5月9日
「今日一日つきあって。」
と、母は言って、ベッドの脇に椅子を置いた。
みなみと幸がここに来た次の日のことだった。
母には俺の姿は見えないし、父がいないと声も聞こえない。
ただ、俺の気配は感じるらしかった。
「とものことは、ずっとほったらかしだったね。
ごめんね。」
母が言う。
俺の家は、以前、店をやっていた。
今は、閉めてしまったが、
母は一人で店を切り盛りしていた。
真面目すぎるくらい真面目な母は、
がむしゃらに、やらなくてもいいことまで
無償のサービスとして、客に尽くしていた。
それに時間をとられ、俺はほったらかしだった。
それでも、寂しくはなかった。
寂しいと思ったことはなかった。
どこにも連れて行ってもらえなくても、
一緒に遊んでもらえなくても、
俺は平気だった。
『友達がいたから』ではない。
俺は『一人』が好きだった。
『一人』が好きな子供だった。
俺は未だに、親に何か教えてもらったことは何もないと思っている。
18のときに、こっちに出てきて、全てを自分で学んだ。
親に育てられたとは思ってない。
勿論、金はだしてもらった。
それは感謝している。
そして、自由にさせてもらえたことに、ひどく感謝している。
みなみが、それをすごく羨ましがった。
みなみに、本当の『自由』はなかったからだ。
たが、一つだけ。
子供の頃、流行っていたゲームのソフトを、
近所の商店街のくじで当てたことがあった。
それを喜び勇んで母に見せたら、あろうことか母は
「返してきなさい!」
と言ったのだ。
俺は、そのゲームを動かす機械を持っていなかった。
母は、それを買わされるのが嫌だったのだろう。
「そんなもの買うお金がない!」
と。
俺は泣く泣く当たったゲームを返しに行った-
母は、もうそんなことは忘れているだろう。
今更思い出して、自分を責められても困るが。
それをみなみに話したら、
「お義母さんが?そんな風に言ったの?」
と、驚いていたが、
みなみよ、
俺だってみなみの親が、みなみの話すような親には思えなかったぞ。
外からじゃわからないんだよ、中のことは。
「ごめんね。」
と、母は言う。
「いや、いいよ。」
謝られることは、ひとつもないんだから。
俺は、母の左側のベッドに腰掛けた。
母には、左側から俺の声が聞こえるだろう。
父は、窓から外を見ていた。
俺がトラブルを起こしたとき、
そんな話は聞きたくないと、態度で示していた父は、
俺の話を聞く気はあるのだろうか。
いや。
俺には、もはや話すことは何もない。
すぐに逝かせてくれたなら、感謝の言葉一つでも言っただろうが。
いや、でも、
この世に産み出してくれたことには、感謝している。
おかげで、みなみに逢えた。
それだけは、感謝してもしきれない。
みなみ。
俺は、みなみに執着している。
しすぎているかもしれない。
あのひとに、最初から執着していたわけではない。
ただ、助けたかった。
何かに囚われて、もがいているあのひとを、助けてあげたかった。
それが叶ったとき、
俺の中に、みなみを『助けてやった』という思いが生まれた。
どこかに、みなみより自分の方が優位だという思いがあったに違いない。
『俺が助けてやったんだ、あの囚われの世界から。』
だから、あんなことが起こったんだ。
みなみに、嫌われて見捨てられても仕方の無いことだった。
みなみが、二度と俺の顔を見たくないと言えば、
それに従うつもりだった。
『みなみが俺から離れていく。』
トラブルが起こる前は、そう考えても何とも思わなかった。
そんなことがあるはずがないと信じていた。
いや、むしろ、
自分からいなくなってくれた方が都合がいいとまで思っていた。
でも、実際にそうなるかもしれない、
その可能性が高くなったとき、
俺は締め付けられるように苦しくなった。
息ができなくなって、胃が絞られているかのように痛んだ。
そして、何度も何度も吐いた。
胃の中が空っぽになっても、吐き続けた。
ごほっごほっと咳が出て、その苦しさに、涙が溢れてきた。
吐く度に、吐瀉物と一緒に涙が便器に落ちた。
なんて、俺は馬鹿だったんだろう。
何を思い上がっていたんだろう。
みなみがいなくなる。
俺の傍から。
母は、話し続けている。
これが最後と、ありったけの思いを込めて。
父は、相変わらず背中を向けている。
母の言葉を聞いているのか、聞いていないのかはわからない。
俺は、せめて母の思いを、今日だけは聞いていよう。
明日は、もうここにはいないのだから。




