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幸湖日記  作者: 炎華
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38.もう少しだけ

黄色いタクシーが幸の目の前に停まった。

ドアが開くと、お釣りを受け取る時間もまだるっこしいというように、

せかせかとじぃじが降りてきた。

幸の横を、駆け出さんばかりの勢いで通り過ぎ、

病院の透き通ったドアを、少し重そうに開いて、

じぃじは中に入って行った。

目の前でドアが閉まったが、幸はドアなどないように中へ入った。

動物病院とは全然違っていた。

高い天井と、奥には沢山の人が座れるベンチがありそうだった。

左側にも大きな空間があるようだ。

じぃじは、タクシーを降りてきたときと変わらず、

せかせかと前を歩いている。

慌ててついて行こうとすると、

ふと何かに気が付いたように、向きをかえようとした。

幸の声は聞こえても、姿は見えないはずなのに、

隠れなきゃ!と、つい身構えてしまった。

だが、じぃじは、向きをかえる動作を途中でやめ、

そのまま左前方に進んでいった。

小走りにじぃじの姿を追い掛ける。

じぃじの向かう方向には、ばぁばがいた。

膝に小さなリュックを置いて、椅子にぽつんと座っていた。


  また痩せたみたい。


元々線の細い人だが、顔がまた細くなったようだった。

顔色も悪いし、目の下の隈も少し濃くなったみたいだ。


ばぁばは、ぼんやり床を見つめていた。

じぃじが来たことにも気がつかないようだった。

じぃじは、そっとばぁばのすぐ隣りに座った。

しばらくの間、ばぁばはじぃじの存在に気が付かなかった。

「どうした?とものところへ行かないのか。」

優しい声で、じぃじが話しかける。

ばぁばは、はっと気が付いて、声のした方を振り返った。

「お父さん、いつからいたの?」

「今。」

じぃじは嘘をついた。

もう、15分は経ってる。

「全然気が付かなかった。」

ばぁばは、少し困ったように笑った。

じぃじは、ちらっとばぁばの様子を見ると、

前を向いたまま

「あれか。」

と言った。

ばぁばは、こくりと頷く。

「私が、やればいいんだけど、

お父さんが、ともがあそこにいるって言ったから。」

そう言うと、ばぁばは下を向いた。

ぱぱのオムツを替えてるんだと思った。

ぱぱが、ばぁばにオムツを替えてもらうのを、

見るのが嫌だろうから、ばぁばは自分ではやらない、ということだろう。


  ばぁばは。

ぱぱと何か話せたのかな。


じぃじがいれば、ばぁばにも声は聞こえるのだろうか。

だったら、何か話せたのかもしれない。

「もう、終わってるだろう。」

じぃじはそう言うと、椅子から立ち上がった。

ばぁばも、そうね、と小さい声で言うと、同じように立ち上がった。

ままはまだ病室にいるだろう。


  このまま、二人の会話を聞かせるべきだろうか。

  でも、じぃじにしか、ぱぱ達の声が聞こえないとしたら、何の意味も無い。

  だけど、ばぁばにも聞こえるとしたら。


気が付くと、

じぃじとばぁばは、エレベータに乗り込むところだった。

幸も慌てて駆け込む。

エレベーターは微かに揺れると、上昇し始めた。

中には、他に誰もいなかった。

じぃじもばぁばも何も話さなかった。

とても静かだった。

二階を通り過ぎて、三階でエレベーターは止まった。

二人は降りてすぐに廊下を左側に進んだ。

前来たときと違う。

集中治療室から、普通の病室に移ったのだろう。

ぱぱの病室の前まで来たとき、

ぱぱとままの声が聞こえてきた。

開いていたドアの前で、

じぃじとばぁばは、ぴたりと止まった。


「ここに来るとき、92歳の、」

ままの声は、そこで迷ったように止まった。

「お、お姉さんに会ったの。」

「うん。」

ぱぱの声が応えた。

ちょっと迷ってるままを、にこにこしながら見ているのだろう。

「幸と同じ名前の『幸子』さん。」

「おぅ、多いね、幸子さん。

犬と一緒って聞いて、また一瞬固まってた?」

「笑ってた。」

「そうか。よかった。」

そっとじぃじとばぁばを見上げる。

ぱぱとままの喉かな会話に比べ、こちらの緊迫感。

幸は、汗が出た。

犬は足の裏に汗をかくのだが、

今は、全身に汗が噴き出したような気になった。

「幸子さん、転んで骨折って入院したとき、

霊の声だけ聞こえるようになったんだって。

そして、そのうち、姿も見えるようになって。」

ままの声がだんだん小さくなる。

「さっき、私の目の前で亡くなったの。

でも、旦那さんと息子さんがお迎えに来てた。

旦那さんが、『おばあちゃんになっても、幸子は綺麗だよ。』って言って。

きゃーーーーー!」

ままの声のボリュームが一気に上がった。


  ・・・まま・・・


「そして、三人で空に昇って行った。

あっちで、お茶しましょうって。

ともちゃんと幸も一緒にって。」

ままの声がまた小さくなった。

「もしかしたら、お義父さんも、そうなのかなぁって。

そしたら、ともちゃんが、考えてたこと、

お義母さんが背負うことになるよね。」

少しの間、ぱぱの声も、ままの声も聞こえなかった。

じぃじとばぁばは、やはり中に入るでもなく、

同じ場所に立っていた。

じぃじがここに立ち止まっている理由を、ばぁばが問わないということは、

ぱぱとままの声が、ばぁばにも聞こえている、ということだ。

「ともちゃんも、そんな気がしてたんでしょう?

それで、少し待っててって、言ったんでしょう?」

「・・うん。」

掠れた声で、ぱぱが応える。

ぱぱの応えに、声なく頷くままの姿が想像できる。

少し間を置いて、ままの声が再び聞こえてきた。

「だからさ、待ってるよ。

あそこで、待てなくなったら、

幸子さんの旦那さんみたく、迎えにくるからさ。

『ともちゃんは、おじいちゃんになっても素敵だよ』って。」

「うん。」

ぱぱの掠れ声が、益々掠れる。


  ぱぱ、泣いてる。


幸が中に入ろうとしたとき、行く手をばぁばの足に遮られた。

ばぁばは、静かに病室に入っていった。

ぱぱとままは驚いたように、こちらを振り返る。

声のする方を見てはいるが、

ばぁばには、ぱぱとままの姿は見えてないようだった。

ぎゅっとリュックのショルダーの部分を握りしめて、

ばぁばは言った。

「ありがとう。」

そして、頭を深く下げた。

「お義母さん。」

ままの声。

「ともが、ここにいるってお父さんに聞いて、

この体があるから、ずっとここにいるんだって、聞いて、

じゃあ、私が生きている間だけでも、

ここにいて欲しいと思って、先生にお願いしてしまったけど。」

ばぁばの眼には、何も見えていないだろう空間に、語りかけている。

ぱぱとままがいるだろう所に、語りかけている。

外はまだ明るいが、もう夕方に近い時間になっていた。

「ごめんなさいね。」

ばぁばは、もう一度深く頭を下げた。

「みなみちゃん。」

急に呼ばれて、ままは驚いたのだろう。

「はい。」

少しボリューム高い返事が返ってきた。

「あの日、貴女を一人にしてしまってごめんなさいね。

あの、暗い所に、一人で。

誰も、いなくて・・・」

ばぁばの目から涙がこぼれた。

「悲しかったでしょう?

寂しかったよね。

ごめんね。」

ままは、唇を噛んで、下を向いたが、すぐに顔をあげて、首を振った。

「いいえ。

私、体から離れて、自由でしたから。

ここにも来ましたし。」

口元を押さえて、ばぁばはうんうんと頷いた。

「お母さん。」

ともぱぱの声が、母を呼ぶ。

「ともくん。」

ぱぱは、ばぁばのすぐ前に立った。

「まだ、この俺の体が生きてたとき、

脳も生きてたときね、

早くみなみと幸の所へ逝こうと、躍起になってた。

だけど、脳が死んでも、

この体が生きているうちは、俺はここから動けないとわかって、

最初はさ、なんでだよ!って思った。

でも、冷静になって考えたら、

あのつらい思いを、お母さんがするのかと思ったら、

お母さんが、納得できるまでいた方がいいな、と思えてきて。」

ぱぱが話している間、ばぁばは口元を押さえたまま、

目を閉じて、ぱぱの言葉一つ一つに頷いていた。

「だから、いいよ。

お母さんの気の済むまでいるよ。

みなみも待ってるって言ってくれたし。」

ばぁばは、頷くのを止めた。

が、口元を押さえる手も、閉じた目も、そのままだった。

「さっちゃんも、いるの?」

押さえた口元から、声がした。

「いるよ。」

しまったと思った。

「わん!」

って言わなきゃいけなかったんだった。

だが、ばぁばはそれにもかまわず、

「ばぁばが、逝くときは、迎えにきてくれる?」

と、幸に訊ねた。

「勿論!」

力強く応えた。

「貴方達もきてくれる?」

「勿論!」

ぱぱもままも同時に幸と同じように応えた。

ばぁばは、うんうんと頷くと、目を開いて、口元の手を外した。

「この機械、はずしてもらうね。」

ぱぱとままは驚いて、ばぁばを見た。

「いいの?

無理しなくていいんだよ。」

ぱぱが言う。

うん、と頷くと、

「いいの。決めたの。」

ばぁばが、力強く言った。

ぱぱがばぁばの手を握った。

ばぁばは、それがわかったように、手をびくっとさせたが、

すぐに力を抜いた。

「でも、もう少し時間をくれる?

そんなに長い間じゃないから。」

「うん。」

と、ぱぱが頷いた。

大きな窓から、傾いた日の光が差し込んでいた。






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