56.パパを呼びに行く
あれから、少しの時間が流れた。
ボクは妹のいないことと、人と一緒に暮らすことに慣れてきていた。
それでも、思い出す。
妹の血だらけの顔や変な方に曲がった足や半開きの目を。
ごめん。ボクが強くなかったから。
ごめん。痛い思いさせて。
思い出すと、つらかった。悲しかった。
ボクの目の上の瑕は、痕が残ったけど、完治していた。
幸い目は無事だったらしい。
両眼ともちゃんと見える。
「どした?」
妹の事を思い出すと、ボクは必ず大きなガラス窓のそばに行く。
そこからは、白い柵に囲まれた小さな庭があった。
ボクやまだママのお腹にいる妹が、ここで遊べるようにと、
芝を植えたと、パパが言っていた。
あの絨毯みたいなのが、それなんだろう。
足を乗せたら、ふわふわした感触があった。
庭の隅には、ママがお世話をしている花が、いつも綺麗に咲いていた。
赤い花、青い花、黄色の花、青い花・・
ママが
「赤い花、咲いたねぇ。」
と言うとき、ボクにはどんな色が「赤」なのかわからない。
わからないけど、ママが嬉しそうなので、ボクも嬉しくなる。
今は、白い花が咲いている。
それと、あれが、『赤い』花なんだろうか?も、咲いていた。
「どした?庭に出たい?」
ボクの横に屈みながら、ママが訊く。
「にゃあ。」
ボクが応えると、ママはちょっと困った顔をして、
「今日は部屋の中にいよう。」
と言った。
ママ、わかってるよ。
また烏が襲ってくるから、でしょう?
ボクは、まだ小さいし、強くもない。
「にゃあ。」
ママを見ながら鳴くと、
「うんうん、いい子ね。」
と、笑顔のママが、ボクの頭を撫でた。
「おやつ、食べようか。」
ママはそう言って、立ち上がった。
いや、正確には立ち上がろうとした。
その瞬間、マタニティーのスカートの裾を踏んで、思いっきりお腹を下にして転んだ。
どん!
と、すごい音がした。
ボクが振り返ると、ママがお腹を抱えて丸くなっていた。
ママっ!
「お腹、お腹が・・痛い・・」
ママの額から脂汗が滲んでくる。
パパっ!ママが!
思い切り叫んだ。だけど、応えるパパの声は聞こえなかった。
更に大きな声で鳴いた。
でも、パパは応えてくれなかった。
どうしよう。ママが死んじゃう。
そんなの嫌だ。
妹みたいに死んじゃう。
お腹の妹も死んじゃう!
嫌だ!嫌だ!
パパ!パパ!どうして応えてくれないの。
何処にいるの。
色々な所を見て回った。
パパの部屋、寝室、トイレ、お風呂、キッチン、それから・・
パパはどこにもいなかった。
リビングに戻ってくると、ママは同じポーズで丸まって、
顔色も白くなっていた。
足の方を見ると、ママのスカートは真っ赤に塗れていた。
ママが、お腹の妹が死ぬ!
見回すと、大きな庭に面した窓が、細く開いているのに気が付いた。
あそこから出て、パパを迎えに行く!
ボクはするりと窓の隙間を抜けた。
「ちびちゃん・・いっちゃだめ・・」
ママの脂汗に濡れた苦しそうな顔が言った。
ママ、待ってて。
パパを連れてくるから!
ボクは、庭の垣根をすり抜けて、玄関の前を駆け抜け、
大通りへと走った。
パパはきっと仕事に行ったんだ。
ボクは眠っていて気が付かなかったんだ。
この大通りから2回曲がると、パパのいる所に着くはず。
何回か行ったことがあるから、きっと行ける。
しかし、車や人を避けたりして気を取られたのか、
曲がるところを間違えてしまったらしい。
道に迷ってしまった。
どうしようどうしよう
早くパパの所に行かなくちゃ。
ママが、お腹の妹が死んじゃう!
そんなの嫌だ!嫌だ!
そのとき、がむしゃらに走り続けるボクの耳に、
そっちじゃないよ。
と、聞こえた。
え、何?誰?
立ち止まるボクの前に、小さな茶色のうさぎが現れた。
そっちじゃないよ、こっちこっち。
うさぎは、ボクのすぐ横を走り抜けて、今来た道を戻り始めた。
早く!ついてきて!
ボクは迷っている暇なく、うさぎの後を追い掛けた。
風のようにうさぎは走って、やがて見慣れた道に飛び込んだ。
ついて行くのがやっとだった。
だけど、変だった。
ボクの目にあの茶色のうさぎははっきり見えるのに、
歩いている人には見えないようだった。
うさぎが走っていっても、誰も避けなかった。
「おっと。」
と、避けられるのは、ボクばかりだった。
そのせいか、うさぎに追いつけない。
うさぎは、時々速度を緩めて、こっちを振り返る。
ボクが追いつくと、速度をあげる。
やっと追いついたと思ったら、うさぎはぴたっと止まった。
そこは、ボク達が一番最初に連れて来られた動物病院だった。
パパの友達の。
あの後、何度も連れて来られた。
目の上のキズの治りが良くなかったのと、痛い注射のときとか。
「おお!よく我慢したな!」
と、パパはぐりぐりといつもの調子で、ボクの頭を撫でたっけ。
うさぎはボクを見た。
そのとき、ドアが開いて、犬をを連れた人が病院から出てきた。
犬はボクを見て、こちらに来そうになったが、
「だめよ!」
と、飼い主さんが止めてくれた。
そのすきに、ボクは病院の中に入った。
入ってすぐに、
「にゃあ!」
と、大きな声で鳴いた。
「あら!何処の子?」
声を聞きつけた受付のお姉さんが、急いでボクの所に来た。
「あ、先生のお友達の所のちびちゃん。どうしたの?1人?
パパかママは?」
お姉さんは、ボクの頭を撫でた。
「にゃーーーーーーーーっ!」
お姉さん!ママが!
ボクは大きな声で鳴いた。
「きゃっ」
頭を撫でていたお姉さんは、びっくりして慌てて手を引っ込めた。
「にゃ~~~~~!」
お姉さん!ママが!妹が!
必死のボクの訴えに、お姉さんは何かを感じてくれたのだろう。
診察室にいる先生を呼びに行ってくれた。
「どうしました?ちょっと待ってこれで終わりだから。」
先生の声が聞こえた。
ボクは真っ直ぐにそこへ向かった。
診察室の前へ行くのと同時に、先生がでてきて、ボクを踏みそうになった。
「おっと。ちびすけ、どうした?今日来る予定だったか?」
受付のお姉さんが、一生懸命伝えてくれてたのに、
何故この先生はこんなにのんびりなのか。
違う!違うよ!ママが!妹が!
来て!一緒に来て!
ボクは先生に必死に鳴いて伝える。
「なんだ?どうした?」
ボクの慌てぶりを見て、先生は何かを察したようだった。
「まさか、さわちゃんに何かあったのか。」
『さわちゃん』とは、ママのことだ。
「にゃあ!」
先生の顔色がさっとかわる。
「車の鍵を持ってきて!」
受付のお姉さんに言うと、お姉さんはいったん奥に引っ込んで、
すぐに鍵を持ってきた。
「いこう!ちびすけ!」
先生は、さっとボクを抱きかかえると、
駐車場の一番端っこに停めてあった車に乗り込んだ。




