↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【新作連載小説】記憶寿命30日の世界で、はじめましてから始める異世界攻略  作者: 新井 はじめ
第一章 『白紙の記録』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/17

第一章7 長官室って何階ですか?

 地下道をしばらく歩いてきた俺とアリアは、大きな問題に直面していた。

それは──。


「アリア、大ニュースだ。俺、どこから入ればギルド本部なのかわからない……うん、普通に迷子。どこから入るのこれ?」


「ちょっとカナタァァァッ!!あんなにカッコよく『お会計を請求しに行ってやる』とか言って乗り込んできたのに、最初の通路で迷子ってどういうことおおぉぉ!?」


 俺の胸元に収まったままのアリアから、至近距離で本日最大級のツッコミが飛んできた。

 お姫様抱っこの甘い空気も、ギルド本部を強襲するというシリアスな緊迫感も、俺の『普通に迷子』という一言で一瞬にしてお笑い空間へとリセットされてしまった。


「いや、だってさ、ジークさんから鍵は貰ったけど、この地下水道の地図までは貰ってないだろ?右も左もレンガの壁だし、さっきからずっと同じ場所をグルグル回ってる気がするんだよな……。」


 言い訳をしながら周囲を見回す。

 天井からは冷たい水滴がポタポタと滴り落ち、ランタンの光も届かない闇の奥からは、時折(ときおり)ヒュゥゥという不気味な風の音が聞こえてくる。


「ひゃぅっ!?」


 不意に、地下道の奥で大きな水音が響いた瞬間、アリアが短い悲鳴を上げて俺の首元にギュッと抱きついてきた。

 尖ったエルフの耳を真っ赤に染めながら、俺の黒い上着をシワが寄るほどの力で握りしめている。


「な、何よカナタ、その目は……!私は別に怖がってるわけじゃないわよ!?ただ、暗くて足元が滑ったら危ないから、今回だけ、この地下道を抜けるまでだけ、特別に抱っこされたままでいてあげるって言ってるの!」


 そう言いながら、アリアは俺の腕の中で、自分の腕のケガが痛むだろうに、俺が冷たい水滴に濡れないようにブラウスの袖で俺の頭をそっと覆おうとしてくれた。


 こんなパニックの最中(さなか)ですら、自分の痛みより真っ先に他人の心配をしてしまう。

本当に、どこまでも心優しい女の子だ。


「ああ、そっか。ありがとうなアリア。じゃあお言葉に甘えて、このまま進むぞ。」


「っ〜〜!もう、本当に緊張感がないんだから……!」


 アリアは恥ずかしさを誤魔化すように俺の胸元に顔を埋めて小さくなってしまった。

至近距離から伝わってくるアリアの甘いアロマのような香りと、彼女のポカポカとした体温のせいで、俺の心臓のオール941の脈拍も、別の意味で限界突破しそうだった。


 しかし、本当にこのままではギルドの衛兵が旧区画のジークさんたちの店に踏み込むまでのタイムリミットが過ぎてしまう。


「地図がないなら、勘で行くしかないな。」


 俺はアリアを左腕一本でしっかりと支え直すと、空いた右手でポケットからジークさんに貰った古びた鉄の鍵を取り出した。


「よし。ジークさんの鍵、どこかに挿せる場所がないか壁をトントンって探してみるか。」


「ちょっと待ってカナタ!!カナタのその指先トントンは物理的に世界を破壊するから、絶対に壁に触っちゃダメえええ!!」


 アリアが悲鳴のような制止の声を上げたが、時すでに遅し。

 俺は「このへんのレンガ、ちょっと浮いてるな」と思った場所へ、手にした鉄の鍵の先端を、本当に優しくトントンとノックするように突き立てていた。


 その瞬間、俺のポケットの奥深くで眠っていた、もう一つの理不尽バグの『幸運:941』が、世界の隠されたシステムと最悪の噛み合わせを見せた。


 カチリ。


 ただのレンガの壁から、なぜか精巧な金庫のロックが解除されたかのような、綺麗な金属音が響き渡る。


「……え?」


 アリアが呆気に取られた声を漏らした次の瞬間、地下道の頑丈なレンガ壁が、ピタゴラスイッチのようにゴゴゴゴゴ……と音を立てて横へとスライドし始めたのだ。


「う、嘘でしょ……!?鍵穴すらないただの壁なのに、鍵でノックしただけでギルドの極秘隠し通路がハッキングされて開いちゃったわよ……!?」


「ハハ、ジークさんの鍵、万能だな。よし、突入だアリア!」


 俺は開いた暗闇の通路へ向かって、躊躇なく一歩を踏み出した。


 薄暗い階段を数段駆け上がると、目の前には、地下道の湿った空気とは明らかに違う、高級な絨毯と、温かい照明に照らされた贅沢な大部屋が広がっていた。


 だが、俺の『幸運:941』の自動ナビゲートシステムは、どうやら最短ルートを選びすぎるあまり、ギルド本部の「一番気まずい場所」へと俺たちを導いてしまったらしい。


 目の前に広がっていたのは、ギルドの地下倉庫ではなく──これから旧区画の強制捜索へ向かうために、お茶を飲んだり、カレーのようなものを食べたりしてのんびりと待機していた、ギルドの超エリート特務衛兵たちの休憩室だった。


「「「「………………!?」」」」


 エルフの美少女をお姫様抱っこし、ホンペンが描かれた袋を下げて壁からぬっと現れた俺。


「………………あ。」


 スープの入ったスプーンを口元で止めたまま硬直する衛兵、着替えの途中で胸当てを半分浮かせたまま石化した男、全員の視線が、一斉に俺たちへと突き刺さる。


 静まり返る豪華な休憩室。


 俺はバクバクと波打つ心臓を落ち着かせながら、なんとか営業スマイルを作って、ポケットの中のフリクションペンをカチリとノックした。


「あ、お食事中すみません。はじめまして……あの、長官室って何階ですか?」


「「「「侵入者だああぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!!!」」」」


 特務衛兵たちの悲鳴のような怒号が休憩室に響き渡り、彼らは一斉にスプーンを投げ捨てて、壁に立てかけてあった大剣や槍を引っ掴んだ。


「待って!みんな落ち着いて、武器を引いて……っ!」


 俺の腕の中で、アリアが必死に両手を広げて衛兵たちに向かって声を張り上げた。


「アリア!?お前、ギルドを裏切ったというのは本当だったのか!」


「なぜそんなふざけた男と、地下の隠し通路から……っ!」


「違うの!カナタは悪い人じゃないわ!彼はただ……ちょっとだけ、普通にギルド本部に訪ねに来ただけなの!お願いだから剣を収めて!今ここで戦ったら、あなたたちじゃ絶対に敵わなくて、みんなまとめて、大通りのときみたいに街の彼方まで吹き飛んじゃうわ……っ!!」


 アリアは涙目になりながら、敵であるはずの衛兵たちの命を本気で心配して、必死に彼らを止めようとしていた。


 そう。アリアは知っているのだ。


 指輪を外した俺の『攻撃力941』がどれほど理不尽か。ここで衛兵たちが不用意に襲いかかれば、この綺麗な休憩室ごと、彼らの骨が消し飛ぶような大惨事になることを。

自分を捕まえに来るはずの相手すら本気で気遣う彼女は、本当に優しすぎる。


「お前たちの心配をしてくれているんだ、本当に心優しい女の子だな、アリアは。」


 俺が腕の中の彼女を見つめてしみじみと言うと、アリアは顔を真っ赤にしながら──。


「もう!カナタ、呑気に感心してないで、早く彼らを無傷で気絶させてあげて!」

と、やはりどこまでも優しい無茶振りを俺に投げかけてくるのだった。


「無傷で気絶させて、か……。相変わらず無茶を言う。」


「文句言わないの!カナタならできるでしょ!?」


 アリアが俺の首にしがみついたまま、涙目で怒鳴る。


 できるかできないかで言えば、物理的には非常に難しい。

 なぜなら、俺の『攻撃力:941』は、かすっただけで人間が消し飛ぶ文字通りの一撃必殺。

普通にデコピン一発放つだけで、音速を超えた衝撃波が彼らの肉体を塵に換えてしまう。


 かと言って手加減しようにも、俺の全ステータスはバグで『941』に固定されているため、『攻撃力:1』の手加減パンチを繰り出すことすらシステム的に不可能なのだ。


「問答無用!反逆者アリアと共に捕縛(ほぼく)する!」


 先頭の重装衛兵が、大剣を上段に構えて突進してきた。残りの3人も槍と片手剣を構え、完璧な連携で俺の退路を断つように回り込む。

さすがはギルドの超エリート特務衛兵、動きに一切の無駄がない。


「よし、やるか。」


 俺は覚悟を決め、アリアを左腕一本でしっかりと抱き直した。


 指輪を外した今の俺が直接触れれば、彼らは一瞬で消滅する。

だから俺は空いている右手の親指を人差し指に掛け、襲いかかる大剣の刃先に向けて、ただの空気抵抗の操作として、空中で指をパチンと弾いた。


 直接触れてはいけない。

ただ、彼らの目の前の空気を少しだけ揺らすイメージだ。


 その瞬間、俺のステータスに刻まれたもう一つの理不尽――『幸運:941』という名のバグが、世界という名のプログラムに致命的な計算エラーを強制的に叩き込んだ。


 ピシィッ!!!


 俺の指先が弾いた空気が、まるで超高圧の衝撃波(ソニックブーム)のようになって休憩室を駆け抜けた──はずだった。


 しかし、あまりの幸運値の高さのせいで、その衝撃波は衛兵たちに直接ぶつかる直前、部屋の隅にあったあるものにピンポイントで命中した。


 ドゴォン!!!


 激しい破壊音と共に吹き飛んだのは、衛兵たちではなく、彼らが優雅にお茶を淹れていた超巨大な特製マジックアイアン製湯沸かし器のような機械だった。


 破裂した湯沸かし器から、一瞬にして数百度の超高温の蒸気が、ホワイトアウトするほどの勢いで室内に噴き出す。


「うわああああっ!?蒸気で前が見え──。」


「気にするな!相手は一人だ、気配を読め!訓練通りに囲んで叩け!」


 さすがは特務衛兵、視界を奪われても動揺しない。

重装甲の足音を響かせ、大剣の風切り音が網の目のように俺たちを襲う。


 だが、『幸運:941』のピタゴラスイッチは、まだ始まったばかりだった。


 湯沸かし器が爆発した衝撃で、天井を通っていた旧式の水道パイプが破裂。

冷水が滝のように降り注ぎ、激しい蒸気と混ざり合って部屋の温度が一気に急降下した。


 さらに悪いことに、彼らがのんびり食べていたものの鍋がひっくり返り、高級絨毯(じゅうたん)の上に大量のルーがぶちまけられる。

冷水とルーの油分が混ざり合った床は、一瞬にしてローション並みにヌルヌルとした絶望のトラップ地帯へと変貌した。


「うわっとっと!?」


 大剣を振り下ろそうとした先頭の衛兵が、思いきり足を滑らせて体勢を崩した。

その巨体が、横から槍を突き出そうとしていた2人目の衛兵にドスンと激突する。


「ぐはっ!?おい、何をする!」


「す、滑る!床が信じられないくらい滑るぞ!」


 2人は絡み合ったまま、まるでボウリングのピンのように後方の3人目へと突っ込んでいく。

3人目の衛兵は必死に踏ん張ろうとしたが、運悪く床に落ちていたホンペンの袋を踏みつけてしまい、信じられない角度で足首が静かにスライドした。


「どわあああああーーっ!?」


ガシャァン!バキィッ!ドゴッ!


 視界ゼロの白い霧の中、鈍い打撃音と甲冑(かっちゅう)がぶつかり合う派手な音が休憩室に響き渡る。 

ある者は滑った勢いで自分の大剣の柄にアゴを強打し、ある者は仲間と勢いよく頭をごっつんこさせ、ある者は受け身を取ろうとして壁の頑丈な柱に自ら頭突きをかます形になった。


「……ふぅ、これで終わりか?」


「終わらないわよ!見て、まだみんな立ち上がろうとしてる!特務衛兵の鎧の防御力を舐めちゃだめ!」


 アリアの言う通り、霧の向こうで──。


「ううっ……。」


「まだだ、ギルドの誇りにかけて……!」

と、執念の男たちがフラフラと立ち上がってきた。

頭からカレーのようなものを被り、ホンペンの袋を靴底にくっつけたまま、血眼になって武器を構え直す。


「これぞ特務の意地!連携陣形『不動の構え』──。」


「じゃあ、もう一回な。」


 俺は再び、優しく空中で指をパチンと弾いた。


 ピシィッ!!!


 二発目のデコピンの衝撃波は、今度は天井のシャンデリアを吊るしていた頑丈なチェーンに命中。

バチンと音を立ててチェーンが千切れた。


「上だ!回避しろ!」


 衛兵たちが一斉に飛び退く。

巨大なガラスのシャンデリアが床に激突して激しく粉砕された。

ここまでは彼らも読めていたのだろう。


 だが、真の恐怖はここからだった。

 粉砕されたシャンデリアの破片が、床のヌルヌルしたカレーローションの上をまるでホッケーのパックのように超高速で四方八方へと滑り出したのだ。


「なっ、うわあああ!?」


 立ち上がったばかりの衛兵たちの足元を、鋭いガラス破片が正確に襲う。

それを避けようとジャンプした衛兵の着地先には、さっきの爆発でひっくり返った金属製の丸椅子が、これまた絶妙な角度で滑ってきていた。


 ガキィィィン!!!


「ぶふぇっ!?」


 着地と同時に丸椅子を踏んだ衛兵が、マンガのように真上にすっ飛び、天井の梁に背中を強打してそのまま垂直落下。

床の絨毯(じゅうたん)へと沈んでいった。


「怯むな!残った者で突撃──。」


 まだ意識のある二人が、執念で槍を突き出してくる。

鋭い刃先が俺の胸元に迫る──が、その瞬間、天井からポタポタと落ちていた大粒の水滴が、突き出された槍の平らな側面に『幸運:941』の力でピンポイントで命中した。


 ただの水滴だ。

だが、俺のバグ補正がかかった世界線では、その水滴の重みと角度が、槍の軌道をコンマ数ミリだけ狂わせる。


 キィィィンッ!


 狂った軌道のせいで、二人の槍の穂先が空中でガチッと噛み合い、完璧にクロスしてロックされてしまった。


「しまっ──引き抜けん!?」


「おい、引っ張るな!腕が抜けるぞ……!」


 二人が槍を引っ張り合って泥仕合を始めたその時、部屋の隅でショートしていた魔導暖炉が、最後の力を振り絞って「ポンッ!」と小さく爆発した。


 その爆風で飛ばされたのは、衛兵たちが机の上に置いていた、食べかけの激辛スパイスの小瓶だった。

 蓋が開いたままの小瓶は空中で綺麗に3回転半し、槍を引っ張り合う二人の衛兵へ向けて、ちょうど開いた甲冑(かっちゅう)のバイザー越しに中身の粉末を盛大にぶちまけた。


「「ぎゃあああああああああああああああああああっっっっっっっっっっ!?????」」


 目と鼻にダイレクトで激辛スパイスを喰らったエリート特務衛兵二人は、武器を放り出して悶絶(もんぜつ)

のたうち回りながら床のカレーローションの上を激しくローリングし始めた。


「目がぁぁぁ!鼻がぁぁぁ!ギルド万歳ーーっ!特務衛兵に栄光あれぇぇぇーーっ!!」


「痛い!辛い!何だこれええええ!」


 叫びながら転がる二人の巨体は、最終的に部屋の奥にいたまだフラフラしていた最後の衛兵の足元へと激突。

巻き込まれた最後の衛兵は、綺麗な放物線を描いて宙を舞い──。


「あぶぶぶぶ……。」


 なぜか部屋の真ん中に残されていた、一番巨大な寸胴鍋の冷えかけたカレーのようなものの中に、頭から綺麗にダイブ。

そのままピクリとも動かなくなった。


 それを追うように、激辛スパイスの二人もゴロゴロと転がった末に、壁の金庫に揃って頭をゴツンとぶつけ、ようやく静かに意識を失った。


 わずか数分。


 俺が一歩も動かず、誰一人として指一本直接触れることなく、ギルドが誇る最高戦力の超エリート特務衛兵4人は、文字通りあらゆる日用品と調味料を巻き込んだ大連鎖によって、今度こそ完全に無傷で全滅した。


「……え?」


 静まり返った休憩室で、腕の中のアリアが完全に魂の抜けたような声を出した。


「う、嘘……でしょ?指を2回パチンと鳴らしただけなのに、精巧な城壁の崩落の連鎖に巻き込まれたみたいな、恐ろしい偶然で特務衛兵が全滅するなんて……。やっぱり、これが、カナタの『幸運』の力……?」


「いやあ、運が良かったな。湯沸かし器とカレー、あと激辛スパイスの配置が絶妙で助かったよ。」


「だから、それを『運が良かった』の四文字で片付けられるのがおかしいって言ってるの……。でも、よかった。本当に誰も死んでないし、大怪我もしてないみたいで……。」


 アリアは今日何度目になるかわからないため息を漏らしながらも、床に転がる衛兵たちを一人ずつ視線で確認し、心底ほっとしたように胸を撫で下ろした。

 自分を裏切り者扱いして捕らえようとした相手だというのに、彼女は本気で彼らの無事を喜んでいるのだ。


 エルフの尖った耳を少し切なげに伏せながら、俺をジト目で見てくる。


「でもね、あの人たち最後のほう、辛すぎて精神崩壊して所属ギルドを称え始めちゃってたじゃない。一体どんな因果の捻じ曲げ方をしたら、激辛スパイスで愛国心がバグるわけ?いくら無傷で気絶させるためとはいえ、もうちょっとこう……普通のやり方はなかったの?」


「偶然っていうか、ほら、古代遺跡に仕組まれたからくり罠が一斉に作動したみたいな綺麗さだったろ?誰も流血してないし、これ以上ない平和的な解決だ。」


「それは、そうだけどね……。結果オーライだし、誰も傷つかずに済んだのはカナタのおかげだけど……相変わらず絵面がちょっと個性的すぎるわね……。ギルドが誇る精鋭中の精鋭が、剣を交えることすらできずにスープとスパイスで壊滅しちゃうんだもの。可哀想に、目が覚めたらみんなで長官に大目玉を食らうかもしれないわね……。」


 アリアは、衛兵たちの戦後の評価まで本気で心配してあげている。


 彼女は「はぁ」、と今日一番深い、深淵(しんえん)のようなため息をつくと、完全にツッコミと心配のエネルギーが切れたらしく、諦めたように俺の胸元に再び頭を預けた。


 静まり返った休憩室を再び見渡す。

 床一面に広がるカレーの海、散らばる高価なガラスの破片、側面に思いきり凹みができた魔導暖炉、配置が神がかってお互いの視界を潰し合った家具、そしてあちこちで白目を剥いて転がっている特務衛兵たち。


 先頭で大剣を構えていた重装衛兵は、まだ足にホンペンの袋が綺麗にくっついたまま、時折(ときおり)「……特務……栄光……。」と小さく寝言を呟いている。


 寸胴鍋に頭を突っ込んだ最後の衛兵は、お尻だけを突き出した格好で完全に沈黙していた。


「……よし。それじゃあアリア、彼らが目を覚まさないうちに、先へ進むか。あんまりここにいると、俺たちの服までスパイスの匂いが染みつきそうだしな。」


「うん……。もう驚きもしないわ。世界が急にひっくり返っても、それがカナタの仕業なら納得するレベルに調教されちゃった気がするもの……。それに、ここで私たちが立ち止まってたら、彼らが目を覚ましたときにまた戦わなきゃいけなくなって、今度こそ本当に消し飛びかねないしね。」


 衛兵たちの身の安全を最優先に考えるアリアの言葉を聞きながら、俺は足元に注意を向ける。

 床は冷水とカレーっぽいものの油分が混ざり合い、凍りついた湖の上以上に危険な超極悪ローション地帯と化している。

普通に歩けば、それこそ俺まで滑って不様な格好を晒すことになるだろう。


 しかし、俺のバグまみれの肉体には、そんな物理法則すら通用しない。

 俺が一歩を踏み出すと、なぜか足の裏が絨毯(じゅうたん)に触れるその瞬間だけ、床の水分と油分が綺麗に弾かれ、完璧なグリップ力が生まれた。


これもまた、世界が俺に都合よくシステムを改変した『幸運:941』の恩恵なのだ。


 サクサクと何事もないように滑る床を歩いていく俺。

 その信じられない、けれどアリアにとっては見慣れてきた光景を間近で見ながら、彼女は再びジト目を深めた。


「……ねえカナタ。なんでカナタだけそんなに普通に歩けちゃうの?床の油までカナタの言うことを聞いてるみたい……。でも、おかげで抱っこされてる私は全然揺れないから、すごく安心なんだけどね。」


「さあな。日頃の行いが良いからじゃないか?」


「ふふ、そうかもしれないわね。でも、世界がカナタにめちゃくちゃ甘いのも事実……。特別な奇跡ね……。その不思議な力のおかげで、私もこうして守られてる特等席にいられるわけだし、今は細かいことは気にしないで、カナタに甘えさせてもらうことにするわね。」


 そんな少し甘いやり取りをしながら、俺はスパイシーなカオス空間を完全に踏破し、部屋の最奥に鎮座する重厚な扉の前へと辿り着いた。


 マホガニー製の立派な木製の扉。

 その横には、親切にも『長官室→上階へ』と黒文字で刻まれた金色のプレートが光っている。


「よし、アリア。道も完全にわかったことだし、今度こそ本当にお会計を請求しに行こうか。」


 俺がそう言って、空いている右手を扉へ伸ばそうとした瞬間──。


「ちょっと待ってカナタ!!!ストップ!!!手を止めて!!!」


 アリアがハッとした表情になり、俺の右腕を自分の両手で必死に掴んできた。

怪我をしているはずの手なのに、火事場の馬鹿力のような強さだ。


「どうしたんだ、アリア?」


「どうしたんだ、じゃないのよ!お願いだから、長官室のドアを開けるときは、絶対にトントンってノックしないでね!?さっきみたいに鍵の先端で優しくコンコン、とかも絶対にナシよ!?今のカナタがそれやったら、この扉どころかギルド本部が上の階からまとめて物理的に粉砕崩壊して、長官室が地下水道まで直通になっちゃうんだから!」


「いや、さすがにそこまで繊細じゃないだろ……。」


「いいえ、絶対にやる!!!カナタの『普通』と『優しい』は、この世界にとっては隕石落下(メテオ)と同じなの!私はカナタの威力を知ってるからこそ言ってるのよ!約束して、ドアはノックしないで、そーっと開けるって!」


「わかった、わかったから。善処するよ。」


 アリアを左腕でしっかりと抱き直した俺は、今度は絶対に指先が扉や壁に触れないよう、細心の注意を払った。

 指先での軽い接触ですら、俺の規格外な肉体を通せば致命的な一撃になりかねないことを、俺もアリアも熟知しているからだ。

俺は空いている右手の「手のひら」を使い、1グラムの衝撃すら与えないような信じられないスローモーションで、ドアノブを慎重に回した。


 カチャリ。


 幸い、今回は奇跡的な連鎖事故も物理破壊も起きず、綺麗な金属音と共にドアが解錠された。

アリアが「よかったぁ……」と細く息を漏らして胸を撫で下ろす。


 俺はつま先でそっとドアを押し開けた。 扉の向こうには、地下のジメジメした空気や休憩室のスープ臭とは打って変わって、冷たく張り詰めた空気が漂う、上へと続く中央の螺旋階段が伸びていた。


 長官室はこの階段を上がった先だ。


 旧区画のジークさんたちの店に衛兵が踏み込むまでのタイムリミットは、刻一刻と迫っている。


「よし、突入だ。」


 俺はアリアの体をしっかりとホールドすると、薄暗い階段へ向かって、今度こそ迷うことなく力強い一歩を踏み出した。

 壁に沿ってどこまでも続く、石造りの長い螺旋階段。


 カン、カン、と俺の足音が静かに響く中、腕の中のアリアはさっきの興奮が嘘のように静かになり、じっと上階の闇を見つめていた。

その小さな体が、時折(ときおり)微かに震えているのが伝わってくる。


「……アリア、まだ怖いか?」


「……ううん。怖くないわ。カナタがいてくれるもの。ただ……本当に、ジークさんたちのところは大丈夫かなって、それだけが心配で。」


「大丈夫さ。俺たちがここで長官の首根っこを掴めば、強制捜索の命令だって一発で取り消せる。そのために、わざわざ隠し通路をハッキングしてここまで最短ルートで来たんだからな。」


「ハッキングっていうか、ただの鍵のノックだったけどね……。まあ、あの壁が開いたときも、驚くっていうよりは『ああ、またとんでもないことが起きた』って思っただけだし。」


 アリアは少しだけ元気を取り戻したようにクスッと笑うと、より深く俺の胸に顔を埋めた。


 階段を上るにつれて、上階から贅沢な魔導照明の光が漏れ聞こえ、そして重厚なオーク材の扉が姿を現した。

 この扉の向こうが、すべての黒幕であるギルド長官の部屋──長官室だ。


「さあ、着いたぞ。」


 俺は扉の前で足を止め、腕の中のアリアを見つめる。

アリアは小さく、だが確かな覚悟を込めてコクンと頷いた。


 俺は再び右手を伸ばし、今度こそ完全に「お会計」を済ませるべく、長官室のドアノブへとそっと手をかけた。


挿絵(By みてみん)

気に入っていただけたら、ブックマークや評価で応援してもらえると励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。