引き寄せ、自分の胸元へと強く抱き込んだ。
「アリア、耳を塞いで目を瞑ってろ。2周目の俺の、お会計のスケールを舐めるなよ。」
俺は右手の指先を、今度は狼ではなく、足元に広がる『路地裏の地面そのもの』へと真っ直ぐに向けた。
世界のシステムがバグの大群を処理しきれずにクラッシュしかけているなら、そのステージごと、現代日本の文房具の不条理な熱量で、文字通り根こそぎ『白紙』に戻してやるまでだ。
俺はニヤリと、暗黒に染まるバグの嵐の中で、最高に獰猛な笑みを唇の端に吊り上げた。
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