15.懐かしい風景
家を出るとき、庭の染井吉野の蕾はかなり膨らんでいた。
今日あたり、いくつか咲くかもと思いながら、車に乗り込んだ。
でも、ちゃんと帰っては来られなかった。
今、魂だけになって、この縁台に座っている。
空を見上げると、変わらない青い空があった。
少しくすんだ青だ。
春の空だ。
ここに着いたとき、閉まったカーテンの隙間から部屋の中を覗いた。
あの日、ともちゃんと出掛けた、『そのまま』だった。
二つ並んだ椅子の背に掛けられた部屋着。
大きめのテーブルの上のディスプレイ。
大量の本。
ドールやフィギュアが飾られた棚。
ゲームのポスター。
リズム時計。
キッチンの台の上には、
慌てて飲み干して置いたままの赤と黒のコーヒーカップがあった。
あの日の、そう、あの日のままだった。
中には、入れなかった。
その場で向きをかえ、縁台に腰掛けた。
目の前に、染井吉野の樹があった。
満開ではなかったが、花は咲いていた。
ふわふわと風に揺れている。
ともちゃんと幸と、あのコーヒーカップを片手に、
ここでお花見をした。
あれは、いつだった?
そんなに遠い日じゃなかったはず。
再び、空に目を移す。
幸は、ともちゃんに会えただろうか。
少しずつ形をかえる雲を、ぼんやり眺める。
考えてみると、まだやりたいことは沢山あった。
やっと追われる何かから、抜け出せたばかりだった。
・・もっと、生きていたかった。
もう、遅いけどね。
どれくらいそうやって空を見ていたのだろう。
目の隅に、幸が柵をすり抜けて、この庭へ入ってくるのが見えた。
『目の隅』ではないか。
うさぎの視界は広いので、幸の姿はちゃんと捉えられていた。
そして、笑ってしまうことに、
あんなに目が悪かったのに、今はとてもはっきり世界が見える。
幸はそっと隣に座った。
何か、考えているようだった。
きっと、ぱぱのことだろう。
「家の中には入れなかったよ。」
そう言うと、幸はこちらを振り返る。
幸が来たのを、ちゃんとわかってたんだ、ということだろう。
そんなにぼーっとしているように見えたのかな。
それとも、ぱぱに何か言われたか。
「ままはいつも後ろ向きだから。」とか。
それとも・・・。
幸が話したことによると、
ともちゃんは、体との折り合いをつけるのに、
もう少し時間がかかる、ということだった。
もし、生きることを選んでも、下半身はもう動かない、と。
ともちゃんは、「必ず逝く」と、幸に言ったそうだ。
その言葉にほっとすると同時に、、
本当にそれでいいのだろうか、と思う気持ちが、頭をもたげてくる。
もし、体の意志が固くて、ともちゃんが生きることを選んだとしたら。
それを言い終わる前に、幸は、怒ったように言った。
「ぱぱは必ず来るって言った!」
うんうん、そうだね。
幸はともちゃんが育てた。
だから、ともちゃんの言うことは絶対だ。
人間の頃のように、幸の頭を撫でようとしたら、届かなかった。
ああ、うさぎだったと思い、届くところに手を置いてから撫でた。
まだ幸が生きてたときと同じ感触だった。
もふもふ、もふもふ。
・・・死んでからも、ともちゃんを束縛する権利が私にあるのだろうか。
まだ生きられる権利を、捨ててまで私と来る意味があるのか。
ともちゃんが生きることを選んでも、幸はともちゃんの傍にいると言う。
私もそうするだろう。
でも、ともちゃんに好きな女性ができたら、傍を離れよう。
ともちゃんが一人じゃなくなるのは、安心だが、、
それをずっと見守っていけるほど、私はできた人間ではない。
既に、人間ですらなくなってしまったが。
幸は、少し黙った後に言った。
「幸も、ままと一緒に逝くよ。
二匹で虹の橋を渡ろう。」
えっ?それでいいの?
だって、幸は。
いや、きっと幸は私の気持ちを汲んでくれたのだろう。
「うん。
・・・ありがとう。」
と、言ったそのとき、
突然後ろの出窓が開いて、お義母さんが立っていた。
幸も私も、そのまま昇天するかの勢いで驚いた。
思わず、
「お義母さん。」
と、言ってしまった後で、
お義母さんがなんとなくだが、気配を感じることに気がついて、
幸に手振りでもっと右側へ寄るように伝えた。
「ああ、今年も綺麗に咲いたねぇ。」
と、お義母さんは言って、私の横に座った。
幸と私は、息を詰めて、
既に息はしてないのだが、
お義母さんの様子をうかがった。
どうやら、幸と私の気配は感じていないようだ。
中を覗いたとき、お義母さんの姿は見えなかった。
他の部屋にいたのだろうか。
玄関の鍵を開けた音も聞こえなかった。
顔色が悪い。
真っ白だ。
ずっと寝てないのだろう、目の下に隈ができていて、
目も赤い。
・・・お義母さん。
「みなみちゃん。」
急に呼ばれて、再び飛び上がるほど驚いた。
「ともを助けて。
お願い、ともを連れていかないで。」
お義母さんは、両手に顔を埋め、声もたてずに泣きだした。
やるせない気持ちで、細く、震える肩を、ただ見つめるだけだった。
本当に、ともちゃんを連れていっていいのだろうか。
家に鍵を掛け、自分の家に帰るお義母さんの背中を見送りながら思う。
でも、ともちゃんの意志は・・
「まま。久しぶりにお散歩に行こうよ。」
幸の声に、気がついて顔をあげる。
また暗い気持ちに落ち込みそうだったところを、救い上げられた。
「行けるの?」
「行けるよ!」
私の問いに、幸は自慢げに応える。
ああ、そうだったね。
もう三途の川を渡ったので、どこにでも行けるんだ。
「わかったら、行くよ!」
幸は急に走り出す。
「ままをおいてくなあ!」
つられて私も走り出す。
『それはともちゃんが決めること。』
記憶の中のお父さんの声が言った。
うん。そうだね。
私は階段を駆け上がりながら、現世の世界を振り返った。
・・・ともちゃん、待ってるね。




