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幸湖日記  作者: 炎華
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45.庭の樹

「・・そうだったのね、あなたは、そういう気持ちだったのね。」

傾きかけた日の光に包まれて、しんみりと母は言う。

小さく何度も頷きながら、右下の床を見ている。

それは昔からの母の癖だった。

誰かの歌じゃないけれど、こんなときに、それが母のいつもの癖だったこと思い出した。

話を聞いていて、相手の話が終わったとき、

母はいつもこうやって、何かを考えていた。

右下を見てはいるが、そこにあるものを見ているわけではない。

いや、見えていないと言うべきか。

母の脳は、目からの信号を無視して、海馬から記憶を引き出し、

思考する場所だけフル回転させている。

そんなときに何か話しかけても、生返事が返ってくるだけだった。

それが、いつもの母の姿だった。


  ずっと、忘れてた。


自嘲気味に笑う。

この頃、母と話す機会もなかった。

みなみの方が、母とよく話していたと思う。


母は、うちの小さな庭を手入れするのが好きだった。

最初はみなみがしていたのだが、

両親が古くなった海辺の家を売ってこちらに来るときに、

綺麗に咲かせた庭の木も花も、全て近所に配ってしまったと聞いて、

母の好きにしていいと、譲り渡したらしい。

こう言うと、美談のようだが、

実際は、みなみが本当にやりたいことに少しでも専念したいという裏の理由があったようだが。

それでも、桜の花が終わったあと、

必ず隔週で全部の樹を消毒していた。

そういえば。

「母さん。」

いつもは何度か呼ぶのだが、このときはすぐに顔をあげてくれた。

「みなみがね、床下に農薬とローテーションを書いた紙と噴霧器ががあるからって、

お母さんに伝えてって。」

母は一瞬何のことかわからなかったようだが、すぐに何度も軽く頷くと、

「ああ、はい。」

と言った。

「桜は、虫がつくからね。」

「バラもだよ。」

俺が言う。

「檸檬も蜜柑もあるし。」

「そうね。」

気もそぞろに母は頷く。

まだ、考えているのだろうか。

さっきの話の続きを。

かまわず俺は続ける。

「みなみがね、アゲハが来ると怒るんだよ。

カメラ持って追いかけ回すくせに、

『あいつ、絶対うちの子に卵産む!』って言うんだ。

アゲハは、柑橘系の樹が好きだからね。

『卵が孵ったら、へたすれば一夜でうちの子が死ぬ!』

って。」

それを聞くと、母は少し笑って、

「みなみちゃんらしいね。」

と言ってから、少し間をおいて、

「ちゃんと消毒しないとね。」

と、ぽつりと言った。


桜は、毎年花を咲かせる染井吉野は、母がいてくれる限り、

花を咲かせ続けるだろう。

藤は、黒龍は、今よりもっと花をつけるようになるだろうか。


目を閉じて、耳をすます。

二本の樹が風に揺れてたてたさわさわという音が、聞こえたような気がした。


  ごめんな。

  俺達の方が、先に逝くことになってしまって。

  でも、大丈夫だから。

  母さんが、面倒みてくれるからな。


桜と藤に心の中で、話しかけていた。

生きているときは、そんなことしたことなかったのに。

これもみなみの影響か。


「薔薇がね。」

母の声に、現実に引き戻された。

「すごく綺麗よ。

大きな赤くて黒い薔薇が咲いてるよ。

薄い黄色のも、真っ赤なのも、沢山咲いてる。

庭中いい匂いがするよ。」

母は、にこりと微笑んだ。

だが、その目には涙が浮かんでいた。

自分でそれがわかったのだろう。

すぐに顔を伏せてしまった。


俺の姿は母には見えない。

声だけが聞こえている。

母は、俺の声のする方に顔を向けるが、目があうことはない。

俺の体は、病室のベッドの上に横たわっている。

俺は、俺の意識は、病室の大きな窓の前に立って、

それぞれの丸椅子を並べて腰掛けた父と母と向かい合っていた。

日は、だいぶ傾いていた。

母は、ずっと俺が産まれたときから、つい最近までのことを話続けていた。

父は、何も言わず、黙ったきりだった。

話をふられると、「ああ。」とか「うん。」とか短い返事を返すだけだった。


ふいに母が顔をあげて、また何か話そうとした。

そのとき、今日初めて母と目が合った。

だが、それは俺を見ているわけではない。

俺を通り越した窓の外を見ているのだ。

「もう、日が沈むね。」

ぽつりと言った母の声は、とても寂しそうだった。

さっきまで、白かった日の光は、もうオレンジ色に変わっていた。

俺は母を見ていた。


  お母さん。


とても懐かしい響だった。

「お母さん。」

声に出して言ってみた。

母は、驚いたように俺を見た。


  痩せた。


元々細い体が、益々細くなっていた。

顔も、頬がこけ、目も落ちくぼんだようだ。

呼んだのに、言葉を続けることができなかった。

もう、何かしてあげることはできないんだ。

言葉をかけたって、それは救いにすらならないだろう。


母は、俺の次の言葉をしばらく待っていたが、ひとつ強く頷くと、

「さあ、先生を呼んでこよう。」

と、言った。



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