5月10日
春に、庭の桜の花が咲くと、ままは目を細めて眺めながら必ず歌った。
小さな声で、さくらさくら、と。
それを聴くと、幸はなんだか悲しい気持ちになった。
悲しいような、寂しいような、胸が締め付けられるような
そんな気持ちだった。
まるで、大切な何かが消えていってしまうような・・。
だが、2フレーズ目にくると、いつも違和感を感じた。
さくら さくら
やよいのそらは みわたすかぎり
かすみかくもか
あさひににおう
なぜ違和感を感じるのか、生きているときはわからなかった。
ままは人間で、人間の作った歌を、犬の幸が知っているはずがないと思っていた。
一番初めにままが歌ったときは、何も気にしなかった。
ままが一人で話しているのかと思っていた。
ぱぱとままと長い間過ごすことによって、
それは何かを話しているのではなくて、
『音楽』というものらしいということがわかってきた。
ぱぱもままも、『音楽』をよく聴いていた。
一緒に歌っているときもあった。
他の『音楽』には、何も感じたことはなかったが、
ままの歌うこの歌だけは聴いたことがあるような気がした。
魂だけになって、ぱぱとままの傍にいたとき、
桜が咲くと、二人一緒に縁側に座って、
幸が生きていた頃と同じように花を眺めていた。
幸は、二人のすぐ横に座って、一緒に桜を眺めていた。
花を眺めながら、ままは必ずこの歌を歌った。
ぱぱはそれを黙って聴いている。
でも、途中で必ず涙声になって、歌は途切れた。
そして言うのだ。
「幸、いない。」
そして、大粒の涙を流しながら、ままは下を向いてしまう。
ぱぱは、黙ってままの頭を自分の肩に乗せ、
ままの背中に手をまわして、ままの頭を撫でるのだ。
「幸、いるよ!」
そう言っても、ぱぱにもままにも聞こえない。
ままの膝に顎を乗せる。
「幸、いるよ。ぱぱとままの傍にいつもいるんだよ。」
見上げると、ままの顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。
ままの歌う『さくら さくら』は一番と二番が混ざっているのだと気がついたのは、
ずっと後になってからだった。
何故幸がこの歌を知っているのか、ずっとわからなかった。
何度も見た夢の中で、幸は兵隊さんだった。
幸はずっと怖い『夢』だと思っていたが、
ままは、幸の前世の記憶じゃないかと言った。
もし、本当にあれが前世の記憶だとしたら、
幸が『さくら さくら』を知っていたとしてもおかしくはない。
だから、この歌を聴くと、悲しいような気持ちになるのかもしれない。
もうすぐ、死にいく自分。
そのときに、この歌を歌っていたのかもしれない。
この歌を歌って、何かを思い出していたのかもしれない。
幸せだったときを。
ままに
「混ざってるよ。」
と言ったときのままの驚いた顔。
でも、いつ、一番と二番の歌詞が混ざってしまったのか、
ままはわからないみたいだった。
歌い終わって、ままを見ると、ままはぼおっと前を見ていた。
目は、いつものように階段の突き当たりを見ていたが、
頭では違うことを考えているようだった。
何か、思い出しているのだろうか。
ままをしばらく見ていたが、黙って横に座った。
静かだった。
空気がとても澄んでいた。
ほーほけきょ
ここ一ヶ月で、数段上手くなったウグイスの声が、少し離れた所から聞こえてきた。
さわさわと竹の鳴る音が聞こえてくる。
たぶん、今は昼間の10時頃だろう。
ぱぱ、今日は来るよね。
心で思ったとき、
「・・・いた?」
出だしの言葉が、よく聞こえなかったので、
もう一度言ってくれるよう目でままに訊ねた。
だが、ままは首を横にふって、幸に笑いかけた。
「なぁに?変なまま。」
と、言おうとしたとき、
突然目の前に虹の橋が出現した。
最初はゆっくりだったが、徐々に勢いを増して、
いつもの階段を真横に横切るように架かり始めた。
呆然とその進捗状態を見つめていたが、これが出現した理由に気が付いて、
同時に叫んだ。
「ぱぱだ!ぱぱが来たんだ!」
叫んだ途端に、虹の橋に向かって走り出した。
ままも走り出したが、やっぱりうさぎにはかなわない。
ままの後ろ姿を追うこととなった。
ぽーんとままが飛んで、虹の橋の上に着地した。
幸も負けずに飛ぶ。
一瞬、上に乗れるのか心配になったが、ちゃんと落ちることなく着地できた。
虹の橋は七色に透けてはいるが、しっかりとした足場になっていた。
下を見下ろすと、ままの宝物の町が見下ろせた。
道路を走っていく色とりどりの車や濃いグレーの家々の屋根が、
日の光に光って見えた。
そして、あのとき、ままが登ってきた階段の中腹で、
薄いグレーの縞模様のねこが、こちらを見上げているのに気が付いた。




