42.思い出すな
夜が明けて、ままは元気を取り戻していた。
あのまま顔を伏せてしまったままは、しばらく声もたてずに泣いていた。
幸は、ままに寄り添って座っていた。
少しままにもたれるようにして。
突然、ままの姿が無くなって、幸はままのいた方によろけた。
「あ、あれ?」
ままの低い声が、下から聞こえる。
人間のままは、再びうさぎのままになっていた。
「またうさぎになっちゃった、ね。」
おそるおそる幸を見上げるまま。
心なしか、顔が引きつっているように見える。
「実は、本体はうさぎなのかもしれん。」
混乱しているのか、面白がっているのかわからないが、
今までさめざめと泣いていたままは、いったいどこへいったのだ?
幸が口を開こうとしたとき、
「幸、今晩はここにいたい。」
ままが、真面目な声で言ったので、そのまま
「いいよ。」
と応えた。
お日様が顔を出して、また濃い灰色の屋根が金色に輝いたのを見てから、
いつもの階段の一番上に帰ってきた。
桜の樹はもうなく、その後には菖蒲が咲いていた。
ここの風景は、ままの心を写しているとおじいちゃんとおばあちゃん、
ままのお父さんとお母さんが言っていた。
ままの記憶では、今は菖蒲が咲く時季なのだろう。
もう少ししたら、紫陽花で百合なのだろう。
もしかしたら、薔薇なのかもしれない。
「不思議な夢をみたよ。」
いつものように階段の突き当たりの、朝の光に輝いた沢山の屋根をみたまま、
ままは言った。
夢?
もう眠ることのないままと幸が夢をみることはない。
幸をちらりと見て、その考えを読んだようにままは言う。
「うん。幸の言いたいことはわかってるよ。
もう、夢なんかみないのに、って言うんでしょう。」
少しままは笑ったようだった。
さわさわと微かに音をたてて、竹藪の葉の擦れる音が聞こえた。
「夢じゃなかったら、記憶、なのかな。」
ままはゆっくり目を閉じる。
「どんな所を歩いていたかは覚えてない。
ただ、すごく疲れてた。
すごくすごく疲れてて、歩くのもやっとだった。
ゆっくり、一歩一歩踏みしめて歩いてた。
気を抜くと、倒れそうだったから。
そうだ、何かを杖にして歩いてた。
両手で持って、前に出す。地面に立てる。
足を引きずりながら一歩進む。
前に出す。
進む。
どれくらいそうやって歩いていたのかわからない。
ほんの少しだったかもしれないし、すごく長い間だったのかもしれない。
終わりは突然やってきた。
目の前に何かが降ってきたの。
風に舞って、ふわふわって。
足下に落ちたそれを見ると、薄いピンク色の花びらだった。
杖に頼りながら、こうやって」
こうやって、と言いながら、ままは空を見上げた。
「見上げると、満開の桜が見えた。
染井吉野が、沢山の染井吉野が、花びらを降らせてたの。
綺麗だった。
すごく綺麗だった。
そして、誰かが、とっても綺麗な人が
「お帰り。」
って。
あれは、誰だったんだろう?
その声に、包み込まれるようだった。
すごくほっとして・・・」
そこまで話すと、ままは突然目を開けた。
「・・私は、あのとき、何て言った?
どこかへ行きたい、と言わなかった?
どこへ?どこ。」
ままは突然頭を抱えた。
尋常ではなかった。
「ままっ!まま!」
幸は、慌ててままを抱きしめようとした。
抱きしめようと、した。
前にも、こんなことがあった?
ずっと、ずっと、前にも。
抱きしめることなんて、できないのに。
でも、いつかこんな風に、両手を伸ばして、抱きしめたことがある。
これもいつかの『記憶』なの?
ごおっと、耳元で音がした。
それに続いて、竹藪と木々を揺らして、
階段の上に座るままと幸に、強い風が吹き付けた。
音の方が後から聞こえるはずなのに、
なぜか音の方が先に聞こえた。
まるで、それ以上思い出すなというように。
空を見上げると、今の風に散らされた葉が舞っているのが見えた。
ままを見ると、ままも同じように空を見ていた。
青い空に、緑色の葉がいくつも舞っていた。
飛ばされた葉が、見えなくなってしまうと、
ままは、ほっとため息をついて、幸を見て少し笑った。
「ぱぱ、まだ来ないね。」
何気なく言ってみた。
ままは、階段の突き当たりに目を移すと、
「今日は、まだ来ないと思うよ。」
と、言った。
「なんで?」
「お義父さんもお義母さんも、ぱぱとお話したいでしょ。
だから、今日は来ないよ。」
さあっと、風が通り過ぎていった。
さっきままと幸を叩いて通り過ぎた風とは違って、
今度は優しく撫でるように通り過ぎていった。




