53.青い空とひとつひとつの世界 その2
「その幹に、手を当ててごらん。」
私の右側の一際大きな樹を、白い、ほっそりとした人差し指で示した。
私はその大きな樹を見上げた。
それは見事な枝垂れ桜の樹だった。
見渡す限り、この辺りにはこの樹よりも大きなものはなかった。
溢れんばかりの花が咲いていた。
まるで、いや、まさに、私がずっといた世界にあった桜、そのものだった。
千年もの間、同じ場所に佇んで、その世界を観続けている、あの大きな。
だが、初めてこの樹を見たときよりも、花の数が少なくなっているようだ。
何もついていない枝が、ぽつぽつと見受けられる。
思わず、そのひとに顔を向けると、
そのひとは、その美しい顔で、寂しそうに笑って頷いた。
・・・そうか、この樹は・・・
「さあ、手を当ててごらんなさい。」
花のついていない枝を、いつまでも見詰めている私を、柔らかい声で促した。
私は、おそるおそるその幹に手を伸ばした。
表面のごつごつした感触と、ふんわり温かな温もりが、手のひらに伝わってきた。
私は両手を樹に当て、額をそっと押し当てた。
すると、ゆっくりと『あの世界』の記憶が蘇ってきた。
青い空、真っ白な雲。草の香り。都会の匂い。
車の通る音。風が木々の枝を通り抜ける音。
子供の声を反射する校舎。
光と影が交互にできる橋。
幼い頃の自分が見える。叱られて泣いている。
学生の頃の自分が見える。あまり、希望を持てない気持ちで空を見上げている。
大人になった自分が見える。焦燥感が酷く、下ばかり見ている。
でも、それでも、ともちゃんと幸といたあの頃は、とても幸せだった。
あの思い出があるから、この樹は私の救いで、安らぎであったと思える。
また戻りたいとさえ思う。
やはりこの樹は、『あの世界』だった。
自然に涙が頬をつたう。
ここの一本一本の樹が、『魂の育つ世界』だった。
様々な魂が造ったそれぞれの世界。
それがここにある『樹』だった。
この『区画』は、『区画』という言い方は、何か無味な感じがするが、
上手い言い方が浮かばない。
『森』のように、自由気ままではなく、全て花の咲く樹だが、
『花園』というよりは、『森』に近いのだろうか。
ここに存在するものは、たとえば、頭に番号をつけて、『三十三区画』などと呼ぶ。
『樹』はただ立っているわけではなく、常に変化していた。
芽が出たかと思うと、しゅるしゅると枝を伸ばし、花を咲かせる。
その反対に、急に萎れてしまう花があり、消えるように枯れる枝もあった。
幹につけた額を離して、私の『あの世界』の枝垂れ桜の樹、
と、呼ぶのは少し長いので、
あの世界の長寿な桜の名を借りて、『滝桜』と呼ぶことにする。
とても大きくて幾本もの枝が枝垂れていたが、花の数は数えるほどだった。
「えっ。」
思わず言葉が出た。
ここに来て、先程見たよりも、花の数がかなり減っている。
慌てて見上げると、小さな花が、ぽつりぽつりと小さなカタマリで咲いているのが見えた。
しかし、カタマリの数も本当に少なくなってしまっていた。
ここに、季節はない。
花が咲かない時期など無い。
と、見る間に、カタマリが少しずつ小さくなっていく。
慌てて振り返り、その美しいひとを見上げる。
「ナル様、この樹は。」
ナル様は、眉を少し寄せて、悲しそうに頷く。
「もうすぐ、収束が始まります。」
『収束』とは簡単に言うと、樹の若返りだ。
花の咲かなくなった枝は幹と共に、そのまま地中に引き込まれることになる。
地中に引き込まれた幹と枝は、樹を支えることに集中し、
もう成長することはない。
そして、その中の世界は、固定される。
「ああ。」
と、私は言った。
ともちゃんと幸と歩いたこの世界が、無くなるわけではないけれど。
ただ。
『収束』は、その世界を、壊すことから始まる・・・




