18.大丈夫だよ
「行こうか。」
うさぎはそう言って、麓の町に背を向けた。
元の道に戻ると、すぐにまた、斜面からの木々が覆って、
向こうの風景は遮られた。
その代わり、道の先には、まだ頭の白い富士山の姿があった。
「ああ、久しぶりに見た。ここからの富士山。」
あの雄大な裾野は見えず、頭だけしか見えないが、
富士山は、とても綺麗だった。
次の人道橋が、幸とうさぎの折り返し地点だった。
人道橋に着くと、どちらともなく、今来た道を再び歩き出す。
ふと、土筆が顔を出しているのをみつけて、
うさぎは思い出した。
まだ生きているとき、今のように土筆を見つけて、
その写真を、仕事中のともちゃんに送ったことがあった。
しかし、写真に写っていたのは、土筆の頭半分だけで、
ほとんどが柵の土台のコンクリートだった。
土筆はすぐにスギナになってしまうので、
なかなかその姿を見ることは出来ず、
「土筆、全然見ないんだよ、スギナは沢山生えてるけど。」
という話を、ともちゃんにしたばかりだったので、
見つけた嬉しさが先に立って、
写真の出来を確認せず、送ってしまったのだった。
「どこに写ってる?」
という返事に、改めて確認したところ、
主役は、下の方にこそっと写っているだけということに、
初めて気がついたのだった。
その夜、仕事から帰ってきたともちゃんと大笑いした。
うさぎは、寂しくなった。
そして、悲しくなった。
だが、幸の視線を感じて、泣き出しそうになるのをぐっとこらえた。
「まま。」
心配そうに幸が呼ぶ。
「大丈夫だよ。」
うさぎはなるべく自然に聞こえるように応えた。
「大丈夫だよ。」
ままは、幸が不安なとき、よくそう言った。
幸が興奮して吠えてるときも、
「大丈夫だよ。ままがいるよ。」
そう言った。
その言葉を聞くと、
「大丈夫なんだ。」
と安心できた。
でも、ままが自分の事をそう言うとき、
全然大丈夫じゃないことを、形がなくなってから知った。
ともちゃんが、仕事に行ってしまうと、一人になった。
いつも一緒にいた幸は、もういなかった。
しばらくの間、幸のいた所は、そのままにしておいた。
そのせいか、どこを見ても幸を思い出した。
いっそのこと、全部片付けてしまえばいいのだが、
そうしてしまうと、今度は幸が本当にいなくなってしまうようで、
思い出の中からもいなくなってしまいそうで、怖かった。
窓際の座布団の上で、外を見ていた幸。
足下で、眠る幸。
玄関の窓の下で、ともちゃんを待つ幸。
じっと見上げる目。
もふもふの体。
もうどこにもいないとわかっていても、
無意識に幸を探す自分がいた。
悲しくて、寂しくて、壁を背に、膝を抱えて泣いた。
幸がいないことが、辛くて、いつまでも泣いていた。
ともちゃんがいるときは、なんとか耐えられた。
でも、一人になると、だめだった。
あの日も、膝を抱えて、ぼんやりしていた。
幸のことはなるべく考えないようにしていた。
それでも、涙が溢れた。
膝に乗せた腕を、前にゆっくり突き出したとき、
手のひらに、ふわっとした感触があった。
まるで、幸の頭に触れたときのような。
慌てて手を引っ込めた。
幸?
いや、そんなこと、あるはずがない。
幸は、もういないんだ。
でも。
その感触が現実だったのか幻だったのかを確かめようと、
再び手を伸ばそうとしたとき、
一瞬、腕にふわっと何かが触れた。
今度は気のせいではなかった。
幸!幸がいる!
傍にいる!
周りを見回した。
何も見えるはずはなかった。
姿は見えないけど、いるんだ。
傍にいてくれるんだ。
なら、いつまでも泣いているわけにはいかない。
幸に心配をかけてしまうから。
それから、小さな気配にも、気を付けるようになった。
すると、色々なことに気がついた。
時折、幸が歩くときにたてた畳に爪のあたる音が、微かに聞こえてきたり、
幸のお気に入りだった場所の座布団の上に敷いたシーツが凹んでいたりすることに。
ままのお父さんとお母さんが、ままの傍にいたから、
幸は、ずっとぱぱについて行ってたの。
でもね、思ったんだ。
ままが一人のとき、どうしてるんだろうって。
おじいちゃんとおばあちゃんは、
ままを見守ることしか出来ないって、言ってたから。
だから、ままはどうしてるんだろうって。
ぱぱにも、ぱぱに似た人が後ろについていて、
「大丈夫だよ。私がついてるから。」
って幸の頭を撫でながら言ってくれたから、
あの日はおうちに残ったの。
いつも通りにぱぱを見送った後も、
ままは普段通りに、テーブルの、パソコンの前に座って作業してるから、
「ああ、ままももう大丈夫なんだ。
幸の姿がなくなっても、ちゃんと生活できてるんだ。」
って、寂しかったけど、安心したの。
でも、ままは急に立ち上がって、
壁を背にして、座り込んじゃった。
しばらく膝を抱えたまま、どこかを見てたけど、
目から涙が溢れてきて、とうとう膝に顔を埋めてしまった。
そのとき、わかったの。
ずっと、忘れてたのかもしれない。
ままの、あれは、悲しくて泣いてるんだってこと。
何か悲しいことがあって、泣いてるんだって。
それがわかっても、どうしたらいいのかわからなくて、
ままの周りをうろうろ歩き回っていた。
ままが何か言ってるのに気がついたのは、
だいぶ経ってからだった。
「幸、いない。」
「いるよ!」
思わず叫んでた。
ままには聞こえないのに。
「いるよ!ここにいるよ!
だから!だから泣かないで!」
ままはゆっくり顔をあげると、
腕を膝に乗せたんだ。
そして、ゆっくり前に突き出した。
その手のひらが、幸の頭に触れたとき、
ままは慌てて手を引っ込めた。
ままは、自分の手のひらを見てから、幸の方を見た。
でも、幸の姿は見えていないようだった。
「いるんだよ、ちゃんとままの傍に。」
そう言いながら、ままの腕に顎を乗せたんだ。
ほんの一瞬だったけど、ままの温もりを感じた。
だから、きっとままにも幸の温もりが伝わった。
その証拠に、ままは辺りを見回してる。
「幸!幸!」
って呼んでる。
ままが幸にいつも言ってくれたように、
今度は幸がままに言った。
「いるよ。ままの傍に。幸、いるよ。
だから、大丈夫だよ。」




