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幸湖日記  作者: 炎華
18/73

13.染井吉野-そめいよしの-

家の桜を見に行きたいと、ままは突然言い出した。


ぱぱとままと幸のおうちには、

庭に、植木鉢に植わった染井吉野という桜の樹があった。

ここに引っ越してきてすぐに、ままが植えたそうだ。

ままは本当は、おじいちゃんが、つまりままのお父さん、が自分のおうちを買ったとき、

染井吉野を植えたかったそうだ。

だが、そのおうちの庭はとても小さくて、

おまけに、南側には大きなマンションがあったので、

日当たりがとても悪かった。

おばあちゃん(ままのお母さん)は、お花が大好きだったが、

そんな場所で花を育てる気もしなかったようで、

家の中の、一番日当たりのいい東向きの部屋で、

サボテンだけを育てていた。

ままが、桜の樹を植えたいと言ったら、

「桜はすぐ大きくなるし、虫がつくからダメ。」

と植えさせてくれなかったという。

だから、自分の家ができたら、

『染井吉野』を植えるのが夢だった、と、ままは言った。


頼りないほど小さかった苗は、小さな庭のトタン屋根の少し上まで大きくなって、

毎年沢山花をつけていた。

ままが、洗濯物を干すときに、

その桜の真ん前の出窓から、足を滑らせて落ちたことがあるので、

ぱぱが、心配して、窓と同じ高さの縁台を置いていた。

桜の花が咲くと、幸も縁台に出て、二人と一匹でお花見をした。

庭の染井吉野は、他の場所より遅れて咲くのが常だった。

「家を出てくるとき、まだ蕾が膨らんだくらいだったから、

今日はもう咲いてる。」

と、ままは言った。

それじゃあ、幸は、ぱぱの様子を見てくると言って、

おうちの前で、ままと別れた。


ぱぱは、まだしばらくそちらには行けそうもない、と言った。

幸は、もうずっと二人の傍にいて、

二人を待っていたようなものだったから、

まだ大丈夫だけれど、それを聞いたときの、ままのことが心配だった。

なんて、伝えようと考え考えおうちの前まで来たとき、

縁台にぽつんと座っているままの姿が見えた。

染井吉野は、満開だった。

ままは見たいと言った桜を、見てはいなかった。

静かに空を見上げていた。

幸が横に座ったのにも、気がつかない様だった。


ご主人様がいなくなっても、今年も染井吉野は見事に咲いた。

誰も、見る人がいなくなっても、これからも毎年咲くのだろう。

植木鉢に植わっていても、根っこは、庭に張ったコンクリートを突き破り、

その下の土までいっていると、前にままが言っていた。

だから、水をやる人がいなくても、生きていけるのだと。


「家の中には入れなかったよ。」

ぽつりとままが言った。

幸が座ったのに、気がついてないわけじゃなかった。

「窓の外から中を見ただけで、なんだか辛くなっちゃった。

出て行った時のままだったよ。」

ままは桜に目を移す。

「前に、家を出たときは、緑の子達を置いていくのが辛かったけど、

今度は大丈夫。

お義母さんが、ちゃんと世話をしてくれるからね。」

幸には、何のことかわからなかったが、黙って聞いていた。

さわさわと風が染井吉野の枝を揺らす。

ひとひら、花びらが枝を離れていった。

「・・もっと、生きていたかった、な・・」

それを目で追いながら、ぽつりとままが言った。

「自分のために生きてきたはずなのに、

誰かの都合のいいように生きてしまった。

その方が、嫌だったけど、楽だったんだ。

誰かにそうしろと言われても、

嫌だと抗って生きることもできたのに。

そうしなかった。

本当は嫌だったのに、戦うことをしなかった。」

はぁ、とため息をつき、ままは今度は桜を見た。

「綺麗だね。

潔いね。

散るときは、さあっと散っていく。

いつまでも、いつまでも、うじうじしてる私とは大違い。」

ままは、寂しげに笑った。

ぱぱのことを伝えたら、もっと寂しそうに笑うだろう。

でも、伝えなきゃ。

「まま。」

「うん?どした?」

ままは、幸を見る。

いつも幸に訊いていた懐かしい言葉と共に。

「ぱぱね、ぱぱ。」

どう言おうか。

ままのがっかりする姿は見たくない。

見たくないけど。

「まだ少し時間がかかるって。」

「うん。」

予想に反して、ままは「わかってる」と言いたげに頷いた。

「ぱぱ、体の上に浮いてたよ。」

「そうなの?」

楽しげにままが言う。

「体が、まだ生きていたいって言うんだって。」

「そうなんだ。」

ままは、急に暗い顔になる。

「でも、ぱぱが生きるって決めたとしても、

もう下半身は動かなくなるんだって。」

「そうか。」

ままは、幸から目をそらし、桜の根元を見る。

桜の隣りの植木鉢には、幸と同じ位の高さの梅の木があった。

もう、花は終わって、葉っぱが出ている。

大きな染井吉野に比べ、その梅の木はとても小さかった。

「ままのこと、心配してたよ。」

ままは動かない。

「幸が一緒にいてくれてよかった、って。」

ままは小さく頷いた。

「染井吉野って、クローンなんだって。」

ままは時々、全然違う話を突然し出す。

『今、その話する?』と思っていると、ちゃんと意味があったりする。

今度はどうだろうと思いながら、話の続きを聞いてみる。

「全員が同一。

なのに、生きてる環境は全然違うんだよね。

全員が全員の見ていることを共有できると面白いね。」

それから?

心の中でままに訊ねる。

「ん?」

ままは笑顔で、幸の目に訊ねる。

なんだ、何の意味もないのか。

でも、思ったよりままが落ち込まなくてよかった。

そう思った途端、

「幸。」

呼ばれて振り向く。

「もしも、もしもね、

ぱぱが体と折り合いがつけられなくて、

下半身が動かなくても生きる方を選んだら。」

幸を見ずにままは言う。

「そんなことないよ!

ぱぱは必ず来るって言ったよ!」

ままの言葉を遮って、幸は少し大きな声で言った。

ぱぱが、幸に、幸とままに嘘をつくはずがないのに。

「うんうん。」

ままはやっと幸を見て、短い前足で触れる。

頭を撫でようとしたが、届かないことに気がついて、

届くところに手を置いた感じだった。

「そうだね。ぱぱは幸とままには嘘はつかないね。」

憮然とする幸を宥めるように、ままは言った。。

「もしもの話だから、聞いて。

もしね、ぱぱが生きる方を選んだとしたら、

幸はどうする?」

ままは、静かに幸を見つめる。

幸の答えを待っている。

「そうしたら、今まで通りぱぱの傍にいる。」

ままは目を閉じると、頷いた。

「ままも、ぱぱの傍にいるよ。」

それを聞いて、ほっとした途端、

「でも、ぱぱに好きな女性ができるまで、ね。」

ことん、と、ままは幸にもたれる。

「だってさ、つらいよ。

私にしたように笑って、私にしたように抱きしめて、

私にしたように、『愛してるよ』って、ともちゃんが、他の、人に・・」

「まま・・」

「たった一人で生きていくのは、

ともちゃんは、たぶん、それでも大丈夫だろうけど、

でも、やっぱり、誰かがいてくれた方が、寂しくない、と思うから・・」

ままの言葉はだんだん小さく、途切れ途切れになっていく。

「でも、そんなの、見てられないよ。

だから、ともちゃんに好きな女性ができたら、逝く。」

幸も思ってた。

ぱぱとままが、新しい子犬を連れて来て、

幸にしたように抱っこして、

幸にしたように、なでなでして、

幸と歩いた道を、その子と楽しそうにぱぱとままが歩くのを、見るのは嫌だと。

思った。

「まま。

幸も一緒に逝くよ。

二匹で虹の橋を渡ろう。」

ままは一瞬何かを言おうとしたが、こくりと頷いた。

「うん。

・・・ありがとう。」

そのとき、突然、出窓の窓が開いた。

驚いて、ままと幸は振り返った。

そこには、ばぁば、ぱぱのお母さん、立っていた。

「お義母さん。」

ままは思わずそう言葉を発して、慌てて口を塞いだ。

そして、もっと右側にずれろと合図をした。


後で、聞いたことによると、

ばぁばには、幸達の姿が見えたり、声が聞こえたりすることはないが、

気配は感じるようだということだった。


「ああ、今年も綺麗に咲いたねぇ。」

と言いながら、ばぁばは縁台に座った。

ままのすぐ横だった。

「二人に見せてあげたいね。」

目の下の濃い隈。色が抜けてしまった頬。赤くなった白目。

元々痩せた体が、またひとまわり小さくなったようだった。

桜をじっと見つめるばぁばの目から、涙が溢れてきた。

「みなみちゃん。」

急に呼ばれて、ままは飛び上がるほど驚いたようだった。

「ともを、助けて。

お願い、ともを連れていかないで。」

ばぁばは、両手に顔を伏せた。

肩が小刻みに揺れている。

桜が風に吹かれ、さわさわと音をたてた。

幸とままは、ばぁばの細い肩を、

ただただ見つめているだけだった。




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