第一章5 規則なんてどうでもいい
翌朝──。アリアと正門前で待ち合わせの約束をした朝。
俺は奇跡的に、早朝7時にパチッと目が覚めた。
「……よしッ! セーフ!」
枕元に置いたスマホの画面を確認する。
4月3日、午前07時03分。
昨日、別れ際にアリアが少しいたずらっぽく笑いながら「……今度は、絶対に寝坊しちゃダメだからね?」と言っていた、あの優しい約束。
それを絶対に破りたくないという俺の強い心が、最強ステータスの一部である脳に奇跡を起こしたらしい。
ベッドから跳ね起き、さっそく準備に取りかかる。
まずは昨日、ルネさんの店で手に入れた鈍く銀色に光る細身の指輪を、右手の薬指へと滑り込ませた。
その瞬間、全身を包んでいたあの「何でもできる気がする」というデタラメな万能感が、すっと綺麗なフィルターを通るように丸くなっていく。
「うん、やっぱりこの指輪すごいな……。」
昨日まで肌がチクチクするほど周囲に放たれていたバグだらけの気配が、今では完全に気配の薄い「ただの一般人」のそれになっていた。
さらに、アリアが一生懸命選んでくれた仕立てのいい黒い上着に腕を通す。
元の世界で着ていた量販店のTシャツとは違い、驚くほど体に馴染んで、鏡に映る姿は少しだけこの世界の住人っぽく見えた。
「よし、これで筋肉もお会計も暴発させずに済むはずだ。」
昨日、指先でテーブルを破壊したというやらかしを思い出し、苦笑いしながら宿の部屋を出る。
異世界3日目。アリアが街を案内してくれるという、事実上の初デートがここから始まる。
部屋を出た俺は、宿の1階へと階段を降りていった。
「おや、兄ちゃん、今日はえらい早いじゃないか。朝飯は食っていくかい?」
初日、白金貨を快く崩してくれた宿の親父さんが、厨房から顔を覗かせて声をかけてくる。
「いや、今日は待ち合わせがあるから大丈夫!行ってきます!」
「おう、気をつけてな。」
親父さんの威勢のいい声を背中で受けながら、俺は宿の重厚な木製の扉を押し開けた。
一歩外へ出ると、早朝のひんやりとした澄んだ空気が肌をなでる。
大通りの商店街はまだ半分以上が閉まっていて、小鳥のさえずりと、開店準備を始めるパン屋の香ばしい匂いだけが静かな通りに漂っていた。
正門へと向かって、俺はゆっくりと歩みを進める。
指輪の魔力遮断効果を確かめるように、わざと地面を少し強めに踏み締めてみたが、昨日路地裏を弾丸のように激走したときのような異常な加速は起きない。
「よし、本当に普通の体感覚に戻ってるな……。」
自分の体にしっかりとブレーキがかかっている安心感に、思わずホッと息を吐く。
これならアリアを怖がらせることも、街の施設を物理的に破壊することもないはずだ。
異世界の街並みをのんびりと見上げながら歩くこと十数分。
朝日に照らされた巨大な石造りの正門が、前方にどっしりとその姿を現した。
「……えっ!? カナタ!?」
約束の30分前、街の大きな石造りの正門前に到着すると、すでにそこに立っていたアリアが、水色の瞳を限界まで丸くして驚きの声を上げた。
「よっ、おはようアリア。待たせちゃったか?」
「お、おはよう……じゃなくて!カナタが遅刻どころか、私より先に来てるなんて天変地異でも起きるんじゃないの!?」
アリアは「どうせまた寝坊して走ってくるに決まってる」とでも思っていたのか、ぷくーっと両頬を膨らませていたが、すぐに嬉しそうにくすりと微笑んだ。
その瞬間、俺の心臓がドクンと跳ねた。
今日の彼女は、いつものキリッとしたギルドの装備姿ではなかった。
淡い水色のブラウスに、動きやすそうな白いキュロットスカート。
空色の髪は少し高めの位置でまとめられていて、普段の「かっこいい冒険者」ではなく、完全に「年相応の可愛い女の子」の私服姿だった。
「な、何をじっと見て……。変、かな……?」
「いや!全然!めちゃくちゃ似合ってる。可愛すぎてびっくりしただけだ」
「っ〜〜!もう……!からかわないで……!」
お世辞抜きで本音をぶつけると、アリアは尖ったエルフの耳まで一瞬で真っ赤にして、照れ隠しに俺の背中をポンポコと叩いてそっぽを向いてしまった。
その健気な仕草がたまらなく愛おしい。
「ほら、行くよ!今日は私がこの街の特等席を全部案内してあげるんだから!」
アリアは照れを隠すように俺の手を引いて、活気あふれる中央大通りへと歩き出した。
中央大通りに足を踏み入れると、そこは昨日とは比べものにならないほどの活気で満ち溢れていた。
ずらりと並ぶ異世界の露店からは、香ばしい焼き肉の匂いや、見たこともない色鮮やかな果実の甘い香りが漂ってくる。
「ほら、カナタ!あそこに見えるのがこの街で一番大きな中央広場よ。あそこの噴水の周りには美味しいお店がたくさん集まってるの!」
アリアは俺の手を引いたまま、楽しそうにパタパタと足を動かして次から次へとお店を紹介してくれる。
指輪の効果は本当に絶大で、昨日みたいに一歩進むだけで周囲に怯えられるようなことは一切ない。
俺はアリアの後ろ姿を追いかけながら、純粋に異世界の景色を楽しんでいた。
しかし、魔力や筋力は指輪で完全に隠蔽できているものの、俺のもう一つのバグステータス「幸運941」だけは、どうやら指輪でも隠しきれていなかったらしい。
「お兄さん、はいこれオマケ!今日ちょうど一万回目のお客さんだから、この『極上魔獣肉の串焼き』タダでいいよ!」
「え?あ、ありがとうございます……。」
小腹が空いたからと露店で買い食いをするたびに、なぜか「記念のタダ」になったり、アリアが可愛いなと足を止めて眺めていた、綺麗な青い鉱石があしらわれた髪飾りの店の前では──。
「お兄さん男前だからさ、隣の可愛いお嬢さんにプレゼントしなよ!運気が上がる売れ残りだからタダでやる!」
と、店主から勢いで髪飾りを貰ってしまった。
「……カナタの力って、本当に不思議ね。神様の祝福って、こういうところにも現れるのね。」
「あはは……まあ、貰えるものは貰おう。ほら、アリア。」
俺は手に入れた髪飾りを、アリアの綺麗な空色の髪の結び目にそっと差し込んであげた。
「え……っ。」
「うん、やっぱりアリアの水色の瞳にすごく似合ってる。」
「なっ……。あ、あの、その……。」
アリアは驚いたように水色の瞳を優しく揺らすと、そのままみるみるうちに顔を真っ赤にして俯いてしまった。
尖った耳まで綺麗に桜色に染まっている。
戸惑いながらも、髪飾りをつけてもらったことが嬉しくてたまらないといったように、照れくさそうに何度も愛おしそうに髪飾りに触れている。
そのどこまでも純粋で心優しい仕草が、本当に健気で愛おしい。
「……う、嬉しくて、ちょっとびっくりしちゃっただけなんだからね。」
アリアは顔を真っ赤にしたまま、蚊の鳴くような小さな声でそう呟くと、恥ずかしさを誤魔化すように俺の黒い上着の袖をきゅっと掴んだ。
周囲には甘いアロマのような空気が漂い、俺たちの街案内は完璧なデートそのものだった。
でも、そんな幸せな時間は、突如として切り裂かれてしまった。
大通りの向こうから、複数の足音が重々しく響き渡った。
それは軽快な買い物客の足音とは明らかに違う、規則正しく、鉄靴が石畳を容赦なく叩く音だ。
大通りを行き交っていた一般の歩行者たちが、怯えたように一斉に左右へ避けていく。
その中央を、全身を漆黒の鉄甲冑で固めた『ギルド』の衛兵たちが、鋭い目付きでこちらへと歩いてくるのが見えた。
その数、十数人。
彼らはすれ違う住人の顔を一人一人値踏みするように睨みつけ、厳戒態勢のオーラを隠そうともしていない。
「おい、聞いたか?昨日、裏路地でチンピラのボスを鉄の胸当てごと一撃で粉砕したふざけた格好の怪物を探してるらしいぞ。」
「ああ、ただの喧嘩じゃなくて、国家転覆を狙う危険思想の『隠れ上級』の仕業だって噂だ。ギルド上層部が総出で街の魔力スキャンを開始するらしい……。」
近くの野次馬たちのひそひそ話が、俺の耳へと滑り込んできた。
──それ、完全に俺のことじゃねえか……!
隣を見ると、アリアの顔から血の気が一瞬で引いていた。
その美しい水色の瞳には、さっきまでの楽しそうな余韻など一ミリも残っておらず、本物の恐怖の色が混じっている。
「……嘘。動きが早すぎるわ……。」
アリアが小刻みに震える声で呟いた。
「昨日の今日で、もう本格的な捜索が始まるなんて……。」
アリアは驚いた様子でそう言うと、さらに言葉を続けた。
「ギルドの上層部はね、街のシステムを揺るがすような尋常じゃない力を持った人が潜んでるって、すごく警戒し始めてるの。もしカナタが見つかったら、危険な存在だと思われて、お日様の当たらない地下の施設にずっと閉じ込められちゃうかもしれない……!」
アリアはギルドの所属冒険者だからこそ、彼らの本気度と、一度狙った獲物を絶対に逃さない残酷さを誰よりも知っているのだ。
「カナタ、こっちよ……!」
アリアはギルドの衛兵たちの視線がこちらを向く直前、俺の手を強く引き、大通りの喧騒から逃れるように薄暗い裏路地の影へと滑り込んだ。
アリアの細い指先から、尋常ではないほどの焦りと強烈な強さが伝わってくる。
迷路のように複雑に入り組んだ路地裏を、アリアは俺を先導するように迷いのない足取りで駆けていく。
背後からは、依然としてレンガの壁に反響する鉄靴の重々しい音が聞こえていた。
「ハァ、ハァ……っ。カナタ、大丈夫……?急に引っ張ったりして、ごめんなさい……っ。」
走りながらも、アリアは何度も振り返って俺の様子を気遣ってくれる。
自分だって息を切らしているのに、真っ先に俺が指輪のせいで体調を崩していないか、あるいは足元をすくわれて転んでいないかを本気で心配しているのだ。
「いや、俺は全然平気だ。アリアこそ、足元、気をつけてな。」
「私は、冒険者だもの……っ。これくらい、なんてことないわ。」
アリアは健気にそう言って小さく微笑んだが、その水色の瞳は、いつギルドの捜索隊と鉢合わせるかわからない緊張感で鋭く尖っていた。
曲がり角の手前で、アリアがピタリと足を止める。
壁の影からそっと大通り側の様子を窺う彼女の背中を、俺は息を潜めて見守った。
カチャリ、と金属が擦れ合う冷たい音が路地の入り口付近から聞こえる。
「……チッ、ここにはいないか。おい、次の一画へ向かうぞ!魔力隠蔽の巻物を使っている可能性もある、少しの魔力反応も見逃すな!」
荒々しい男の声と共に、鉄靴の音がゆっくりと遠ざかっていく。
アリアは胸に手を当てて、限界まで張り詰めていた息を深く吐き出した。
その拍子に、ブラウスの胸元でさっき俺がプレゼントした青い髪飾りが、朝日に反射してきらりと微かに揺れる。
「……危なかったわ。ギルドはもう、街の四方の門を完全に封鎖する構えを見せてる。カナタのその指輪の効果が本物で、本当に良かった……。」
アリアはへなへなとその場に崩れ落ちそうになりながらも、安心したように水色の瞳を優しく細めた。
だが、彼女はすぐにハッとしたように表情を引き締める。
「ねえ、カナタ。このまま宿に戻るのは逆に危ないかもしれないわ。大通りに近い宿は、真っ先にギルドの個別訪問調査が入る可能性があるの……。」
「そうなのか……。じゃあ、どこに行けば……。」
「……私の、知っている安全な場所にいきましょう。ギルドの目が絶対に届かない、とっておきの場所が街の旧区画にあるの。」
アリアは小刻みに上がる息を必死に抑えながら、強い決意の宿った水色の瞳で、しっかりと俺の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「わかった……。案内を頼むぞ……アリア。」
「もちろん。私に任せて!しっかりついてきてね。」
アリアは力強く頷くと、今度は俺の黒い上着の袖ではなく、その細い手で俺の手首をダイレクトに掴んだ。
ぎゅっと握られた彼女の手のひらは、焦りと走ったことによる熱でじんわりと熱い。
俺たちは極力物音を立てないよう注意しながら、建物の陰から陰へと隠れるようにして、薄暗い路地裏をさらに奥へと急いで進んでいった。
大通りの喧騒が徐々に遠ざかり、代わりに周囲の景色が少しずつ変化していく。
整備された石畳だった床は、ところどころがひび割れた粗悪な古い石段へと変わり、立ち並ぶ家々も、漆喰が剥がれ落ちた年季の入った木造建築ばかりになっていく。
ここがアリアの言っていた「旧区画」なのだろう。
人通りはほとんどなく、たまに見かける住人も、怪しい格好の俺たちには興味なさそうに通り過ぎていく。
「……ここまで来れば、ひとまずは安心よ。」
アリアが少しだけ肩の力を抜き、掴んでいた俺の手首をパッと離した。
離された瞬間、なぜか少しだけ名残惜しいような変な感覚が胸をよぎる。
「アリア、さっきの男たちが言っていた『魔力隠蔽のスクロール』って何なんだ?巻物か何かなのか?」
俺は移動中からずっと気になっていた疑問を、アリアの背中に投げかけた。
「ええ、その通りよ。」
アリアは歩く速度を少し緩め、周囲を警戒しながら心優しく説明してくれる。
「スクロールっていうのはね、あらかじめ魔法が込められた使い捨ての巻物のこと。魔力がない人や、その魔法を使えない人でも、巻物を広げて発動させるだけで誰でも簡単に魔法の効果が得られる便利なアイテムなの。さっきの衛兵たちは、カナタがその巻物を使って魔力を完全に消して潜伏してるんじゃないかって、そう疑ってたのね。」
なるほど、この世界にはそんな便利な魔法の巻物があるのか。
ギルド側は俺がそんな高級品を使って隠れていると勘違いしているようだが、実際にはルネさんの店で買ったあの指輪一つでスキャンの目を完全に欺いている。
「アリアの機転とあの指輪のおかげで、本当に助かったよ。」
「ううん、私は当然のことをしただけだもの。それより、着いたわ。ここが私の言っていた場所よ。」
アリアが足を止めたのは、旧区画の入り口から少し入ったところにある、ひっそりと佇む古い木造の建物の前だった。
その建物は、周囲の古びた民家と比べても一際年季が入っており、軒先には煤けたランタンが寂しげに揺れていた。
窓ガラスの奥には古びた歯車や、役目を終えた魔導具のようなものが雑多に並んでいるのが見える。
「アリア、ここは……?」
「私のね、お世話になってる人たちのお家。昔、大怪我をした私を助けてくれた、元ベテラン冒険者のご夫婦がやってる古道具屋さんなの。ギルドの現役から退いて随分経つし、上層部の面倒な命令もここなら絶対に届かないわ。」
アリアは周囲をもう一度だけ鋭い目付きで見回すと、古びた木製の扉を、独特のリズムでトントン、と叩いた。合図のようだ。
カチャリ、と鍵が外れる静かな音が響き、扉がゆっくりと隙間を開ける。
中から顔を覗かせたのは、白い髭を綺麗に蓄えた、背の低い穏やかな目をした人間の老人だった。
「おやおや、アリアの嬢ちゃんじゃないか。それに……そちらの若者は?」
「ジークさん、急に押し掛けてごめんなさい。……ギルドには秘密の、ちょっと訳ありの友人なの。少しだけ、ここで匿わせてもらえないかしら?」
アリアは老人の目を真っ直ぐに見つめ、懇願するように両手を小さく合わせた。
ジークと呼ばれた老人は、俺の黒い上着や薬指の指輪をじっと観察するように見つめていたが、やがて優しく目元を緩めて扉を大きく開け放った。
「嬢ちゃんがそこまで必死な顔をして連れてきた男だ、悪い奴じゃあないんだろう。ババ様も奥で温かいハーブ茶を淹れているところだ、さあ、早く入りなさい。」
「ありがとう、ジークさん!」
アリアはホッとしたように胸を撫で下ろすと、俺の背中を優しく押して、薄暗い建物の中へと案内してくれた。
一歩足を踏み入ると、室内はオイルの匂いと古い紙の香りが入り混じった、どこか落ち着く匂いに満ちていた。
ジークさんに促されるまま、俺たちは部屋の奥にある頑丈な木製の丸テーブルの椅子へと腰掛けた。
昨日、食堂のテーブルを指先だけで粉砕してしまった悪夢が頭をよぎり、俺は両手を膝の上に行行儀よく揃えて、絶対に木肌に触れないよう細心の注意を払う。
「ふぅ……。ひとまずは、これで本当に安心ね、カナタ。」
アリアは隣の席に座ると、今度こそ完全に全身の力を抜いて、椅子の背もたれに体を預けた。
少しお洒落をしてくれた水色のブラウスが、窓から差し込む柔らかな光に照らされて優しく染まっている。
その結び目には、さっき俺が差し込んだ青い髪飾りが、今も大切そうにきらりと輝いていた。
ジークさんの奥さんが淹れてくれた温かいハーブ茶を飲みながら、俺たちはしばらくの間、息を潜めて時間を潰した。
アリアはギルドの捜索隊の動きについて、時折ジークさんと真剣な表情で言葉を交わしている。
自分の立場を危うくしてまで、出会ったばかりの俺を必死に守ろうとしてくれる彼女のどこまでも純粋で深い優しさに、胸の奥が痛いくらいに熱くなるのを感じていた。
「はい、お嬢ちゃんもそっちの若者も、特製の『ポム・ベイク』でもお食べ。走ってきてお腹が空いたろう?」
奥の台所から、ジークさんの奥さんである腰の曲がった朗らかなおばあさんが、焼き立ての『ポム・ベイク』が載ったお皿をテーブルに置いてくれた。
この世界特有の、ほんのり酸味のある果実の蜜を練り込んだという素朴な焼き菓子からは、温かい果蜜の甘い香りが漂い、張り詰めていた部屋の空気を優しく解きほぐしていく。
「ありがとうございます、マルタさん。……ごめんなさい、こんな大変なときに巻き込むような真似をしちゃって。」
アリアは申し訳なさそうに眉を下げ、マルタさんの手をそっと両手で包み込んだ。
「何を言っているんだい。あんたが昔、私らのために命懸けで薬草を採ってきてくれた恩を忘れるもんかね。この古い工房はね、そういう心優しい人たちの味方さ。」
マルタさんは皺の刻まれた手でアリアの頭を優しく撫でると、俺の方を見てニッコリと微笑んだ。
アリアが昔、この老夫婦を助けていたからこそ、今こうして俺たちが匿ってもらえているのだ。
アリアの持つ優しさが、回り回って俺を救ってくれている。
「ほら、アリア。お茶ばかり飲んでないで、『ポム・ベイク』も食べなよ。カナタも、緊張しなくて大丈夫だからね。」
「あ、はい……いただきます。」
俺は筋肉を暴発させないよう、細心の注意を払って指先で『ポム・ベイク』を一つ摘み、口に運んだ。
サクッとした食感と果蜜の優しい甘さが、冷え切っていた胃の腑にじんわりと染み渡る。
「……美味しい。カナタ、これ、マルタさんの特製なのよ。」
アリアはハーブ茶の湯気の向こうで、本当に嬉しそうに目を細めて『ポム・ベイク』を小さな口で齧った。
その穏やかな表情を見ていると、さっき大通りでギルドの衛兵に囲まれそうになった恐怖が、まるで嘘だったかのように遠のいていく。
それから俺たちは、ジークさんが大通り側の様子を時折見に行ってくれるのを待ちながら、静かに語り合った。
アリアはこの街の歴史や、旧区画の古い成り立ちについて、俺が退屈しないようにと心優しく色々な話を聞かせてくれた。
アリアの話を聞きながら、窓の外の空の色が、鮮やかなオレンジ色から、次第に深い群青色へと移り変わっていくのを、二人で並んでじっと見つめていた。
夕闇が街を包み込み、ギルドの喧騒が落ち着きを見せ始めた頃、俺たちはジークさんの家を後にして、なんとか宿屋の裏口へと戻ってきた。
周囲に人影がないことを確認し、アリアは俺の正面に立つと、俺の両手を、壊れ物を扱うようにギュッと優しく握りしめた。
エルフのひんやりとした柔らかい手のひらが、今は少しだけ名残惜しそうに熱を持っているのがわかる。
「カナタ、これからは絶対に一人で不用意に外に出ちゃダメよ。私、ギルドの内部から、捜索部隊の動きや魔法スキャンの予定を全部調べてカナタに教えるから。規則なんてどうでもいい。私が、絶対にカナタを守るから……。だから、お願い。私のそばから、勝手にいなくなったりしないでね?」
「ああ、約束するよ、アリア。俺はどこにも行かないし、ギルドになんか絶対に捕まらない。だから心配しないで。」
「……うん。約束よ。」
アリアは小さく微笑むと、名残惜しそうに手を離し、夕闇が迫る路地へと戻っていった。
宿の部屋に戻り、静まり返ったベッドに腰を下ろす。
俺はポリ袋から、あの『黒い手帳』と『フリクションペン』を取り出した。
この世界の迷い人が背負う、30日ごとに全ての記憶が消えるという無慈悲な代償。
今日のアリアとの甘い時間も、彼女が泣きそうな顔で俺を守ると誓ってくれた痛烈な思い出も、あと28日もすれば俺の頭からは綺麗さっぱり消えてしまう。
「……ふざけるなよ、神様。」
俺はフリクションペンをカチリとノックし、昨日の日記のすぐ下の行へ、怒りと決意を込めてインクを走らせた。
『4月3日。アリアに街を案内してもらった。私服の彼女は驚くほど綺麗で、一緒に食べた露店の料理も最高だった。だけど、昨日俺が暴発させた力のせいで、ギルドの捜索がもう始まっている。アリアは自分の立場を危険に晒してまで、俺を絶対に守ると言ってくれた。28日後の俺へ。絶対にギルドに捕まるな。そして、自分の全てを懸けて味方でいてくれるこの最高の女の子を、どんなことがあっても絶対に裏切るな。』
インクを滑らせるたび、胸の奥の決意が静かに熱を帯びていく。
すべてが消え去るその日に向けて、俺は明日を生き抜くための最初のバトンを、手帳の中にしっかりと遺した。
気に入っていただけたら、ブックマークや評価で応援してもらえると励みになります!




