48.ボクが、もっと強かったら
両親に別れを告げて、俺は病室の窓に向かった。
白いカーテンが閉まっていたが、外が真っ暗なのがわかる。
ここから先には行けなかった。
でも、今なら行ける。
心臓の鼓動が止まったとき、体がすっと軽くなったのがわかった。
足に力を入れ、床を蹴って体を浮かすと、カーテンと窓ガラスをそのまますり抜けた。
自由だ。
もう、縛られることはない。
すっかり暗くなった空間に、俺は浮かんでいた。
病院の窓からは、白い光が漏れていた。
まだ全ての病室の窓に、灯りが点っていた。
俺はどんどん高く昇った。
もう一度振り返ると、病院はとても小さくなっていた。
少し高台の駐車場を取り巻くように、コの字型の建物が建っていて、
駐車場の脇から、道路へと続く道が一本出ていた。
まさにそこから、一台の車が道路上の車の流れに合流しようとしていた。
「あれに、俺の臓器が乗ってたりしてね。」
と呟いた。
しかし、本当にそうなのかもと思い直して、
「ありがとう。元気でな。」
と、頭を下げた。
その車を見送ってから、もう一度病院の建物に目を移すと、
俺の病室だった所から、両親が顔を覗かせていた。
「ありがとう!元気でね!」
俺の声が聞こえたのか、母は大きく手を振った。
「またね!」
道路を流れる赤と白の光を辿って、
俺はみなみと幸が待つあの丘に向かった。
エンジンの音、クラクション、生きている人間の出すざわめきが、
遠くで聞こえる。
あれからそんなに時間は経っていないのに、とても懐かしく思えた。
道路の周囲の店舗は、まだ開いていて、
普通の家々の灯りより、ずっときらびやかだった。
あの中に、こんな風になるとは少しも思わずにいることができた。
今から思えば、あれはとても幸せだったのだろう。
みなみがいて、幸がいて、俺がいて、泣いて怒って笑って、悩んで、
あれが、幸せだったのだろう。
無くなって初めてわかる。
だから、行こう。
みなみと、幸の待つ所へ。
「でも。」
と、思う。
「あれは、なんだったんだろう?」
と。
涙を堪えて横を向いた父の後ろにいたもう一人の父。
窓から抜け出るときにちらっと見えたもう一人父は、笑顔で俺に手を振った。
そして、聞こえたあの声。
『ボクがもっと強かったら、君をこんな風にはさせなかったのに。』
俺は、その言葉を呪文のように繰り返した。
「ボクがもっと強かったら、君をこんな風にはさせなかったのに。
ボクが、もっと、強かったら、きみを、こんな、ふうには、サセナカッタノニ・・」
俺は、急に意識を失った。
「寒いよ。お母さん、どこ行ったの?」
消え入りそうな、小さな声がして、ボクは目を覚ました。
目の前に、茶色い低い壁が見えた。
壁は周囲をぐるっと取り囲んでいた。
上を見ると、薄暗い空が見えていた。
夜明け、なの?
なんで、空が見えるんだろう。
昨日まで、いや、目を覚ます直前まで、こんな所にはいなかったはず。
暖かい部屋、柔らかい布団、そしてお母さんが、いて・・
「お兄ちゃん、お母さん、どうしていなくなっちゃったの?」
ふわふわした体をボクにくっつけて、妹は言った。
体が細かく震えている。寒いのか、それとも怖いのか。
「寒いよ、お兄ちゃん。お腹空いたよ。」
「大丈夫。お母さん、もうすぐ迎えにくるよ。」
「ほんと?」
「ほんとだよ。だから、泣くな。」
ボクは、ふわふわの妹をぎゅっと抱きしめた。
実際は、自分の言ったことに自信はなかった。
妹を宥めるために言った言葉だが、自分にも言い聞かせていた。
「大丈夫、大丈夫。」と。
「怖いよ、お兄ちゃん。
どうして、こんな所にいるの?」
ボクにもわからなかった。
どうして、こんな所にいるのか。
伸び上がれば、壁の向こうが見えそうだ。
そうすれば、ここがどこかわかるだろう。
知っている所だったら、なんとかなるかもしれない。
でも、ボク達は、あまり外に出たことがなかった。
妹をそっと離すと、ボクは壁に手をかけて向こう側を見た。
ずっと草が生えていた。
この壁と同じ位の背の草だ。
壁で見えなかったが、すぐ横には何か白い建物があった。
全然知らない所だった。
「お兄ちゃん。」
そう妹が鳴いたとき、目の前を黒い大きな物が視界を遮った。
「ぎゃーーーーーっ!」
妹の絶叫が響く。
黒い大きな物は、妹をくわえると、軽々持ち上げて飛び去った。
「お兄ちゃん!お兄ちゃん!怖いよお!!!」
手足をバタバタしながら妹が叫ぶ。
「妹を離せぇ!」
それが通じたように、そいつは妹をぱっと離した。
妹は、とても高い所から落とされて、ここから離れた草のない地面に墜落した。
すかさず、そいつは再び妹をくわえて舞い上がる。
妹は恐怖のためか、気を失っているのか、今度は声をあげなかった。
同じ位の高さまで来ると、ぱっと離した。
妹は今度は受け身もとらず、そのまま落下した。
ボクは、茶色の塀をやっとの思いで越えると、妹の所まで走った。
三度、そいつは妹をくわえて飛び去った。
そして、また離す。
地面に落ちたのを確認すると、そいつは悠々と舞い降りてきて、
おもぬろに、妹の目に嘴を突き立てた。
「ぎゃーーーーーーーーっ!」
妹が叫んだ。
「やめろ!やめろー!」
そいつはとても大きかった。
それでも、ボクはそいつに飛びかかった。
何するんだ!妹に何するんだ!
妹から離さなければ。
しかし、いくら攻撃しても、そいつは妹を襲うことを止めなかった。
「やめろ!やめろ!やめろーっ!」
ボクは必死にそいつを攻撃した。
でも、どれもそいつには効かなかった。
ひっかいても叩いても、噛みついても、何一つ。
「お兄ちゃん、いたいよ・・お兄ちゃん・・・」
妹の声はだんだん小さくなっていった。
「このやろう!このやろう!やめろ!やめろ!」
ボクは、泣きながらそいつに向かっていった。
だが、そいつは振り向いた途端、ボクに一撃を食らわせた。
「痛い!」
目から逸れた攻撃は、それでもボクの目の上に当たった。
何か温かい物が流れて目に入った。
目の前が真っ赤に染まる。
それでも、ボクは抵抗を止めなかった。
妹を助けるんだ。
ボクはお兄ちゃんなんだ!
こいつ!こいつ!
温かい物は、ボクの目に入ってから、その下に流れていく。
それがどんどん流れていって、ボクの体はだんだん動かなくなった。
目も見えない。
動きの鈍くなったボクを、そいつはくわえて舞い上がろうとした。
「にゃーーーっ!」
ボクは叫んだ。声の限り叫んだ。
そのとき、
「この野郎!」
ばさっと何かがそいつとボクの上を通った。
ふいをつかれて、そいつはボクを離した。
「こいつ!どけ!」
2撃目が、そいつに当たりそうになったとき、ようやくそいつは飛び去った。
「かーっかーっ」
悔しげな鳴き声を残して。
ボクは動かなくなってしまった妹のそばに行こうとした。
足ががくがくして、なかなか前に進めなかった。
ふわっと体が浮いた。
ボクはまたあいつが襲ってきたと思って、恐怖と共にパンチを繰り出した。
しかし、もう力は残ってなかった。
もう、だめだ。ボクがもっと強かったら・・
目を閉じて、運ばれるままにしていた。
もう、死ぬんだ。でも、妹と一緒なら、いいや。
そっと下に降ろされて、ボクは目を開けた。
目の前に、真っ赤に染まって半分目を開けたままの妹が横たわっていた。
目からは赤い物が流れていて、顔がぱんぱんに腫れている。
後ろ足も変な方向に曲がっている。
「にゃー」
ボクは妹を呼んだ。
「ニャー」
妹からの返事はなかった。
真っ赤に染まった妹の体にそっと触れてみた。
「にゃー」
あのふわふわの毛が、所々毟れて赤い物が滲んでいる。
「にゃー・・・」
妹は動かなかった。残った片目も半開きのままだった。
・・・ボクが、
ボクが、もっと強かったら・・・
ボクは妹の体に自分の体を寄せた。
ボクがもっと強かったら、あんな奴に妹を襲わせなかったのに。
ボクがもっと強かったら、妹をこんな風にはさせなかったのに!
ボクが、もっと強かったら!




