17.散歩の道
幸より早く走ることができて、
うさぎはかなりご満悦だった。
「さあ、いくよ!」
負けて悔しそうな幸を尻目に、
くるりと向きをかえて、さっさと歩き出す。
階段から続く真っ直ぐな道は、
今でこそ、二人の人間がすれ違えるほどの幅があるが、
雑草に覆われてしまうと、人一人が歩くのがやっとの獣道と化す。
その道が、今や満開の桜で覆われていた。
現世(生者の世界)では、この道の脇に桜の樹は一本もない。
これは私の希望を反映しているそうだ。
まだ散る時期ではないのに、桜の花びらがはらはらと舞っている。
この道を通って、私の、うさぎの両親は、あの世へと還っていったという。
「ありがとね。」
振り返ることなく、後ろをついてくるはずの幸に言う。
「なにが?」
人間のときは自分より早く走れなかったうさぎに対して、
悔しさを滲ませた、突っ慳貪な声が後を追ってきた。
「お父さん達を見送ってくれて。」
一瞬の沈黙。
「うん。」
コーギーとうさぎは、それ以上何も言わず、
花びらの舞う道を歩いていった。
さくさくと草を踏む音だけが、お互いの耳に聞こえていた。
道の突き当たりは、コンクリートでできた柵だった。
T字路になっていて、右と左に行けるようになっているが、
右への道は、大きな木々が上に被さっていて、
夏はとても涼しくていいのだが、
途中、歩くのには大変な坂になっている上に、
更に狭く、堅い土の道となり、
常に日影ということもあって、土が乾くことなくつるつる滑るため、
幸との散歩にはあまり使ったことはない。
行ったとしても、坂の手前で引き返してきていた。
なので、突き当たりを、何の迷いもなく左に曲がる。
左の道も、今来た道と同じく舗装されておらず、
夏が来ると、全面が草に覆われてしまう。
道幅は少し広くなっていて、車が一台通れる位はあった。
コンクリートの柵の向こうは、大きな溝になっていて、
その溝の底には、電車が走る線路があった。
溝に沿って少し歩くと、人がやっとすれ違えるくらいの人道橋があって、
向こう側に渡れるようになっている。
幸とうさぎのいる手前側は、山の斜面から続く木々と畑しかないが、
向こう側には立派な住宅街があった。
お義母さんは、この人道橋を渡って、自分の家に帰っていった。
ともちゃんの両親が住む家は、
元は私の両親が住んでいた家だった。
両親が亡くなったとき、
遺言書を書いておいてよかったな。
不幸中の幸い、か。
住宅街に至る人道橋を見ながら、思った。
死んでからも、俗世間的だよ、考えが。
気がつくと、幸はうさぎを追い越して、もうだいぶ先を歩いていた。
少し繁ってきた草に足を取られながら、慌ててその後を追う。
線路を挟んだ向こう側の住宅街の道は舗装され、
車も自然に通れるが、
こちら側は、砂利が多く混ざった土の道で、右側には線路の溝、
左側は畑と、その向こうに山の斜面から続く木々が見えるだけだった。
勿論、この山を降りれば、麓は住宅街で、車もひっきりなしに走っているのだが。
ともちゃんは、幸の散歩のときは、
もっぱらこの山とは反対側の、道路を渡った川縁を歩いていたようだった。
私は、あの車通りの多い道路を、幸を連れて横切る勇気がなかったので、
この山を登った。
先程の人道橋と、この先にある踏切を渡らなければ、
ほとんど人に会うこともない。
時折、畑の持ち主に会うくらいだ。
ずっと続いていた畑が途切れた先には、梅林があった。
二月、白い梅の花が咲き、甘い香りで満たされる。
毎日、蕾が膨らんできたのを見、花が何輪咲いたかを数え、
そして満開になったと、見とれたものだった。
幸は何故か、この中に入って行きたがったが、
下草が長く、何が生息しているのかわからないので、
入ろうとする度に、慌ててリードを引っ張った。
アオダイショウが、この先の家の軒先で、
とぐろを巻いて昼寝しているのを見たし、
うちの庭の縁台の下から、蝮が這って出ていくのも見たことがある。
あのときは驚いた。
いつもなら躊躇なく縁台から庭へ降りるのだが、
何か変な感じがして、一度開けた窓を閉めて、庭を見ていた。
すると、蝮が真下から這い出してきのだった。
それよりも何より、梅林は他人様の土地なのだ。
畑もそうだが、犬とはいえ、無断で進入することを許されるわけがない。
梅林を過ぎると、数軒の家が建つ所へ出る。
その脇を通る麓へ繋がる道は舗装され、
いつの間にか溝から這い出て同じ高さになった線路を横切る踏切へと続く。
唯一、車が上ってこられる道だが、
勾配がきつく、二台がすれ違うことができない道幅だった。
生きているとき、幸と私は、突然姿を現す車に注意しながら、
その道を足早に横切った。
勿論今は、そんな注意をする必要もなかった。
車は我々を通り抜けて、行くだろう。
踏切を過ぎると、線路は再び溝に没していく。
並ぶ家々の裏手を通り過ぎると、突然視界が開ける。
山の斜面の木々が左側に後退し、先程の畑より、ずっと広い畑に出る。
砂利の混ざった道から土だけの道へと変わるが、草ボウボウは変わらなかった。
時々、手入れがしてあって、とても歩きやすいときもあった。
幸は、走ったり、ニオイを嗅いだり、道の草を食べるときもあった。
ともちゃんは、幸をぴったり横に従えて、
私の様な散歩の仕方はしなかったが、私は、幸の自由にさせていた。
「それだからなめられるんだ。」
と、よく言われたものだった。
だめだろうなとも思ってはいたが、
幸との散歩は、その自由さが楽しかった。
幸は何故か、畑の方へ畑の方へと歩いて行く。
「畑は入っちゃだめ。そこは『うち』じゃないから。」
と言ってリードを引くと、素直にこちらに来るが、
またすぐに畑の方へ行こうとする。
「だってさ、いい匂いがしてたんだもん。」
と、幸は言った。
「ええ?肥料が撒いてあって、
やたら臭かったときもおかまいなしだったじゃん。」
と、眉間に皺を寄せて言うと、
「くさい?くさいって何?」
真面目な顔で幸が訊ねた。
「くさいって、知らないの?」
そうか。
犬は、臭い物を体につけようとするからなぁ・・・
乾燥したミミズの上に転がったり・・
「ねぇねぇ、くさいって何?」
無邪気に幸が訊く。
「うーん。例えば、幸のうんちのニオイとかだよ。」
幸は驚いたように
「あれ、くさいの?」
「人間にとっては、くさいの。」
「ええ~」
納得がいかないようだった。
「あれ、くさくないよ。
まま達、人間の方が変なんだよ。」
なんですとー!
いや、でも、「くさい」の意味はなんとなくわかったようだった。
幸も犬以外のものに生まれたことはあるだろうに。
まだ『あの世』に逝ってないので、思い出せないのだろうか。
畑が途切れると同時に、山の斜面の木々も途切れた。
うさぎは、歩いて来た道を外れ、畑と畑の間にできた道を進んだ。
突き当たりに立つと、麓の町を見下ろすことができる。
町の向こう側には、ここと同じ位の高さの山が、更に先への視界を遮っていた。
それでも、眺望は最高だった。
「ここは、相変わらず見晴らしがいいね。」
すぐ下には、小学校の校舎が見える。
校庭は、校舎に遮られて、全部は見えない。
授業中なのか、校庭に出ている子供達はいないようだった。
春休みだ。
うさぎは心の中で呟く。
小学校の周りを様々な色と形の屋根が取り囲んでいる。
かと思うと、その向こうは、濃い灰色の同じような形の屋根が並んでいた。
うさぎの来た頃、あの新しい住宅街は低い丘だった。
草がボウボウに生えていた丘は、沢山の綺麗な家に変わっている。
住宅街の向こうの山の上には、マンションだろう、高い建物がいくつか見えていた。
その建物の左側は、自然のままの広い公園で、
クローバーで覆われた広場があるので、
幸を連れて、ともちゃんとよく行っていた。
幸は、クローバーに半分埋もれながら、走り回っていた。
幸はとても嬉しそうだったが、
リードを持って一緒に走り回る我々には、少々厳しいものがあった。
その広場を囲むように生えた木々が、ここからは林のようになって見えていた。
この山の麓からの広い道路が、向こうの山まで真っ直ぐに進んで、
突き当たる前にぐーっとカーブしている。
新しい家々の屋根が、道路に沿って規則正しく並んでいるので、
道路が見えなくても、その位置を把握することができた。
「幸。」
景色から、目をそらさずに幸を呼ぶ。
「何?」
「ぱぱさ、来ると思う?」
「来るよ!絶対来る!」
幸は力をこめて応える。
「まだそんなこと考えてるの?」とでも言いたげだ。
「そうだね。
じゃあさ、人間の姿で、来ると思う?」
幸は首をひねる。
「ぱぱ、だからなぁ。
人間のままでくるかな。」
考え考え、幸が応える。
「ままはね、ぱぱは人間のままで来ないと思うよ。」
幸が私の方を振り向いた。
「ぱぱは、猫科の動物になってくると思う。」
ええ~?と不満げな幸の声を横に聞きながら、
うさぎは、町の風景から目をそらさずにいた。




