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揺れる眸  作者: 佐倉硯
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卑怯者

ふと、自分の後方で「ぷっ」と噴出す声が聞こえ、蝶子が何気なく振り返ると。

茅が蝶子を見て笑っていることに気が付いた。

何か笑われるようなことでもしただろうかと、蝶子が首をひねっていると、茅はそれがまた可笑しかったらしく、今度は耐えられずに豪快にケラケラと笑った。


「蝶子ちゃん、鼻歌唄ってたの自分で気づいてた?」


茅の言葉に、蝶子はようやく自分のいままでの行動を振り返れば、無意識に唄っていたかもしれない、と思わず頬を赤らめる。

そんな蝶子を見て、茅はまたクスクスと笑いながら、自分の手に持っていたネガに再び視線を向けた。


放課後の部活動。


今日は月に一度の品評会があり、蝶子は入部テスト事件で写真を駄目にしてしまったこともあって、不参加となった。

不参加と言っても、出品する側の不参加であって、品評会自体には参加した。

品評会といってもなんてことはない、写真部全員が一番いいと思った作品をパネル展示し、それを一つ一つ見ながら感想や評価を与えるといったものだ。

部活動の促進と言えばいいのか、この時だけは部員全員が揃い、真剣に写真の話ができるので蝶子にとっては何よりも充実した時間だ。

今回ちゃんと参加できなかったために、何だか不完全燃焼な感じがしてもどかしい。


けれど、これが終われば明日は十五と遊びに行けるのだと思うと、無意識に鼻歌を唄っていたらしいのだ。


大輔とアル、それにミツは早々に自分達の片付けを済ませて帰ってしまった。

本当に品評会だけの参加型なのはもの寂しいが、特に強制をする理由もない。

蝶子と茅はともに品評会の片付けを終わらせ、まだ時間があるのでいつも通りの部活動をしていた。


あいにく十五は、品評会終了後に職員会議に出席するために部室には居ない。


茅と十五が血の繋がった兄弟で、十五と蝶子の関係を知っているとなれば、幾分か気持ちは軽くなっていた。

気兼ねなく話すことのできる相手が居るというのは本当にうれしい。

別に惚気話をするとかそういうことではないのだけれど、気を使ってくれる茅の存在に深く感謝した。


「それで、何かうれしい事でもあったの?」


「え?」


ネガを見つめたまま茅が問えば、蝶子は一瞬戸惑いの声を上げ、それから言っていいものかと少しだけ悩んだ。

茅は十五の身内だし、それほど悪いことではないだろうと蝶子はすぐに笑顔を作って静かな声で言った。


「明日、十五さんがデートしてくださるんです」


「デート?そりゃまた珍しい。どこへ行くの?」


「住宅フェアだそうです」


「住宅フェアって……兄さん、もっと気の利いた場所選べばいいのに……」


「でもとても楽しそうですよ?」


「俺は小さい頃から何度も行ってるから飽きているんだよね。新しい家を見ること自体は嫌いじゃないんだけれど」


手に持っていたネガを片付けながら、茅が肩をすくめてそう言えば、蝶子はクスクスと笑って言った。


「十五さん、とても住宅フェアに行くのを楽しみにしているみたいなんです。普段と変わらない様子だったけれど、いつもより少しウキウキしている様子で」


「そりゃそうだよ。十五兄さんは兄弟の中でも一番建築の仕事が好きなんだもん」


思い出したように茅がそう言えば、蝶子はキョトンとした表情を浮かべて素直に尋ねた。


「高本先輩、何人兄弟なんですか?」


「え?十五兄さんから聞いてない?五人兄弟だよ。全員男」


五人という驚きの人数を聞いて、蝶子は思わず絶句した。

一人っ子の蝶子にとって、兄弟とは未知なるものだ。

十五や茅のような人が他に三人も居るだなんて、驚きだろう。

確か、茅と十五が兄弟だと知った時、二人の上にお兄さんが居るという話をチラリと聞いた覚えがある。

十五は一体何番目なのだろうかと首を傾げていれば、それを悟ったのか、茅が丁寧に教えてくれた。


「一番上の兄さんが父さんの会社の専務なんだ。事実上、黒澤財閥の跡取り。十五兄さんは二番目。俺の上にもう一人兄さんが居て、その次が俺。で、最後に中学生の弟が居る」


茅の説明に、蝶子はうんうん、と頷きながら静かに聞き入る。

十五が次男だというのは少し驚きだが、もっと驚きなのは茅が四番目だということだ。

てっきり十五のすぐ下にあたるのだと思っていたけれど、よく考えてみれば、蝶子は二人のことしか知らないのでそう考えても仕方がないことかもしれない、と一人で納得した。


それから、ふと、新しい疑問が沸き起こった。


先ほど茅が漏らした言葉についてだ。

十五が兄弟の中で一番に建築の仕事が好きだと言っていた。

ならばなぜ今の段階で教師という職業についているのかが分からない。

建築、と言われても家を建てる工程すらよく分からない蝶子にとって、それがどういう仕事かは理解しかねるが。


「十五さん、どうして教師に?」


蝶子が率直に尋ねれば、茅はうーんと天井を見上げて。


「それがよくわからなくて。しかも生物の教師だなんて……確かに動物は好きって言ってたけど、それがイコール職業に繋がるなんて納得いかないだろう?俺もすごく疑問に思って聞いたことがあるんだけど……」


と、途中言葉をとめて蝶子を見つめると、特に必要もないのにひっそりとした声で続けるように言った。


「“先生なら何でもよかった”って」


茅の言葉に、蝶子は思わず息を呑んだ。

それはつまり教科に関係なく、ただ“先生”という職業にこだわったことを意味する。

一体それがどういう理由でなのかはわからないが、十五が“先生”に執着する必要があったことは確かだと理解した。


これ以上考えても、謎が深まる一方で、解決の糸口は見つからない。

別に解決すべきことでもないだろうと、蝶子はすぐに頭を切り替えて「あっ」と思い出したように尋ねた。


「あの、高本先輩にお聞きしたいことがあるんですが」


「兄さん関係かな?」


茅の鋭いツッコミに、蝶子は頬を赤らめながらも小さく頷くと、茅はクスクスと意地悪く笑いながら蝶子の言葉を待った。


「十五さんのお好きな食べ物って何かわかりますか?」


「食べ物?料理名?食材?味覚?」


「できれば全部お願いできますか?」


「贅沢に出たね。高いよ?」


茅の意地悪な回答に、蝶子が「え……」と困ったような表情を浮かべると、そのあまりにも素直な反応に、茅はクスクスと可笑しそうに笑う。

からかわれていると理解した蝶子は、少しだけムッとしたものの、何だか十五と話しているような感覚にとらわれ、やはり二人は兄弟なのだと納得した。


「確か辛いものや濃い味系が好きだったはずだよ。中華料理かな?麻婆豆腐とか」


「中華料理……」


十五の好みを聞いて、蝶子は自分の力量でできる中華料理をできるだけ多く考えていれば、今度は茅が蝶子に尋ねてきた。


「でも何でまた急に?」


「明日、デートの後にそのまま十五さんのマンションにお泊りする予定なんです。折角ですから手料理を、十五さんの好きなものを食べさせてあげたくて」


何の悪意もなく自分の計画をポツリと漏らせば、茅は今まで見せたことのないような、酷く困った、怪訝そうな顔をして蝶子をまじまじと見つめた。


「泊まりに行くの?兄さんのマンションに?」


「はい」


「それって……蝶子ちゃん、意味をちゃんと理解している?」


恐る恐る尋ねてくる茅の言葉が理解できず、蝶子が真剣に考えていれば。

茅は蝶子に理解してもらおうと、回りくどい言い方をしてきた。


「蝶子ちゃん、人の家で泊まるってどんなことをすると思っているの?」


茅の質問に、蝶子はふと栞や要の家に泊まったことを思い出しながら、ひとつひとつ丁寧に答えていった。


「え?……と、一緒にお夕飯を食べたり、夜寝る前にお話したり、一緒の……」


と、そこまで言ってハタと気づく。


栞や要の家に泊まりに行った際は、同じ部屋で寝泊りをしていた。

二人はそれなりにお金のある家柄に育っているので、それぞれ個人のベッドが大きく一緒に寝ることがほとんどだ。


つまりは、だ。


十五とも同じことをするということを意味し、相手は同性ではなく異性。

しかもお付き合いしている相手ともなれば、当然そのような行為があっても可笑しくない。

いくら異性との付き合いが初めての蝶子でも、どういうことが起こるかだなんてちゃんと分かっている。


ようやく茅の言いたいことを理解した蝶子は、顔を蒼白させて声にならない悲鳴をあげた。


ほんの軽い気持ちで、ただ一緒に居られる時間が増えると思って承諾したお泊りが、こんなにも重要な意味を含んでいることに、今更気づいた自分の馬鹿さ加減に呆れてしまう。

今更お断りだなんて、十五の機嫌を損ねるだけだし、焦りも手伝って、打開案がなかなか思い浮かばない。

どうしようかと一人でアワアワとして茅を見つめるも、茅は「やっぱり」と呆れた表情を浮かべるだけで、無常にも首を横に振ったのだった。



―*―



遠足の前日ってたぶんこんな気持ちだったと思う。

むしろ遠足の前日よりもドキドキして眠れなかった。


蝶子は溢れ出てくる欠伸をかみ締めながら、自分のマンションの入り口に立っていた。

手には大きめのカバンをぶらさげて。


お泊りの準備にそう時間はかからなかった。


要や栞の家に泊まりに行く機会が多いものだから、お泊りに必要なものは全部セットになってすでに用意してある。

それに洋服や下着などを足せば準備は完了だ。

いつもはそれに付け加え、お菓子や栞達が読みたがっていた小説なんかもウキウキしながら詰めていくのに、今回に限ってそれはない。

本当は何を持っていけばいいのか色々考えたけれど、その度にため息が漏れて断念した。

いつもより軽めのカバンが、返って蝶子の気を重たくさせる。

昨日の晩に十五から電話がかかってきた時、よっぽど断ろうかと悩んだが、電話の向こうの十五の声があまりにも嬉々としていて、無理だった。

あんなに楽しみにしていてくれるのに、今更断れるわけがない。

とうとう今日になってしまうと思っていれば、昨日の夜はなかなか寝付けなかったのだ。


一層、気づかないまま過ごした方がよかったかもしれない。


顔を合わせることにすら心臓が張り裂けそうな思いをしているのに、このまま平凡にデートが終わるのかわからない。

始まってもいないのだけれど、先のことばかり不安になっている蝶子の心に、余裕などなかった。


その時、蝶子の前に一台の車が止まった。


見慣れない、高級感あふれる黒色の車に、蝶子は思わず目を背ける。

自分達以外にもここで待ち合わせしていた人が居たのだろうかと蝶子が辺りを見渡していると、車はエンジンを掛けたまま運転席のドアが開き、降りてきた人物に蝶子は「えっ!?」と声を上げた。


「お待たせしました蝶子さん」


その人物から発せられた声は、確かに十五のものだ。

しかし、いつも見ている十五と、まったくと言っていいほど雰囲気が違う。

いつも見ている十五は、教師であるために、いつもスーツ姿、もしくはワイシャツ姿を見せている。

白衣も似合うが、こういった私服を見られるのは彼女の特権だと、蝶子本人は気づいていない。


スラリと長い足を強調するかのような細身の黒いジーンズに首元がV字になっている無地の白いTシャツ、その上に光沢のある赤いジャケットを身につけて。

いつも身に付けている眼鏡ではなく、濃い色をしたフレームの太いサングラスを掛けて、その奥に潜む目に優しい笑みを浮かべて蝶子を見ている。


そして何より驚いたのが十五の髪の色だった。

いつもは艶のある黒と、暗めの茶色が混じった髪色なのだが、今の十五の髪は明るい茶髪になっている。

一体何がどうなっているのかと、蝶子が口をパクパクとさせていれば、十五は蝶子に歩み寄り、蝶子の手荷物を受け取ると、肩を抱いて助手席のドアを開けるという完璧なエスコートをしてみせた。

未だに驚きから抜けきれず、けれどもとりあえずは、とシートベルトを締めて十五が運転席に来るのを待つ。

十五は蝶子から受け取った荷物を後部座席に乗せると、ようやく運転席に戻ってきて隣に座る蝶子に改めて向き直った。


「蝶子さん、私服も可愛らしいですね」


「あ、ありがとうございます。十五さんだって素敵です。髪、どうなさったんですか?」


「ああ、ちょっと変装のつもりで……。人間、髪型ひとつで印象変わりますから、見つかってもすぐに僕だと悟られないように」


いたずらっぽく笑う十五に、蝶子は少しだけ頬を赤く染めて。


「本当に……このまま誰にも見せたくないのが本心ですよ」


うれしそうに言う十五の言葉に、蝶子はようやくハッとして自分の姿を見直す。

そういえば私服を見せたのは何も十五だけではなく自分も初めてだったと思い返し、途端気恥ずかしさにとらわれた。

黒い水玉模様のワンピースは、胸元と裾に可愛いフリルがあしらわれており、その上から丈の短いデニム素材のジャケットを着ている。

カラフルな石の付いたネックレスにと左足につけたアンクレット、大き目のリボンが付いたミュールは、以前に栞と要からもらった誕生日プレゼントだ。

髪もいつもとは違って右の方でポニーテールのようにしばっていて。

十五の気持ちも配慮して、眼鏡はそのままだけれども、自分ではかなりがんばった方だと蝶子は思っていた。


それを素直に評価してくれた十五の言葉が一番嬉しかった。


不安もあったが、デートを楽しみにしていることに嘘の気持ちはなかったし、ちゃんと楽しみたいとも思っていたから。

蝶子はどう答えればいいかもわからずに、顔を赤らめながら十五を見つめれば、十五は優しい目で蝶子を見つめ、すっと手を伸ばして蝶子の頬を撫でた。

それから何も言わないまま二人は見つめあったが、その間が気まずくなり、十五は蝶子から視線を前に向けて車を発進させる。


少しだけ何かを期待していた蝶子は、残念な気持ちが小さなため息になって現れた。


無意識でもそう思ってしまうあたり、自分は相当重症なんじゃないかと思う。

十五と出会うきっかけが、たとえ偶然的なものだったとしても、十五は少しでも自分を想ってくれていて、自分も彼に惹かれている。

蝶子にとっては初めての異性との付き合いだ。

その相手が先生というのはやはりおかしいかもしれないが、結局はどうだっていいような気がする。


関係なんて二の次になってしまうほど、人を好きになるってこういうことなのかもしれない。


十五にはまだ聞かされていない過去がある。

それは自分の容姿に関係することというのも知っている。

まだ時期じゃないと言い聞かせているのは、逃げているだけだとも重々承知しているけれど。


この人から感じる優しさや、キザすぎる言葉に、嘘はないと思ったから。


蝶子はこみ上げてくる思いを必死に誤魔化すように、緩む頬を引き締めて前を見据えると。

膝に置いていた手が優しいぬくもりに包まれ、蝶子は驚いて顔を上げた。


「何だか、手を掴んでいなければ……どこかへ飛んで行ってしまいそうで不安ですね」


十五の言葉の意味が分からず、けれど突然手を握り締められたことに戸惑っていれば。

片手で運転を続ける十五は前を見据えながらフッと辛そうに笑った。


「貴方の名前です。可愛い蝶々さん。綺麗な羽をはばたかせて、僕の元から飛び立っていくのはやめてくださいね?」


意味を理解した途端、蝶子はカッと顔を赤く染めて。

耳まで熱が帯びるほど、茹でタコ状態になってしまった蝶子は、もう何も言えずにそのまま俯いた。


なんて……こんなに恥ずかしいことを……。


平気で言える十五を何度疑わしいと思っただろう。

でもその度に真面目な顔をしている十五を見れば、何も言えなくなってしまう。

疑う余地すらないのだ。


ずるい……。


大人びた余裕も、平気で言ってしまえる甘い言葉の数々も、一つ一つが蝶子の心を惑わしていく。

こんな恥ずかしい思いを、他のカップルもしているのだろうか?

いや、どちらかといえばこちらが少数派に入るだろう。


酷く言ってしまえばホストのような口振り。場馴れしているといっても過言ではない。

茅がいつか言っていた。十五は凄くモテていたと。それに付け加え女遊びも激しかったと聞いた。


茅は決して十五を陥れるために蝶子にその真実を伝えたわけではない。

十五の過去を語るのに、どうしても必要な要素だったことは伺える。

けれど事実を知ってしまった以上、蝶子の心に焦る気持ちがあるのも確かだ。


本当に自分は愛されているのだろうかと。


この人は自分に嘘はつかない。


ただ黙っていることが多いだけで、嘘をつくことはありえないと、ここ数日付き合っていただけでよく感じ取れていた。

だからこそ不安だということもある。


蝶子はちゃんと気づいていた。


十五がまだ一度も蝶子に対して「好き」という言葉を使っていないことを。


もちろん「愛している」だなんて問題外だ。

この人はまだどこかで自分との間に一線を引いていて、いつでも手放すことができるように仕組まれている気がしてならない。

過去の女性達が十五をどれだけ満足させてきたのだろうか。

自分にそれと同じような役目を果たすことはできるのだろうか。


怖くて仕方がなかった。


もしこの泊まりで、十五と一夜を共にすることになったとしても、その一夜限りということにもなりかねない。

そういうことを理解したうえでこの人の傍に居たいと願ったのも自分だ。

いつまでも続くはずがない。

ちゃんと理解している。


この手のぬくもりも、いつかは感じられることができなくなると覚悟しておかなければならないのに。


今は、まだ……そう甘えている自分が酷く腹立たしいのだ。


卑怯なのは何も言わない十五ではない、現状が変わる事を恐れて何も聞けない自分だと。


「卑怯者……」


「え?」


蝶子がポツリと呟いた言葉に、十五が聞き返せば。

ようやく運転をしている十五に向き直り、蝶子は笑顔で首を横に振った。


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