第一章6 隠れんぼの時間はおしまいだ
気づけば、この世界に来てから2週間が経っていた。
この期間の間、俺はギルドに捕まらないようにひそひそと暮らしていた。
ルネさんの店で手に入れた『魔力遮断の指輪』の効果は絶大で、街のあちこちで行われているギルドの魔力スキャンには一度も引っかかっていない。
日中は宿の部屋か旧区画のジークさんの古道具屋に引きこもり、徹底的に気配を殺して過ごす日々。
だけど、一歩外に出れば漆黒の鉄甲冑を着た衛兵たちが今もギラギラした目で路地を睨みつけている。
その緊張感だけで、精神がガリガリと削られるような毎日だった。
そんな俺の唯一の救いは、アリアが毎日のように様子を見に来てくれることだった。
彼女は現役の冒険者としての依頼をこなしつつ、ギルドの内部から「今日はどこの区画でスキャンが行われるか。」「捜索部隊がどこへ向かったか。」という機密情報を命がけで盗み出し、俺に届けてくれていた。
「はい、これ。明日の捜索ルートの写しよ。絶対に無くさないでね。」
夕暮れ時、宿の裏口でこっそり手渡される羊皮紙の切れ端。
それを渡すアリアの目は、いつも少しだけ疲れていて、だけど俺の姿を見ると本当に安心したように優しく細められるのだ。
「ありがとな、アリア……俺のせいで、ギルドで怪しまれたりしてないか?」
「大丈夫よ。私は優秀な冒険者だもの。ちょっと上の人たちの雑談に耳を傾けただけだから、全然平気。」
アリアはいつものようにフンスと小さな鼻を鳴らして笑ってみせるが、それが俺を安心させるための強がりであることくらい、今の俺にはよく分かっていた。
ギルドの規則を破り、国家転覆の容疑がかけられている『迷い人』を匿っているのだ。
もしバレたら、彼女だってただじゃ済まない。
そんな彼女の深い優しさに触れるたび、俺は夜、部屋の机で『黒い手帳』を開き、フリクションペンを強く握りしめてその想いを日記に刻み込んできた。
『4月16日。この世界に来て2週間。アリアが今日も命がけで情報を届けてくれた。彼女の笑顔を見るたび、胸の奥が締め付けられるように愛おしい。記憶寿命まで、あと15日。15日後の俺へ。お前がもし、アリアという名前も、この2週間のすべての思い出も失ってしまったとしても……手帳に刻まれたこのインクの跡だけは信じろ。彼女を絶対に、一人にするな。』
だが──。
アリアが命がけで繋いでくれていたその隠密生活の糸は、17日目の朝、突如として音を立てて千切れ去ることになる。
いつものように早朝、アリアからの定時連絡を待っていた俺の元に、宿の裏口を激しく叩く音が響いた。
嫌な予感がしてドアを開けると、そこには肩を激しく上下させ、顔を真っ白にしたアリアが立っていた。
その水色のブラウスの袖には、うっすらと赤い血の跡が滲んでいる。
「カナタ……!逃げて……っ!!」
アリアは俺の胸ぐらを掴むようにして、声を震わせた。
「バレたの……っ。私がギルドの通信魔導具から情報を盗んでいたのが、上層部に気づかれちゃった……! 今、ギルドの精鋭部隊が、アリアの身柄拘束と……この宿屋の強制捜査のために、こっちに向かってる……っ!!」
「……っ、アリア、その腕の血は……!」
「私のことはいいから!早く!!」
アリアの水色の瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ちる。
自分の怪我や処罰のことなんて一ミリも気にせず、ただ俺を守れなかったことを泣いて謝るエルフの女の子。
「おい、こっちだ!この宿屋から異常な魔力反応が検出されたぞ!」
「包囲網を狭めろ!容疑者を一歩も街から出すな!」
宿の薄暗い裏口の向こう、路地裏の四方八方から、ガチャガチャと激しい金属音を立てて漆黒の鉄甲冑を着た衛兵たちが押し寄せてくる。
その数は、ざっと見ても二十人以上。
しかも、前衛の衛兵たちの後ろには、怪しく光る杖を構えた宮廷魔導師らしき連中まで控えている。
「見つけたぞ!『隠れ上級』の怪物と……ギルドの反逆者アリアだな!」
先頭に立つ筋骨隆々の隊長らしき男が、俺たちを指差して大剣を抜いた。
その姿を見た瞬間、俺の脳裏から、この2週間必死に守り続けてきた「隠密」だの「引きこもり」だのといったセリフが、一瞬で綺麗さっぱり消し飛んだ。
俺は右手の薬指にはめていた、鈍く銀色に光る『魔力遮断の指輪』を、迷わず引き抜いて床へと投げ捨てた。
「カナタ……!?指輪を外したら、ギルドのスキャンに……っ!」
「アリア、俺の背中に隠れてろ。」
──ゴォォォォォンッッッ!!!
指輪という安全弁を失った瞬間、2週間眠っていたあのオール『941』の理不尽な万能感と、肌がチクチクするほどのデタラメな気配が、爆風のように俺の全身から吹き荒れた。
視認できそうなほどの濃密な圧力が、陽炎のように立ち上っていく。
「で、でも、カナタ……!相手はギルドの精鋭部隊よ!? いくら能力値が高くても、集団相手に無茶よ……っ!」
アリアは俺の黒い上着の裾を掴み、必死に止めようとする。
その小さな手が恐怖で震えているのを感じて、俺の胸の奥の焔が、さらにゴウッと燃え上がった。
「無茶なのは、あっちの方さ。」
俺は一歩、前に踏み出した。
ただの、一歩。
だが、その瞬間に俺の『素早さ:941』が完全解放される。
ドッ、と空気が爆発するような音がして、俺の視界は一瞬でスローモーションへと切り替わった。
押し寄せる衛兵たちの動きが、まるでハエの止まりそうなほど遅く見える。
「な……消え──!?」
隊長が驚愕の声を上げようとした時には、俺はすでにその目の前に移動していた。
大剣を振り下ろす暇すら大剣を振り下ろす暇すら与えない。
俺は左手に持っていた、ホンペンが描かれたホン・キホーテのポリ袋を、ただ「邪魔だ」と横に大きく振り払った。
──バキィィィィィンッッッ!!!
空間が歪んだかと思うほどの凄まじい衝撃波が路地裏を吹き荒れる。
ただのビニール袋が、攻撃力941の補正によって、大型ダンプカーの直撃にも勝る質量兵器と化していた。
「がはっっっ!?」
隊長を含めた前衛の5人が、一瞬でまとめて真横へと吹き飛んだ。
レンガ造りの壁を何枚も突き破り、遥か彼方のゴミ溜めへと吸い込まれていく。
「ひ、ひえっ……!?なんだあの威力は……!」
「魔法じゃない!ただの……ただの袋を振っただけだぞ!?」
後ろに控えていた衛兵や魔導師たちが、一瞬で顔を土気色に変えてガタガタと震え出した。
「おい、怯むな!魔導部隊、一斉に放て!焼き尽くせぇ!」
生き残った副隊長らしき男が悲鳴のような怒号を上げる。
次の瞬間、数人の魔導師たちの杖の先から、路地裏を真っ赤に染めるほどの巨大な火球が、一斉に俺たちを目がけて放たれた。
並の冒険者なら一瞬で灰になるであろう、圧倒的な熱量の劫火。
「カナタ、危ない……っ!」
アリアが叫ぶ。
だが、俺のポケットの中にある『幸運:941』の自動防衛システムは、すでに完璧な答えを導き出していた。
俺は無意識に、ポリ袋の底に残されていた、アリアが限界突破したあの「エナジードリンクの空き缶」を掴み取ると、迫り来る火球の渦に向かって、ヤケクソで投げつけた。
その瞬間、あり得ないバグが戦場を支配した。
日本の最先端化学技術が残した、缶の内部にこびりつく微量なタウリンやカフェインの成分。
それが、指輪を外して全開になった俺のデタラメな魔力941と激しく共鳴した。
──キィィィィィン!!!
空中で、ただのアルミ缶が眩い青白い電撃を放ちながら急速に巨大化し、まるでブラックホールのように、押し寄せる巨大な火球の熱量をことごとく内部へと吸い込み始めたのだ。
「な……魔法を吸い取っているだと……!?どんな最高級の魔導具だ……!」
魔導師たちが絶望に目を血走らせる。
そして、全ての火力を吸収し、限界までパンパンに膨れ上がったエナドリの空き缶が、一瞬の静寂のあと──。
──ドガァァァァァンッッッ!!!! 街全体を揺るがすような、現代の化学爆発と異世界の魔法が融合した大爆発を引き起こした。
「うわあああああぁぁぁぁぁっっっ!?」
凄まじい爆風と青白い電撃の衝撃波が路地裏を駆け抜け、残っていたギルドの精鋭部隊は、全員がまとめて上空へと文字通り「飛んで」いった。
バチバチと火花を散らしながら、街の彼方へと星のように消えていった。
静まり返る路地裏。
残されたのは、粉々に砕け散ったレンガの破片と、呆然と立ち尽くす俺。
そして、背後で完全に思考が停止し、開いた口が塞がらないアリアの姿だけだった。
「……よし、片付いたな。」
俺はフゥと息を吐き、ポケットの中のフリクションペンをカチカチとノックしながら振り返った。
「カナタ、あなたは……本当に、何者なの……。」
アリアは驚きを通り越して引き攣った笑みを浮かべながら、へなへなとその場に座り込んでしまう。
膝を小さく震わせ、信じられないものを見るような目で、俺と、そして粉々に砕け散った路地裏のレンガを見つめていた。
「言っただろ、アリア。俺はレベル941の迷い人だ。」
俺は全開になっていた能力に少しだけブレーキをかけるイメージを頭に浮かべた。
それだけで、周囲の空気をピリピリと震わせていた濃密な圧力が、すっと静まっていくのが分かる。
俺は床にしゃがみ込み、アリアの細い肩をそっと抱き起こした。
触れた彼女の身体は、驚くほど軽くて、そして小さく小刻みに震えている。
ギルドというこの世界で最大の組織を敵に回してしまった恐怖か、あるいは、俺の引き起こしたデタラメな破壊力への恐れか。
「あ……。」
抱き起こした瞬間、アリアが小さく痛みに顔を歪ませた。
その視線の先、水色のブラウスの袖に、さっきよりも鮮やかな赤がじわりと広がっていく。
「アリア、やっぱりその腕……。」
「大丈夫、ただの擦り傷よ。ギルドの通信室から抜け出すときに、ちょっと衛兵の槍が掠っただけ。それよりカナタ、早くここを離れないと……っ!」
アリアは自分の腕の痛みを無視して、必死に俺の顔を見上げて急かしてくる。
だが、その傷口からは、まだぽたぽたと赤い雫が石畳へと落ちていた。
エルフの白い肌に、その鮮血はあまりにも痛々しい。
「……走れるか?」
「あたり前でしょ。私は現役の冒険者よ。このくらいの怪我、慣れて──。」
強がって立ち上がろうとしたアリアの身体が、一瞬、ぐらりと大きく傾いた。
緊張の糸が切れたことによる貧血か、あるいは、カナタを守り抜くためにこの2週間、彼女がどれほど精神を磨り減らしてきたか。
その疲労が、一気に押し寄せてきたようだった。
「っと……!」
倒れそうになったアリアの身体を、俺は反射的に両腕でしっかりと受け止めた。
驚くほど柔らかく、そして甘いアロマのような香りが、鼻腔を優しくくすぐる。
「あ、あの……カナタ……?」
アリアの水色の瞳が、至近距離で激しく揺れた。
白い頬が、怪我の青白さから一転して、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「悪い、ちょっと我慢してくれ。」
俺はそのまま、アリアの膝裏と背中に腕を回し、華奢な身体を軽々と横抱きに──いわゆる『お姫様だっこ』の体勢で持ち上げた。
「ひゃ、ひゃいっ!?!?な、何、何してるのよカナタァァァッ!?」
アリアの口から、聞いたこともないような裏返った悲鳴が飛び出した。
尖ったの耳まで一瞬で真っ赤になり、小さな両手で俺の胸元をポカポカと叩いて大パニックになっている。
「大人しくしてろ。アリアの足で走るより、俺が抱えて走った方が100倍早い。それに、その怪我で無理をさせるわけにいかないだろ。」
「そ、それはそうかもしれないけど……!でも、これじゃ私が、まるで、その……っ!」
言いかけて、アリアはそれ以上言葉を続けられなくなり、真っ赤な顔を俺の胸元に埋めて小さくなってしまった。
胸元に当たる彼女の吐息が、やけに熱くてドキドキと鼓動を速める。
「よし……。指輪は、一応拾っておくか。」
床に落ちていた『魔力遮断の指輪』を、足先で器用に跳ね上げてポリ袋へと滑り込ませる。
そして、まだ左手に握りしめていたホンペンのポリ袋をしっかりと持ち直した。
宿の裏口からは、さっきの爆発による白煙がまだモクモクと立ち上っている。
街のあちこちから、新たな金属音や、緊急事態を告げる鐘の音が遠くで鳴り響き始めていた。
次の追手が来るまで、もう時間はほとんどない。
「アリア、舌噛まないように気をつけてな。」
「え?ちょっと、カナタ、まさか──。」
アリアが顔を上げた瞬間、俺は地面を強く蹴り抜いた。
──ドォォォンッッッ!!!
石畳が俺の足の形に陥没し、凄まじい風圧と共に、俺たちの身体は弾丸のような速度で路地裏を駆け抜けた。
周囲のレンガの壁が、残像となって後ろへとビュンビュン流れていく。
腕の中のアリアは、「ひゃぅっ!?」と短い悲鳴を上げたあと、速度の恐怖からか、俺の黒い上着の首元を必死に両手でギュッと掴んで離さなくなった。
目指すは、旧区画のジークさんの古道具屋。
ギルドの目が届かない、あの唯一の安全地帯だ。
大通りの検問を避けるように、俺は頭の中の『素早さ:941』の感覚をフルに回転させ、最短の裏ルートを脳内で弾き出す。
曲がり角に差し掛かるたび、慣性を無視したデタラメなステップで鋭角に曲がり、追手の衛兵たちの配置をことごとく裏かいていく。
わずか数分。
普通なら大人の足で30分はかかる距離を、俺たちは一瞬で駆け抜け、旧区画のあの見慣れた古い石段の前へと滑り込んだ。
周囲に人影がないことを確認し、速度を急減速させる。
ピタリと足を止めたのは、煤けたランタンが揺れる、ジークさんの古道具屋の門前だった。
「ハァ、ハァ……。つ、着いた……。」
俺の胸元で、アリアが恐る恐る目を開けた。
「……本当に、一瞬だったわね……カナタのその足、本当に竜車より早いわよ……。」
アリアはまだ顔を赤くしたまま、呆れたように、だけどどこか誇らしげにくすりと笑った。
俺はアリアをそっと地面に降ろそうとしたが、アリアはまだ名残惜しそうに俺の上着を掴んでいた。
視線が重なると、彼女はハッとして、大慌てで手を離して地面に足を着く。
「あ、ありがとう、カナタ……。助かったわ。」
「いや、お互い様だろ。さあ、中に入ろう。」
俺が古道具屋の木製の扉を、あのアリアに教わった独特のリズムでトントン、と叩こうとした、その時──。
カチャリ、と内側から鍵が外れ、扉が勢いよく開いた。
「おいおい、大通りがとんでもない騒ぎになってると思ったら……やっぱりお前さんたちの仕業だったか!」
中から顔を出したジークさんが、白い髭を揺らしながら、驚きと焦りの入り混じった表情で俺たちを店の中へと引っ張り込んだ。
「ジークさん、急に押し掛けてすまない。アリアが、ギルドに……!」
「いいから、話は後だ!早く奥へ入りなさい。ばあさん、『不滅草の湿布』と『聖水蜜』の準備だ!」
ジークさんの大声に応じるように、奥の台所からマルタさんが慌てた様子で、緑色の薬液が詰まったガラス瓶や、不思議な光を放つ薬草の束を抱えて走ってきた。
薄暗い古道具屋の奥、あの頑丈な木製の丸テーブルの椅子にアリアを座らせる。
俺は筋肉を暴発させないよう、そっと、本当にそっとアリアの隣の椅子を引いて腰掛けた。
「アリアちゃん、見せておくれ。……おやおや、まぁ、こんなに綺麗な肌に……。痛々しいねぇ……。」
マルタさんが心配そうに眉を下げ、アリアの水色のブラウスの袖を丁寧に捲り上げていく。
露出した白い二の腕には、ギルドの衛兵が放った槍の刃先が掠めたのだろう、一直線に鋭い斬り傷が走り、そこからまだじんわりと血が滲み出ていた。
「うぅ……っ。」
魔物の毒や化膿を防ぐ『聖水蜜』が染みた布で傷口を拭われた瞬間、アリアが痛みに耐えるように美しい眉を顰め、俺の黒い上着の袖をきゅっと掴んだ。
その細い指先が、痛みのせいか、それとも恐怖の余韻のせいか、小さく震えている。
「マルタさん、俺に代わってくれ。アリアを傷つけたのは、俺のせいで……。」
「馬鹿言うんじゃないよ、カナタ。あんたがこの子を抱えてここまで一瞬で連れてきてくれたんだろう?ジークから聞いたよ。大通りでギルドの精鋭が吹き飛んだってね。あんたが守ってくれなきゃ、この子は今頃地下の牢屋さ。ほら、男の子ならシャキッとして、この子の手を握って励ましてあげなさい。」
マルタさんに背中をパシッと叩かれ、俺は戸惑いながらも、アリアの傷口から目を逸らさずにその小さな手を両手で包み込んだ。
エルフのひんやりとした柔らかな手のひらが、俺の体温に触れて、じわりと熱を帯びていく。
「カナタ……。」
アリアがハーブの湯気の向こうのような、潤んだ水色の瞳で俺を見つめる。
耳の先までほんのりと桜色に染めながらも、彼女はもう、掴んだ俺の手を離しようとはしなかった。
「……痛むか?」
「ううん、カナタがこうして、手を握ってくれているから……全然、痛くないわ。」
アリアは照れくさそうにくすりと微笑むと、今度は俺の手をギュッと強く握り返してきた。
マルタさんの手際よい手付きによって、アリアの腕に傷を癒やす魔力を帯びた『不滅草の湿布』がしなやかに巻き付けられていく。
張り詰めていた部屋の空気が、少しずつオイルの匂いと古い紙の香りに溶けて、穏やかなものへと戻っていった。
だが、その安息を破るように、店の入り口側の窓から外を覗いていたジークさんが、重々しい足取りで戻ってきた。
「……2人とも、手当てが終わったところを冷や水を浴びせるようで悪いが、事態は想像以上に深刻だぞ。」
ジークさんの白い髭が、緊張でピクリと震えていた。
「ギルドの通信魔導具をハッキングして精鋭部隊を全滅させた怪物の噂は、すでに上層部のトップ──ギルド長官の耳に届いている。
街の四方の門は完全に封鎖され、これから旧区画を含む『全戸の強制家宅捜索』が始まるそうだ。あと1時間もすれば、この店にも衛兵が踏み込んでくるだろう。」
「そんな……!ジークさんのところにまで!?」
アリアがガタッと椅子を鳴らして立ち上がろうとする。
ギルドの本気。
それは、この街に暮らす住人すべてのプライベートを紙切れのように 踏み躙ってでも、目的の獲物を炙り出すという残酷な意思表明だった。
「どうする、カナタ。ここからさらに逃げるか?それとも……。」
アリアの不安げな視線が、俺へと注がれる。
俺はポケットの中の『フリクションペン』のクリップを親指で弄りながら、静かに、だけど獰猛に唇を吊り上げた。
「……いや、アリア。もう隠れんぼの時間はおしまいだ。」
胸の奥で、オール『941』の理不尽な全能感が静かに、だけど熱く脈打ち始める。
「旧区画にまで迷惑はかけられない。こっちからギルドの本部へ乗り込んで、その偉そうな長官って奴に、お会計を請求しに行ってやるよ。」
「ギルドの本部へ乗り込む……!?カナタ、正気なの!?」
アリアが掴んでいた俺の手をさらにギュッと握りしめ、水色の瞳を驚愕に揺らした。
「あそこは街の中心にある最大の砦よ!?衛兵の数は何百人もいるし、結界魔導具だって何重にも張り巡らされてる。いくらカナタの能力値が規格外でも、正面からまともに戦ったら……!」
「大丈夫さ、アリア。」
俺は握られた彼女の手を優しく包み込み、安心させるように笑ってみせた。
「今の俺には、2週間前の俺が手帳に残した『覚悟』がある。それに──。」
俺は机の上に置いていた、ホンペンが描かれたホン・キホーテのポリ袋を手に取った。
中には、アリアの魔力を暴発させたエナドリの空き缶に続き、まだいくつかの『日用品』が残されている。
「この袋の中身が、異世界じゃとんでもない『神の遺物』になるのは、ルネさんの店やさっきの路地裏で証明済みだろ?」
「それは、そうだけど……。」
アリアはまだ不安そうに眉を下げていたが、俺の真っ直ぐな視線を受け止めると、やがて諦めたように小さく溜息をついた。
そして、その水色の瞳に、冒険者としての強い光が戻る。
「……分かったわ。カナタがそこまで言うなら、私もトコトン付き合うわ。元はといえば、私が情報を盗み損ねたのが原因だしね。」
「アリアちゃん、無茶はいけないよ!」
マルタさんが止めようとしたが、隣にいたジークさんがそれを手で制した。
「いや、ばあさん。この若者の言う通りかもしれん。ギルドの全戸捜索が始まれば、遅かれ早かれこの店も見つかる。それなら、奴らの意識がすべて本部に向いている隙に、一撃で大元の頭首を叩くほうが、まだ生き残る確率が上がる。」
ジークさんはそう言うと、店の奥の棚から、埃を被った一本の古びた『鍵』を取り出してきた。
「これは、私が現役の冒険者だった頃、旧区画の地下水道からギルド本部の地下倉庫へと繋がる隠し通路を見つけたときのものだ。表の中央大通りは衛兵で埋め尽くされている。これを使って、地下から本部の喉元へ飛び込みなさい。」
「ジークさん……ありがたい!」
俺はその鈍く光る鉄の鍵を受け取り、しっかりと黒い上着のポケットへと仕舞い込んだ。
「よし、アリア。準備はいいか?」
「ええ。傷の痛みも『聖水蜜』のおかげで、もうほとんど引いたわ。ギルドの規則なんて、本当にどうでもよくなっちゃった。行きましょ、カナタ。その規格外な力、特等席で見せてもらうんだから。」
アリアは不敵にくすりと微笑み、空色の髪に挿した青い鉱石の髪飾りを愛おしそうに一度だけ指先で触れた。
俺たちはジークさんとマルタさんに深く一礼して、店の奥にある隠し扉を押し開き、薄暗い地下水道の闇へと足を踏み入れた。
ひんやりとした湿った空気が肌を刺す。
だが、俺の胸の奥にある炎は、これまでになく激しく燃え上がっていた。
ポケットの中のフリクションペンを上着の上から軽く叩く。
2週間前に手帳に書いた日記の言葉が、脳裏に鮮明に蘇る。
『お前がもし、すべての思い出を失ってしまったとしても……彼女を絶対に、一人にするな。』
「待ってろよ、ギルド長官。アリアを泣かせた代償、ホン・キホーテの会計より高くつくからな。」
闇の向こう、ギルド本部へと続く地下道を、俺とアリアは並んで力強く走り出した。
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