16.あの日
幸は、フォレストパパの記憶はほとんどない。
というか、全くない。
ブリーダーさんの所で産まれたので、パパはもういなかったし、
ハートママと三匹の兄姉の記憶が、微かに残っているだけだ。
ハートママは、生前、繁殖犬としての犬生が嫌だったらしく、
なかなか生まれ変わる決心がつかなかったそうだ。
もちろん、劣悪な扱われ方をされたわけではないけれど、
なんだかよくわからないまま、妊娠して、子犬を産んで、
そのときが来ると、子犬たちは皆取り上げられて、
また、妊娠して、子犬を産んで、育ててる途中で皆いなくなって。
そして、そのまま歳をとって犬生が終わったのが、
すごく無駄だったと思ったそうだ。
「犬には、もうなりたくないなぁ。」
と、ハートママは言った。
会いに行ったとき、今度は何に生まれ変わるのかは訊けなかった。
「今度はちゃんと大きくなるまで、育てられそうだよ。」
と、言って地上に降りていくのを見送った。
何に生まれ変わるのかなぁと思いながら、ぱぱとままの所に帰ろうとしたとき、
ままの傍にいるはずの、おじいちゃんとおばあちゃんが、幸を迎えに来てくれていて、
みなみままの人生が終わったことを、そのとき告げられた。
「嘘だ!」
おじいちゃん達が止めたけど、
幸はその腕をすり抜けて、走った。
「嘘だ!そんなの嘘だ!だって、幸がぱぱとままの傍を離れる寸前まで、
二人は喋ったり、朝ご飯食べたりしてて。ちゃんと生きてて。
だからだから!」
嘘だ!嘘だ!と叫びながら、走った。
全速力で走った。
事故のあった場所は、おうちのすぐ近くだった。
もう、ぱぱ達の姿はなかったけど、左側が奇妙にめり込んだ車はまだそこにあった。
見覚えのある、ぱぱの黒い車だった。
ままはいつも左側に座っていた。
激しくめり込んだ左側に。
ボンネットに飛び乗って、おそるおそる窓から中を覗くと、
水がいっぱい入った風船を、ぱんっとわったときのように、
車の中は、そこらじゅうが赤かった。
もう、真っ赤ではなく、黒ずんできていたが。
もう、嘘じゃないことはわかった。
「まま。・・・まま、死んだ・・・」
まま、痛かったね。
こんなに血が出て。
「まま。」
ままの笑顔が浮かんでくる。
「幸、いい子だね。幸、大好きだよ。」
ままの声が、耳の中に聞こえてくる。
「まま。」
そのとき、気がついた。
魂は?ままの魂はどこへいったの?
もう、あの世に逝ってしまった?
「ままは、智ちゃんの所に行ってるよ。」
いつの間にか後ろにおじいちゃんとおばあちゃんが立っていた。
「ぱぱのところ?」
おじいちゃんは頷く。
「おじいちゃん!ぱぱは?ぱぱはどうしたの?」
おじいちゃんは困ったような悲しいような顔をすると、
「病院にいるよ。」
脱兎のごとく走り出そうとする幸を、おじいちゃんは今度は捕まえた。
なんとか逃れようとする幸を、ぎゅっと捕まえたままおじいちゃんは言った。
「幸、この世にお別れをしたままを、あそこで待っててやっておくれ。」
その指は、いつもままと幸が散歩した裏山の、上の方を指していた。
おばあちゃんが、幸の頭を撫でながら言った。
「誰も待っててくれる人がいなかったら、ままが悲しむからね。
だから、幸が待っていてあげて。」
「もうすぐ、ままはあそこに向かうから。」
真剣におじいちゃんが言う。
ぱぱの所に行きたい。
でも。
ままが一人で川を渡る姿が目に浮かぶ。
まま。
泣き虫のまま。
膝を抱えて、よく泣いていたまま。
生きていたときは、あれが『悲しくて泣いている』とはわからなかった。
でも、今はわかる。
ままは、よく泣いてた。
「・・・わかった。
幸が、あそこでままを待ってるよ。」
おじいちゃんとおばあちゃんは、ほっとした顔を見せて言った。
「ありがとう。お願いするよ。」
急いで、山の上に戻ったが、ままはなかなか来なかった。
時間の流れが違うのだ、と、おじいちゃんが言った。
「忘れてた。」
おじいちゃんは真面目な顔で言う。
もぉ~
焦って損したよ。
ずっと見てきた階段が、いつの間にか桜の樹に覆われていた。
ままの心の中の景色なのだと、おばあちゃんが言った。
ままを迎える準備なのだと。
ままは、桜が好きだっけ。
お庭にも、桜の樹があって。
さわさわ。
階段の突き当たりは、現世の風景が広がっている。
桜で覆われた景色。
ふと、あのときのおばあちゃんの言葉が浮かぶ。
『何かあったら、あったまで。』
あの言葉の意味すること。
「おじいちゃん、おばあちゃん。」
改まって呼ぶ幸の声に、おじいちゃんとおばあちゃんが、同時に幸を見る。
「二人は、知ってたんだ?ままが死ぬこと。」
二人は顔を見合わせる。
さわさわと桜の樹が揺れる。
おじいちゃんとおばあちゃんが、あの世に向かった後、
さわさわと揺れる桜の葉の触れあう音を聞きながら、
階段の突き当たりをじっと見ていた。
階段の突き当たりは、右に直角に曲がっている。
あそこを、ままは登ってくる。
「幸!」って驚くかな。
頭を撫でてくれるかな。
抱っこしてくれるかな。
幸が歩けなくなったとき、ままはいつも抱っこしてお外に連れて行ってくれたから。
また、抱っこしたまま「幸、大好きだよ。」って言ってくれるかな。
桜の樹の枝が大きく揺れた。
そのとき、何かが突き当たりの右側に現れた。
「うさぎ?」
茶色の小さなうさぎが、息を切らせて、
それでも階段を、精一杯走って登ってくる。
まさか、あれが?
うさぎが一段登る度、登り終えた段は、
どこかから湧いてくる水で満たされていく。
水に追われているようだが、そうではない。
うさぎをもう現世には還さないという仕組みなのだろう。
もし今、そこでうさぎが止まれば、水の浸食も止まるだろう。
うさぎが半分まで登ってきたとき、
幸の目の前にも水が湧いてきて、あっという間に池のようになった。
『川』というか、まさに『池』だった。
幸の立っている所は、階段の一番上なのだが、
いつの間にか、水で満たされていて、
幸は地面に打ち込んである切り株の上に立っていた。
正確に言うと、前足は切り株の上にあるのだが、
後ろ足は、水の上の空中に浮かんでいた。
切り株と切り株の間から、ちょろちょろと水が流れている。
水は透き通っているのだが、底は見えなかった。
もしかしたら、底はないのかもしれない。
桜の花びらが、いくつか浮かんでいる。
水から前へ目を移すと、見えるはずの階段とままの姿が見えなくなっている。
幸のいるところが後退したのか、
水の向こう側がせり上がったのかはわからない。
水で隔たれた向こう側にも、幸が立っているのと同じ切り株ができていた。
姿が見えなくても、その足音は幸の耳に聞こえている。
その音がだんだん大きくなってくる。
茶色いうさぎは、階段の一番上まで来ると、脚を止めた。
目の前に、水。
川?これ、三途の川?
川っていうより、池?
困惑して目を上げると、じっとうさぎをみつめる子犬に気がついた。
あれ、あれは。
初めて抱き上げたその子は、思ったより重かった。
温かくて、小さくて、私の口元のニオイを嗅いだ。
そして、安心したように頭を預けてきた。
「さっ、ちゃん?」
信じられない、という目をして、うさぎは幸を見つめる。
「まま!」
橋を、造らなきゃ。川を渡る橋を。
そう思った途端、桜の花びらが集まって、橋の形に積み重なっていった。
ほっとしたら急に、うさぎになってしまったままに怒りがわいてきた。
ずっと会いたかったのに。
ずっと頭なでなでして欲しかったのに。
「ずっと会いたかったんだよ!でも、なんでうさぎなのっ!」
怒りをこめて言ったつもりが、
ほっとして、それでも悲しくて、実際にはもっと弱々しくなってしまっていた。
ままは、幸の造った花びらの橋を何の躊躇いもなく渡り、こちら側にきた。
生きているときと同じように、幸をなでなでしようとして、
頭に手が届かないことに気がついて、幸の顔に頭を預けてきた。
柔らかかった。
もふもふだった。
顔に当たった耳が、少しくすぐったかった。
まま。
形がなくなってからも、見てた。
「まま」って呼んでも、幸を見てくれることはなかった。
触ることもできなかった。
まま。
やっと、触れた。
やっと、幸を見てくれた。
・・やっと、会えた。
まま。




