13.染井吉野-そめいよしの-
家の桜を見に行きたいと、ままは突然言い出した。
ぱぱとままと幸のおうちには、
庭に、植木鉢に植わった染井吉野という桜の樹があった。
ここに引っ越してきてすぐに、ままが植えたそうだ。
ままは本当は、おじいちゃんが、つまりままのお父さん、が自分のおうちを買ったとき、
染井吉野を植えたかったそうだ。
だが、そのおうちの庭はとても小さくて、
おまけに、南側には大きなマンションがあったので、
日当たりがとても悪かった。
おばあちゃん(ままのお母さん)は、お花が大好きだったが、
そんな場所で花を育てる気もしなかったようで、
家の中の、一番日当たりのいい東向きの部屋で、
サボテンだけを育てていた。
ままが、桜の樹を植えたいと言ったら、
「桜はすぐ大きくなるし、虫がつくからダメ。」
と植えさせてくれなかったという。
だから、自分の家ができたら、
『染井吉野』を植えるのが夢だった、と、ままは言った。
頼りないほど小さかった苗は、小さな庭のトタン屋根の少し上まで大きくなって、
毎年沢山花をつけていた。
ままが、洗濯物を干すときに、
その桜の真ん前の出窓から、足を滑らせて落ちたことがあるので、
ぱぱが、心配して、窓と同じ高さの縁台を置いていた。
桜の花が咲くと、幸も縁台に出て、二人と一匹でお花見をした。
庭の染井吉野は、他の場所より遅れて咲くのが常だった。
「家を出てくるとき、まだ蕾が膨らんだくらいだったから、
今日はもう咲いてる。」
と、ままは言った。
それじゃあ、幸は、ぱぱの様子を見てくると言って、
おうちの前で、ままと別れた。
ぱぱは、まだしばらくそちらには行けそうもない、と言った。
幸は、もうずっと二人の傍にいて、
二人を待っていたようなものだったから、
まだ大丈夫だけれど、それを聞いたときの、ままのことが心配だった。
なんて、伝えようと考え考えおうちの前まで来たとき、
縁台にぽつんと座っているままの姿が見えた。
染井吉野は、満開だった。
ままは見たいと言った桜を、見てはいなかった。
静かに空を見上げていた。
幸が横に座ったのにも、気がつかない様だった。
ご主人様がいなくなっても、今年も染井吉野は見事に咲いた。
誰も、見る人がいなくなっても、これからも毎年咲くのだろう。
植木鉢に植わっていても、根っこは、庭に張ったコンクリートを突き破り、
その下の土までいっていると、前にままが言っていた。
だから、水をやる人がいなくても、生きていけるのだと。
「家の中には入れなかったよ。」
ぽつりとままが言った。
幸が座ったのに、気がついてないわけじゃなかった。
「窓の外から中を見ただけで、なんだか辛くなっちゃった。
出て行った時のままだったよ。」
ままは桜に目を移す。
「前に、家を出たときは、緑の子達を置いていくのが辛かったけど、
今度は大丈夫。
お義母さんが、ちゃんと世話をしてくれるからね。」
幸には、何のことかわからなかったが、黙って聞いていた。
さわさわと風が染井吉野の枝を揺らす。
ひとひら、花びらが枝を離れていった。
「・・もっと、生きていたかった、な・・」
それを目で追いながら、ぽつりとままが言った。
「自分のために生きてきたはずなのに、
誰かの都合のいいように生きてしまった。
その方が、嫌だったけど、楽だったんだ。
誰かにそうしろと言われても、
嫌だと抗って生きることもできたのに。
そうしなかった。
本当は嫌だったのに、戦うことをしなかった。」
はぁ、とため息をつき、ままは今度は桜を見た。
「綺麗だね。
潔いね。
散るときは、さあっと散っていく。
いつまでも、いつまでも、うじうじしてる私とは大違い。」
ままは、寂しげに笑った。
ぱぱのことを伝えたら、もっと寂しそうに笑うだろう。
でも、伝えなきゃ。
「まま。」
「うん?どした?」
ままは、幸を見る。
いつも幸に訊いていた懐かしい言葉と共に。
「ぱぱね、ぱぱ。」
どう言おうか。
ままのがっかりする姿は見たくない。
見たくないけど。
「まだ少し時間がかかるって。」
「うん。」
予想に反して、ままは「わかってる」と言いたげに頷いた。
「ぱぱ、体の上に浮いてたよ。」
「そうなの?」
楽しげにままが言う。
「体が、まだ生きていたいって言うんだって。」
「そうなんだ。」
ままは、急に暗い顔になる。
「でも、ぱぱが生きるって決めたとしても、
もう下半身は動かなくなるんだって。」
「そうか。」
ままは、幸から目をそらし、桜の根元を見る。
桜の隣りの植木鉢には、幸と同じ位の高さの梅の木があった。
もう、花は終わって、葉っぱが出ている。
大きな染井吉野に比べ、その梅の木はとても小さかった。
「ままのこと、心配してたよ。」
ままは動かない。
「幸が一緒にいてくれてよかった、って。」
ままは小さく頷いた。
「染井吉野って、クローンなんだって。」
ままは時々、全然違う話を突然し出す。
『今、その話する?』と思っていると、ちゃんと意味があったりする。
今度はどうだろうと思いながら、話の続きを聞いてみる。
「全員が同一。
なのに、生きてる環境は全然違うんだよね。
全員が全員の見ていることを共有できると面白いね。」
それから?
心の中でままに訊ねる。
「ん?」
ままは笑顔で、幸の目に訊ねる。
なんだ、何の意味もないのか。
でも、思ったよりままが落ち込まなくてよかった。
そう思った途端、
「幸。」
呼ばれて振り向く。
「もしも、もしもね、
ぱぱが体と折り合いがつけられなくて、
下半身が動かなくても生きる方を選んだら。」
幸を見ずにままは言う。
「そんなことないよ!
ぱぱは必ず来るって言ったよ!」
ままの言葉を遮って、幸は少し大きな声で言った。
ぱぱが、幸に、幸とままに嘘をつくはずがないのに。
「うんうん。」
ままはやっと幸を見て、短い前足で触れる。
頭を撫でようとしたが、届かないことに気がついて、
届くところに手を置いた感じだった。
「そうだね。ぱぱは幸とままには嘘はつかないね。」
憮然とする幸を宥めるように、ままは言った。。
「もしもの話だから、聞いて。
もしね、ぱぱが生きる方を選んだとしたら、
幸はどうする?」
ままは、静かに幸を見つめる。
幸の答えを待っている。
「そうしたら、今まで通りぱぱの傍にいる。」
ままは目を閉じると、頷いた。
「ままも、ぱぱの傍にいるよ。」
それを聞いて、ほっとした途端、
「でも、ぱぱに好きな女性ができるまで、ね。」
ことん、と、ままは幸にもたれる。
「だってさ、つらいよ。
私にしたように笑って、私にしたように抱きしめて、
私にしたように、『愛してるよ』って、ともちゃんが、他の、人に・・」
「まま・・」
「たった一人で生きていくのは、
ともちゃんは、たぶん、それでも大丈夫だろうけど、
でも、やっぱり、誰かがいてくれた方が、寂しくない、と思うから・・」
ままの言葉はだんだん小さく、途切れ途切れになっていく。
「でも、そんなの、見てられないよ。
だから、ともちゃんに好きな女性ができたら、逝く。」
幸も思ってた。
ぱぱとままが、新しい子犬を連れて来て、
幸にしたように抱っこして、
幸にしたように、なでなでして、
幸と歩いた道を、その子と楽しそうにぱぱとままが歩くのを、見るのは嫌だと。
思った。
「まま。
幸も一緒に逝くよ。
二匹で虹の橋を渡ろう。」
ままは一瞬何かを言おうとしたが、こくりと頷いた。
「うん。
・・・ありがとう。」
そのとき、突然、出窓の窓が開いた。
驚いて、ままと幸は振り返った。
そこには、ばぁば、ぱぱのお母さん、立っていた。
「お義母さん。」
ままは思わずそう言葉を発して、慌てて口を塞いだ。
そして、もっと右側にずれろと合図をした。
後で、聞いたことによると、
ばぁばには、幸達の姿が見えたり、声が聞こえたりすることはないが、
気配は感じるようだということだった。
「ああ、今年も綺麗に咲いたねぇ。」
と言いながら、ばぁばは縁台に座った。
ままのすぐ横だった。
「二人に見せてあげたいね。」
目の下の濃い隈。色が抜けてしまった頬。赤くなった白目。
元々痩せた体が、またひとまわり小さくなったようだった。
桜をじっと見つめるばぁばの目から、涙が溢れてきた。
「みなみちゃん。」
急に呼ばれて、ままは飛び上がるほど驚いたようだった。
「ともを、助けて。
お願い、ともを連れていかないで。」
ばぁばは、両手に顔を伏せた。
肩が小刻みに揺れている。
桜が風に吹かれ、さわさわと音をたてた。
幸とままは、ばぁばの細い肩を、
ただただ見つめているだけだった。




