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幸湖日記  作者: 炎華
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35.待ってるからね

大きな窓の前に、ともちゃんの体はあった。

窓の外には、緑の木々に覆われた山が見えている。

病院の建物とその山の間には、広い駐車場がある。

窓からの白い光に包まれて、ともちゃんの体は横たわっていた。

その体に近付いて、覗き込む。

「少し、痩せたみたいだね。」

小さい顔が、ほんの少し細くなって見えた。

「うん。」

ともちゃんが、頷く。

「でも、血色はいいね。」

「うん。」

手を伸ばして、その頬に触れる。

ともちゃんの体に触れることができるのは、何故なんだろう。

幸子さんには触れられなかったのに。


いつもこうして、触れることができた。

ほんの、二、三ヶ月前のことなのに。

今は、触れても、ともちゃんは笑わない。

斜め後ろに立っているともちゃんも、悲しそうだった。

「オムツを替えてくれた人、いい人だね。

丁寧にしてくれて、嫌な顔一つしない。」

突然言われたにも関わらず、ともちゃんは

「うん、あの人はいい人だ。」

と、言った。

「さっき、みなみが頭を下げていたろう?

俺もいつも同じようにしてる。」

そのときの様子が目に浮かぶ。

「あの人だけじゃないよ。

ここの介護士さん達は、みんないい人だよ。」

「そうか。」

それを聞いて安心した。

ともちゃんの頬に、再び触れる。

その頬は、ひんやりしていた。

「幸が来たとき、この体はまだ生きていたんでしょう?

厳密に言えば、今も生きてるんだけどさ。

幸の言う事から考えたら、

脳死するほど重大な怪我じゃなかったように思えたけど。」

ともちゃんは、自分の体に視線を落とした。

「この体は、まだ生きていたかったと思う。

でも、魂が、俺が、戻らなかったから、

脳が生きていくことを諦めた。

脳が死んだんだ。」

ともちゃんは、そこでいったん言葉を切った。

「体も一緒に逝くはずだったけど、生かされてる。」

ともちゃんは、生命を繋いでいる機械を見た。

規則正しい呼吸音が、一際大きく聞こえた気がした。

「みなみは。」

そう言って、ともちゃんは再び言葉を切る。

その続きがなかなか出てこないので、

魂のともちゃんの方を見ると、

「痛くなかったのか?」

と、迷いながらともちゃんが、その質問を口にした。

目を閉じて、そのときの事を考えてみるが、やっぱり、

「覚えてない。

気がついたら、車の外にいた。

いつの間に外に出たのか、全然わからなかったよ。」

私は、あのときのことを話し始めた。

ともちゃんは、黙って聞いている。

「事故だ!って人が集まってきたけど、

みんな、私を素通りしていった。

まるで、私が見えてないみたいだった。

前後のことは、全然覚えて無くて、

やっと目の前の拉げた車が、うちの車だって理解して、

窓から中を覗いたら、壊れた自分の体が、そこにあった。」

ともちゃんは、眉を顰めた。

「見たのか。」

「見たよ。」

「即死だった、のか。」

私は、うん、と頷いた。

「あれで生きてたら、化けものだね。」

「ごめん。余計なこと、訊いた。」

ともちゃんは、悲しそうに言った。

「全然。

ともちゃんの方が痛かったと思うよ。

集まってきた人達が、助けてくれたんだよ。」

ともちゃんは、少し悲しそうな顔をした。

「ずっとみなみのことを考えてた。

事故にあう前も、みなみが死んでしまうなんていやだ、と。

もう一緒にいられなくなるなんて、耐えられない、と。

繰り返し考えてた。」

そこで、ともちゃんは黙った。

「だから、横から車が突っ込んでくるのに気がつかなかった。

いつもなら、もっと気をつけてるのに。

挙動が怪しい車だったら、すぐ気がつくのに。」

強く握った両手が震えているのに気がついた。

私は、その手をぎゅっと握った。

ともちゃんの目から、涙が零れた。

「でも、もしあのとき、あの事故がなかったら、

確実に俺は一人ぼっちになってた。」

涙が頬を伝う。

「大丈夫だよ。

もう、ずっと一緒だよ。」

うん、と子供のように泣きながらともちゃんは頷く。

「どんなに時間がかかっても、幸と一緒に待ってるからね。」

うん、と再びともちゃんが頷く。

「裏の山の、階段の一番上で待ってるからね。」

うん、と、ともちゃんが頷いた。


目を上げて見た窓の外は、とても穏やかだった。

他の病室からも、同じ景色が見えているはずだ。

ベッドから、どんな気持ちでこの景色を見ているのだろう。

大部分の人が、家へ帰りたいと願っていると思う。

指折り帰れる日を待つのだろうか。

それとも、もう帰れないのをわかっていて、

自分の運命を呪っているのだろうか。

「私ね。」

ともちゃんが、赤い目のまま私を見る。

「行ったの、霊安室。」

ともちゃんは、一瞬何のことかわからないようだったが、

すぐに驚いたように目を見開いた。

「お線香のニオイがすごかった。

誰もいなかったから、掛けられてた布をめくって、

自分の体を見たんだ。」

「見た。」

ともちゃんは、私の言葉を繰り返す。

「うん。見た。」

ともちゃんは、何も言わず、それでも、私から目をそらさなかった。

「綺麗だったよ。

綺麗に処理されてた。」

まるで他人事のように、その言葉が出た。

にもかかわらず、

「もう、還るんだなぁって、思った。

ずっと一緒にいた体と、お別れなんだなぁって。」

そう言うと、急に目から涙が零れた。

あのときのことを改めて思い出すと、とても悲しくなった。

今頃、こんなに悲しくなるなんて思ってもみなかった。

ともちゃんは、私を引き寄せた。

私は、その胸に額をつけた。

「もっと、生きてたかったな。

もっと、ともちゃんと幸と、一緒にいたかった。

そして、みんなで色んな所へ行きたかった。」

涙が溢れては零れていった。

ともちゃんも泣いていた。

二人で悲しい映画を観たときのように、声もなく泣いた。

「大丈夫だよ。

時間はかかるかもしれないけど、

また二人と一匹で、一緒にいられるから。」

今度は私が「うん。」と頷いた。

窓からの光が、とても暖かかった。

「ともちゃんと幸がいてくれればよかった。

他には、誰がいなくてもよかったんだ。

だけど、幸が、ともちゃんと私の傍から、いなくなった。」

大きな大きな穴が、あいたようだった。


「変性性脊椎症だと思います。」

あの日、

一番聞きたくなかった病名を、

私は医師から直接告げられたのだった。








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