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幸湖日記  作者: 炎華
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34.お義母さん

病院の重たいガラスドアを押すと、左側に大きな鏡があった。

当たり前だが、私の姿は映ってはいない。

後ろに、私より頭一つ高い男の人が立った。

その人の顔の部分の色が変わって、数字が示される。

36.5。

この鏡で、体温を測っているのだ。


ドアを開けて入って来た人々は、皆、消毒薬の入った容器に手をかざして、

アルコールが吹き付けられるのを待っている。

手のひらにアルコールを受けると、

手全体に広げるようにしながら、去って行く。

指先をちゃんと消毒した方が、と思ったら、

それはもうお節介なのだろう。


鏡が途切れた所には、料金を払うための待合室へ向かう入口があって、

通りすがりに覗くと、一人が一つに座れるように区切られた椅子が、

こちら側に背中を向けて、整然と並べられていた。


真っ直ぐ進むと、また入口があり、手前の右側に案内窓口があって、

若いお姉さんが、座っていた。

その前を通り過ぎると、左右に繋がる広い廊下に突き当たった。

その廊下の壁には、椅子がびっしり並べられていて、

ぽつりぽつりと人が座っていた。


  さて、ともちゃんはどこにいるんだろう。


あの日来たときとは違う部屋に移されたはずだ。

右を見てから、左を見ると、

少し離れた椅子に、お義母さんが、一人ぽつんと座っていた。

膝に小さなリュックを置き、そっと抱くように手で支えている。

相変わらず、青い顔をして、目元の隈は消えていなかった。

ちゃんと寝られても、食べてもいないのだろう。

俯いて、じっと床を見つめている。

「お義母さん・・」

呼ぼうとして、慌てて止めた。

話しかけても、聞こえないだろう。

ブースターのお義父さんはいない。

聞こえたとしても、何て言えばいいのかわからない。

後ろ髪を引かれる思いで、その場を離れた。

ともちゃんの気配を辿りながら、病室を捜す。

三階の左側の方だ。

角を曲がると、病室のドアがずっと先の方まで続いていた。

一つ目のドア。

ここじゃない。

二つ目。

ここも、違う。

そうして、だいぶ端まで来たとき、

ともちゃんの気配を強く感じるドアがあった。


  ここだ。


ドアを開けることなく、中に入る。

白い布のついたてが目の前にあって、

通り越して中を見ると、

短い白衣の男性が、ともちゃんの横で何かの作業をしていた。


  あ・・


思わず声が出た。

男性は、ともちゃんのオムツを替えていたのだった。

無駄のない動きで、ともちゃんの下半身を綺麗に拭き取ると、

綺麗なオムツを、装着した。

嫌な顔一つせず、全て終えると、

最後に少し悲しそうにともちゃんを見てから、

私の横を通って、病室を出て行った。

私は、その男性に頭を下げた。


  だから、お義母さんはあそこにいたんだ。


そんなことを考えていると、後ろから誰かに抱きすくめられた。

「ともちゃん。」

「よかった。まだいてくれたんだ。よかった。」

ともちゃんの腕に、私の両手を絡ませる。

「いるよ。大丈夫。待ってるって言ったよ。」

うん、うん、と、ともちゃんは掠れた声で頷いた。

「幸もいるよ。一緒に待ってる。」

「うん。」

と、掠れ声が再び頷いた。


  -お義母さん。


さっき廊下で見かけたお義母さんの横顔が、急に頭に浮かんだ。

青い顔、青黒い目の下の隈、

何も見てない目、リュックを抱いた細い腕。


  -お義母さん。


ともちゃんがトラブルを起こしたとき、

お義母さんは、私のことをひどく心配してくれていた。

遠くから、わざわざ新幹線に乗って来てくれて、

何も食べられなくなった私のために、

色々料理をしてくれた。

少しでも何か食べられるようにと。

お義母さんは、私の話を黙って聞いてくれた。

決して批判することなく、責めることなく、

ただ、聞いてくれた。

頷きながら、時折考えながら。

批判され、責められて育った私には、とてもありがたいことだった。

あのとき、お義母さんだけが、私の味方だった。

私の、味方だった。

お義母さんは、仕事があったので、

ずっと私のそばにいるわけにはいかなかった。

それでも、休みをもらうと、すぐに飛んで来てくれた。

幸に話したたとえ話で言うと、

可能な限り、がむしゃらに泳ぐ私の横を、ボートで併走してくれていたのだ。


なのに。

私はともちゃんを連れて逝こうとしている。

お義母さんから、大切な一人息子を奪おうとしている。


「俺。」

私の首に腕をまわしたまま、ともちゃんが言う。

「俺、親を二人とも送って、みなみを送って、たった独りになると思ってた。

そして、独りで、死ぬんだと思ってた。

そういう覚悟はできてた。

できてたけど、仕事で老人ホームとか、行くと、」

ともちゃんの声は震え、再び掠れ声になった。

「孤独な年寄りがいっぱい、いて、ああ、俺も、こうなるのかと、思ったら」

掠れ声に嗚咽が混じる。

ともちゃんの腕に、力がこもる。

私も絡ませた両手に力をこめる。

大丈夫だよ、大丈夫だよ、という気持ちと共に。

「覚悟は、できてたのに、やっぱり、そう思うと、つらくて」

うんうんと頷きながら、ともちゃんの腕を抱きしめた。

ともちゃんは、私の頭頂部に、自分の額を押しつけて、

しばらくの間、声を殺して泣いていた。

時折、嗚咽が聞こえ、鼻を啜る音が混じる。

鼻を少し強く啜りながら、顔をあげると、

「でも、それはもう無くなった。

俺は、みなみと幸と一緒に逝けるから。」

うん、と頷いた。

だが、心は重かった。


  -お義母さん


「その思いを、今度は、親父かお袋が背負うことになる。」


  親父か、・・お袋。


幸子さんの話からすると、

お義父さんに我々、死んだ者の声が聞こえるということは、

もう命がないということだ。

お義父さんはには心臓の持病がある。

何年か前には、手術もしている。

だから、一番最後に残るのは。


「みなみ、お願いがある。」

まわした腕をするりと抜くと、そのまま私を自分の方に向かせる。

そして、ともちゃんは、真剣な顔で言った。

「もう少し、待っててくれるか?」


せめて、

ともちゃんの形がなくなってしまっても、生きていけるようになるまで。


「うん。いいよ。待ってる。」

私は頷いた。

「ありがとう。」

ともちゃんは、ほっとしたように、

そして少し悲しげに微笑んだ。



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