9.幸湖(さちこ)さん
「なんでと言われても。
なんでだろう?」
うさぎは、バツが悪そうに幸湖さんを見た。
「ここを登るときに、なんか考えたでしょう?
うさぎだったら楽なのに、とか。」
生前の幸湖さんがしたように、うさぎは幸湖さんから目をそらす。
「やっぱり。
ままは人間になるより前に、うさぎだったことがあるんだよ!
だから、思った途端にうさぎになっちゃったの!
ずっとずっと会いたかったのに。
ずっとなでなでして欲しかったのに。
なんでうさぎなの!」
幸湖さんは、うさぎをひとしきり責めると、そのまま下を向いてしまった。
うさぎはそんな幸湖さんの様子を見ていたが、
やがて、花びらの橋を渡って、幸湖さんの傍に立った。
「ずっと、待っててくれたんだ?」
項垂れる幸湖さんの顔に自分の体を寄せる。
「ずっと傍にいたんだよ。ままが生きてるときも。」
「うん。なんとなくわかってた。」
幸湖さんもうさぎに体を寄せる。
桜の花びらが、二匹の周りを舞う。
「綺麗だね。
『桜』っていう花なんだよね。」
幸湖さんが、落ちる花びらを目で追いながら言う。
「ままが、好きな花だよね。」
橋が花びらに戻って、さあっと音をたてて散っていった。
その後には、見慣れた土の階段があった。
うさぎが振り向くと、今まで水で満ちていたところが、
全て元の切り株と土と砂利でできた階段に戻っていた。
「ままが、橋を渡ったからだよ。」
うさぎが階段を見ているのに気がついて、
幸湖さんが答えた。
「それでも、もう今までの世界には帰れないんだね。
帰っても体があれじゃ、どうしようもないけど。」
「帰れないけど、行けるよ。」
幸湖さんは、何でも無いように言う。
「いけ、る、って?」
あまりのあっさりさに驚いて、どもりながら訊ねると、
「うん、行けるよ。
ここを下っていくの。
そうしたら、いつもの道に出て、おうちにも行けるし、
ぱぱの所にも行けるよ。」
うさぎは幸湖さんが示す方を見た。
いつも散歩の時に上り下りした階段と、いつもと変わらない景色がそこにはあった。
「でも、生きてる人に姿は見えないよ。
たまに見えたり感じたりする人や動物がいるけど。」
階段の一番上の段に座り、うさぎが訊く。
「さっちゃんは、なんで逝かなかったの?
誰か、迎えにきてたんじゃないの?
それとも、一度逝ってから戻って来た?」
幸湖さんはゆっくり首を左右に振ると、
「ハートママが来てくれてた。でも、逝けなかった。」
と言った。
「どうして?」
「ままが、泣くから。」
「私が?」
「ままが、いっぱいいっぱい泣くから、
心配になって、逝けなかった。
ぱぱも、泣きながら、、
幸のこと、ぎゅーって抱いて、いつまでもぎゅーって抱いてて。
だから、逝けなかった。」
幸は、老衰で死んだのでは無い。
コーギーがかかる『変性性脊椎症』という遺伝病で死んだのだった。
ゴールデンウィークが終わってすぐのことだった。
その日は、私が仕事だったので、
代わりに義母が、幸を散歩に連れて行ってくれた。
まさに、今私が座っているこの場所で、幸の様子が突然おかしくなった。
急に「きゃんきゃん」鳴き始めたと思ったら、
全く歩けなくなった。
義母は、慌てて幸を抱っこして、
この階段を駆け下りて戻ってきたのだという。
朝、私が出掛けるときは、いつもと全く変わらなかったのに、
帰ってきたときは、幸の後ろ足はもう正常に動かなくなっていた。
「幸が迷ってると、ハートママが、まま達のこと護ってあげなさいって。
幸もそうしたかったから、ハートママが背中を押してくれて、嬉しかったよ。」
幸湖さんの声に、うさぎは我にかえった。
「そうか。ありがとうね。」
「でも、ままには、おじいちゃんとおばあちゃんがいたの。
ままのお父さんとお母さん。
だから、幸はぱぱとままが一緒にいないときは、ぱぱについて行ってたの。」
「うん。ありがとうね。」
「でも、昨日、昨日は、ハートママが生まれ変わるって知らせがきて、
ママは、ずっと決心がつかなかったんだって。
でも、やっとその気になれたからって。
だから、昨日は、ハートママに会いに行ってたの。」
「うん。」
「だから、幸がいなかったから、ぱぱとままは事故にあったの。
幸がハートママに会いに行かなかったら、事故にあわなかったのに。
車、止める事できたのに。」
幸湖さんは、俯いて涙を流した。
うさぎは、幸湖さんもこうやって泣くんだと、なぜか感心していた。
「幸のせいじゃないよ。」
と言いながら、短い前足で幸湖さんをなでなでしていた。
そうして、幸湖さんが今言った言葉に、
ひっかかるところがあることに、ようやく気がついた。
「幸がいたら、事故を止められた?」
「うん。」
「そんなことができるの?」
「できるよ。
そのためのオマモリなんだよ、幸は。」
「もし、そうしたら、その後、幸はどうなるの?」
「さあ。」
幸湖さんは首を傾げた。
「強制送還じゃないかな。
一度だけ、そういうことができる、って聞いた。」
うさぎは、空の上で経験した、あの記憶が薄れて自分が消えていく感覚を思い出して身震いした。
まだ、死んだ後の理がどうなっているのか、幸も私も全くわからない。
何かを引き替えに、奇跡を起こすのだったら、
自分の記憶とか、魂そのものが代償だという場合もあって・・
うさぎは、幸湖さんに額を寄せた。
「幸が、昨日、傍にいなくてよかった。」
と言った。




