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幸湖日記  作者: 炎華
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51.唯一の居場所

中腹まで登ったとき、木々の切れ間から一瞬光ったものが目を射た。

向かいの丘に続く道路を、一台の車が走って行くところだった。

その白い屋根が、太陽の光を反射したのだった。

俺は足を止めて、車が道路を上り、

90度に滑らかに曲がって家々の陰に隠れるまで、ずっと見ていた。

あの先には、天気がよければ富士山が見える。

今日のこの天気なら、とても綺麗に見えていることだろう。


あの道を、俺も車で走った。

みなみを乗せて、スーパーへ行った。

幸を乗せて病院へ行った。

あれは、昨日のことのようなのに。


みなみは、幸との散歩はもっぱらこの山を登っていたようだが、

俺は、バス通りを渡って、向こう側に見えるあの丘の方へ行っていた。

幸は、俺が育てた。

子犬の頃は、餌をお湯でふやかして食べさせ、トイレを教え、

あらゆるしつけを、俺がした。

怒ったり、誉めたり、喜んだり、笑ったりしながら、幸を育てた。


幸が我が家に来たのは、6月の始めだった。

やっと外へ散歩に出られる様になったとき、

アスファルトの地面は昼間は、幸の肉球を焼くほど高温になっていた。

夜、すっかり日が沈んだ頃、幸と散歩に出るのが俺の日課だった。

子犬で、更に足の短い幸には、平らな所を歩かせたかった。

となると、この山を登るわけにはいかない。

バス通りを渡り、あの道をゆっくり歩いた。

あの頃、俺はずっと家にいて、みなみは仕事に行っていて、

帰りは夜の10時をまわってからだった。



よかれと思って起こした行動によって、俺は一瞬にして、全ての居場所を失った。

仕事も、そして、友人も。

誰も俺を信じてくれなかった。

嘘の証言、想像の上の心情、全くの決めつけ。

俺がいくら違うと言っても、誰も信じてくれなかった。

両親でさえ。


-みなみ。

みなみも、俺を信じてくれないだろう。

なぜなら、俺は、みなみを裏切ったのだから。

信じないどころか、恨んでいるかもしれない。

俺の中では、それは裏切りだなんて、これっぽっちも思ってなかった。

だが、みなみからすれば、大いなる裏切りだったようだ。

みなみより、大切に想う人ができた。

その人を優先した。

何もかも。

その人に会うためなら、寝不足だって平気だった。

その人のためなら、みなみとの約束でさえ、平気で破った。

みなみは、怒って、泣いて、俺を責めたけど、多少心は痛んだけど、

そんなことは大した事では無かった。


あるとき、あまり頼み事をしないみなみが、珍しく実家へ一緒に言って欲しいと言った。

そのとき、みなみの両親は、車で1時間半位の所に住んでいた。

みなみの父が癌で入院して、一人で家にいる母が心配だという理由だった。


  めんどくさい。


これが正直な気持ちだった。


  一人で電車で行けばいいじゃないか。

  何で俺まで一緒に行かなきゃいけないんだ。


しかし、義理とはいえ母親だ。

後ろめたい気持ちも手伝って、しぶしぶ車を出した。


  めんどくさい。

  なんで俺がこんなこと。

  隣りに座っているのが、あの人だったら最高なのに。

  望むまま、どこへでも行くのに。


そんな気持ちが、俺の中をぐるぐるまわっていて、

ハンドルを操作しながら、何度も爪を噛んだ。

みなみは、何も言わなかった。

左側の窓の外をずっと見ていた。

時々、ちらっとこちらを見るが、何も言わずに再び窓の外に視線を移す。


  そうだ、話しかけてくるな。

  そうやって黙ってろ。


俺は唾を吐きたい気分になっていた。


それなのに。

『みなみが、いなくなる。』

全てを失って、改めてそう思ったとき、俺は恐怖を感じた。

あのときは、いなくなってくれればいいとさえ願ったのに。

お前がいるから、あの人が俺を受け入れてくれないんだ。

でも、みなみを選んで連れてきたのは、俺なんだ。

何かの陰を纏って俺の前に現れたみなみの、その陰を振り払ってやろうと、

連れて来たのは俺なんだ。

自分から捨てるわけにはいかなかった。

そういう『思い』を、俺は後ろめたく感じていた。

だから、みなみが俺を嫌うように、自分から去って行くように振る舞った。

・・フリじゃなかった。

本気で、そう思っていた。

みなみの存在が疎ましかった。

俺が、お前を疎ましく思ってること、いなくなって欲しいと思っている事に、

早く気付け。

そして、俺の目の前から消えろ!

一日でも早く消え去れ!

本気でそう願っていた。


なのに。

俺を信じて、一緒に戦ってくれたのは、みなみだった。

泣いて俺を責めて、俺から離れれば、楽になれるのに、

みなみだけが、一緒にいてくれた。

そして、唯一の、最高の、俺の居場所になった。

それが無くなってしまった今、俺にはもう何も無い。

本当に何も無くなった。


幸湖は、みなみがずっと犬を飼いたいと言っていたから、飼った。

もし万が一、どちらかがいなくなることがあっても、

幸湖がいることによって、生き延びられればいいと思って、飼った。

でも、幸は、俺たちがいなくなるより先にいなくなってしまった。

みなみは、しばらくはふさぎ込んでいたが、

少しずつ幸のいないことに慣れていったようだった。

でも、俺がそんな風に思っていただけだと、後で気付かされた。

当の幸が言った。

「ままは、ぱぱがお仕事に行っちゃうと、壁にもたれて座り込んで

「幸、いない。」

って、ずっと泣いてたよ。幸、ずっとままのすぐそばにいたのに。」

寂しそうに、そう言った。

俺は、幸をぎゅっと抱きしめて、

「ありがとう。」

と言った。不覚にも目から涙を溢れさせながら。

俺は、いつも何も見ていないんだ。

もう終わってしまってから、気が付くんだ。

幸は俺の涙を舐めながら、

「しょっぱい。ぱぱも、ままも、泣き虫だねぇ。」

と言った。

みなみは、また俺の見えないところで泣いていたんだな。


後になって、みなみが言った。

「ともちゃんの中で、私が一番じゃなくなったんだなって思った。

私といても、つまらなそうで、いつもめんどくさそうだったから。

これは、例え、比喩?なんだけど、

ともちゃんの見える角度が、私の中でも変わったの。

これまでの接し方ができなくなった。

だから、迷ってたけど、本気で考えてた。

もっと職場に近い所にアパート借りて、ここを出ようって。

でも、思い切れなかったよ。

でも、ともちゃんに好きな人がいたとはっきりわかって、

全てが取り返しがつかないところまで行ってしまっていたとき、

迷ってないで、早くともちゃんから離れればよかったって。

そしたら、ともちゃんはきっと何も無くさないで済んだ。

あのとき、ともちゃんが一番いらなかった私が無くなれば、よかったのに、

それができなかった。」

何も、言えなかった。

「ごめんね。」

一つ息をついて、俯いたまま、ぽつりとみなみが言う。

「違う!」

俺はみなみを抱きしめる。

抱きしめたまま、何度も首を横に振った。

「違う」と言ったはずの声は、掠れて、何を言っているのか、わからなかった。

何度も「違う」と言った。

俺は、声をあげで泣いた。

みなみがいなくならなくてよかったと、本気で思った。

みなみまで無くなったら、俺は、もう生きていけない。

-みなみがいなくなる!-

恐怖を感じたあのとき、俺は吐いた。

胃の中身が無くなって、胃液しかでなくなっても、吐いた。

吐き続けた。



事故に遭ったあの日、生死を彷徨っていた俺の所へ、みなみが来た。

無事な姿を見たとき、心底ほっとした。

「無事だったのか、よかった。」

と思わず言うと、みなみはゆっくり首を横に振って

「死んだ。」

と、言った。

「お別れに、来た。」

と。

自分の耳を疑った。

「今、なんて?」

心で問いかけた。

「死んだ?死んだって、言ったのか?」

目の前が真っ暗になるとは、あのことだろう。

『みなみが、いなくなる。』

今度こそ、本当に。

みなみも、幸もいなくなったこの世に、俺だけが生きながらえて・・

いやだ!

「俺も逝く!」

みなみは驚いて振り返る。

「だめだよ、」

と言いかけて、みなみは何かに気が付いたように黙った。


  逝かないでくれ。俺を置いて逝かないでくれ!


みなみは、やがて口を開いた。

「待ってる。」

と。

「待ってるから。」

と。

そして、涙でぐしょくしょになった顔で、笑った。




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