王子の大慌て
どれくらいのドライブだっただろうか。多分、2、3時間のドライブだった。
他愛もない話をしながら、その間も十五はずっと蝶子の手を握り締めていた。
時々握り方を変えては、指を絡ませ、愛しそうに蝶子の細い指をなぞる十五の指に、ただひたすらドキドキと心臓を高鳴らせる。
正直、十五が運転している間、蝶子は何を話しているのかほとんど覚えていなかった。
覚えていないのではない。
話に集中できなかったのだ。
手から伝わる温もりがあまりにも心地よすぎて、体の芯から溶け出してしまいそうな感覚。
触れることがこんなにも喜ばしいことだとは思わなかった。
平気そうな十五の横顔を盗み見るたびに、蝶子は戸惑いを隠せない。
自分ばかりドキドキしている気がしてならないのだ。
時折見せる笑顔も、運転に集中する横顔も、たまらなく綺麗だ。
一体自分は、いつになったらこの人の言動にドキドキしなくなるのだろうか。
永遠に来ない時を手探りしている蝶子に、十五はようやく静かに手を話して蝶子を見つめた。
「蝶子さん?」
ふと、我に返って自分の顔を覗き込む十五を見れば、十五はようやく自分のほうを向いてくれた蝶子に安堵の表情を見せる。
それから愛らしい笑みを浮かべて蝶子に言った。
「着きましたよ?降りないんですか?」
「あ、はい。ありがとうございます」
いまだに現実に戻ってこられないような、ポカンとした蝶子の反応に、十五はクスクスと笑いながらサングラスの奥の目を細める。
それから同時に車から降り立つと、目の前に広がる景色に蝶子は「わぁ」と声を上げた。
真新しい家の立ち並ぶ住宅街。
まだ建物のない場所は、綺麗に土が敷かれていて、その上に簡易テントが立ち並ぶ。
赤と白のバルーンが青空に浮かび、小さな仮設ステージでは大道芸人のショーが披露されている。
それぞれの家の前に、それぞれの建設会社の人が案内役として客引きしていて。
子供連れの家族が、代わる代わるに家に出入りをしていた。
「天気がよくてよかったですね」
いつの間にか蝶子の隣に立っていた十五がポツリとつぶやいて。
蝶子は初めて見るその雰囲気に興奮冷めやらぬまま「はいっ」と答えた。
「先に父の会社の家を見たいのですがよろしいですか?」
「はい、構いませんよ」
何もかもが初めての蝶子は、十五の言葉をやんわりと受け入れる。
その様子にほっとしたような顔をして、十五は蝶子の手をとった。
「では行きましょう」
指を絡ませた手のつなぎ方に、蝶子の胸が弾んだ。
なんだかそれが悔しくて、十五に悟られないよう隣を並んで歩けば、十五は蝶子の歩幅にあわせるようにゆっくりと歩いてくれた。
途端、会場に居た建築会社の関係者がざわめいた。
「おい、アレって……」
「黒澤不動産の次男じゃねぇか?」
「うっわぁ……噂通りマジで美形じゃん……」
「兄弟の中でも一番の美人って本当だったんだ……」
「美人って何か女々しいけど、あの人の為にある言葉みたいじゃない?」
「確かに……下手すりゃ女よりもよっぽど美人だって」
「今って黒澤不動産で働いていないんだよね?」
「え?あの人設計してなかったっけ?今何してんの?」
「高校教師?」
「えー!うそぉ!あの人の設計めちゃくちゃ好きなのに!何で教師なんてやってんの?」
「わかんないけど、自分の意思でって聞いたよぉ?」
「ねー……手繋いで歩いてる子何?」
「まさかあの人の彼女?どう見たって女子高生っぽいよね?」
「禁断の愛ってやつ?」
「やだやだ!そんな想像しないでよぉ!」
「女子高生かどうかは別としても、一緒に並んで歩くなんておかしくない?」
「やっぱり彼女?」
「えー嘘ぉ。あの人特定の女作らないって有名じゃない」
「狙ってたのにぃ……」
「釣り合ってないよねぇ……」
「なんであんな子いいのかしら?」
ヒソヒソと話しているつもりでも、蝶子の耳にはしっかり届いていた。
蝶子の耳に届いているとなれば、当然十五にも聞こえているはずだ。
それなのに平然と歩き続ける十五の顔を見上げて、周囲の噂話が嘘じゃないことを理解した蝶子は、自分の存在が恥ずかしくなって、うつむき加減で歩き出した。
「これはこれは、黒澤さん」
ふと声をかけられ、十五が足を止めると、蝶子もそれにつられて足を止める。
顔を上げて誰だろうかと確認すれば、見知らぬ年老いたスーツ姿の男が、にこにこと十五を見ていた。
「お久しぶりです」
十五が無表情でそう答えれば、男は小さく頷いて立ち止まった十五に歩み寄る。
それから簡単な挨拶を繰り返して、蝶子の踏み入ることのできない難しい話を始めた。
行き場がなくなった蝶子は、居たたまれずに恐る恐る十五から手を離す。
すると一瞬だけ十五が反応し蝶子を見下ろせば、蝶子は慌てて十五に言った。
「ごゆっくりなさってください。私、少しだけ周りを見てきていいですか?」
「構いませんが……あまり遠くへ行かないでくださいね」
まるで子供に言い聞かせるように言った十五は、すぐに視線を男に向けなおすと、また難しい話を始める。
蝶子はそれを見て顔を赤らめながらパタパタとその場を離れた。
なんだか一瞬にして立場を理解させられた気がする。
自分はなんて不似合いな場所に来てしまったのだろうかと、そう思うだけで胸がズキンッと痛む。
せっかく楽しみにしていたのに、これじゃあ幸先が不安だと思いながらも、どうすることもできずにトボトボと行く宛てもなく歩いていれば。
「お嬢さん」
ふとどこからか声をかけられ、蝶子はあたりを見渡した。
沢山のテントが並ぶ新築の一つで、自分を手招きしている沢山の風船を持ったカエルのキグルミを着た人と、その隣に並ぶスーツ姿の男が蝶子に微笑みかけていた。
カエルの人は蝶子に歩み寄ると、無言でパタパタと手を差し出す。
蝶子は戸惑いながらもカエルの人に手を差し出せば、カエルはうれしそうに握手をしてきた。
「よろしかったら、こちらの物件ご覧になってくださいな」
カエルの隣に立っていた男が、にこにこと優しい笑みを浮かべて蝶子に言う。
蝶子は一瞬戸惑い、十五のことが頭によぎった。
あの様子だともうしばらく立ち話に時間がかかりそうだ。
一軒くらい見ていたって構わないかもしれない。
蝶子が戸惑いながらも小さく頷くと、男は自分の会社の物件を手のひらで指して蝶子を誘導し始めた。
「すまないが、そのお嬢さんはこちらの顧客でね。横取りしないでいただけるかい?」
蝶子の肩に手が触れた。
振り返る間もなくその人がそう言えば、カエルの人とスーツの男は慌てるように大きく頭を下げて、蝶子から立ち去っていく。
その様子を唖然として、ゆっくりと振り返れば、見知らぬ男が嫌味のない笑みを浮かべて蝶子の肩に手を置いたまま立っていた。
「今田蝶子さん?」
「え、は、はい」
見知らぬ男に名前を言い当てられ、一体なんなのだろうかと蝶子が困惑していれば、男は急に笑顔をやめて睨む様に見ると、肩に置いていた手で蝶子の手首を掴んだ。
「細いな」
「へ?」
「君、こんな細くて、よくアイツの相手をしているな」
何の話をしているのかさっぱり見えてこない蝶子に、男は何も言わないまま蝶子を連れて歩き出す。
ガッチリと掴まれた手首を振りほどくことができず、千鳥足で男に連れて行かれるままの方向に歩いていけば、新築の立ち並ぶ前の道路に備え付けてあったガーデン用のプラスチックでできた白いテーブルと椅子の場所に、蝶子を無理矢理座らせた。
「話を聞いてゆっくり話をしてみたいと思っていたんだ」
そういいながら男は、蝶子に向かい合うように椅子に腰掛け、偉そうに踏ん反り返りながら蝶子を射るように見つめる。
蝶子はビクビクと震えながら何が起こったのかを必死に理解しようとしたが、理解する前に目の前に居る男が話を進め過ぎていて追いつかない。
恐る恐る改めて男を見ればあることに気がついて、蝶子は「あ……」と声を漏らした。
整えられたスーツに、キッチリとしたオールバックの髪型。
顔は十五よりも劣るけれど、しっかりとした美形の持ち主で、心なしか十五に似ている。
声色や容姿からすれば、十五より少しだけ年上といったところだろうか?
「十五さんの……ご家族の方……ですか?」
恐る恐る蝶子がたずねれば、男はようやくニッと笑みを漏らして改めて自己紹介をした。
「初めまして。黒澤家の長男、黒澤緒凛と言います」
最初の印象とは裏腹に、律儀で紳士的な挨拶をしてくれた緒凛に、蝶子は当たっていた事にほっと胸をなでおろす。
それからすぐに体制を建て直し、緊張の面持ちで挨拶をした。
「初めまして、今田蝶子といいます……。あの……よく、私が……その、そうだとお気づきに……」
丁寧に頭を下げて自己紹介をしながら、なんとなく自分のことを十五の恋人だと名乗ることが恥ずかしくて、蝶子がしどろもどろになりながら言えば。
緒凛はふんわりと優しい笑みを浮かべて蝶子を見つめて。
その笑顔が十五とそっくりだと驚いていれば緒凛は静かに蝶子に言った。
「茅から聞いていたからね。容姿なり雰囲気なり……。十五に恋人ができたと聞いたときは、さすがに開いた口が塞がらなかったけれど」
クツクツと口元に笑みを浮かべて言う緒凛の言葉に、蝶子は少しだけ大げさではないかと首をかしげる。
そういえば茅も同じような反応をしていたことを思い出し、蝶子は申し訳なさそうに尋ねた。
「あの……私が十五さんの傍に居るのってそんなに可笑しい事ですか?」
「ん?何でまたそういう質問が出てくるんだい?」
「高本先輩にも同じような反応をされましたし……その……ここに一緒に来てからも……あの……」
「視線が痛い?」
言いにくそうにしている蝶子の気持ちを察し、緒凛が付け足すようにいえば蝶子は困ったように小さく頷く。
すると緒凛は何がおかしいのか、また笑いをかみ締めるような顔をして蝶子に言った。
「当然の反応だな。アイツは教師になってからも数ヶ月間、ヤンチャしていたから」
「ヤンチャ?」
「そう、色んな意味でヤンチャ。とっかえひっかえ、毎日違う女と寝ていたような男だから」
何の悪意もなく緒凛がケロリと言えば、蝶子は胸の痛みとともに顔を緩く歪める。
やはり自分は十五に似合っていないのだと納得せざるを得ない身内の意見に、泣きそうになるのを必死にこらえる。
けれど緒凛は詫びる様子も、蝶子の様子に気づく様子もなく、続けるように言った。
「そんな十五が、突然一切の女遊び辞めて。こんな公の場に女と、しかも手を繋いでご登場とは誰もが驚くに決まっている」
緒凛の言葉に、蝶子は「えっ?」と表情を緩ませ、緒凛を食い入るように見つめる。
多分、手を繋いでいたことを噂で聞いたのだろうが、それはこの際どうだっていい。
手を繋ぐこと自体が可笑しい事なのかと首を捻っていれば、緒凛は青空を見上げて仰ぐように静かにつぶやいた。
「少なくとも、十五が今まで女と手を繋いで並んで歩くことなんてなかったし、女と付き合うだなんてこと自体ありえなかった。特定の女を作るなんてしなかったし、どんな女と寝るだけの関係だったとしても、俺達家族に女の名前を教えたのは君が初めてだよ」
淡々と述べられる真実に、蝶子は口をポカンとあけたまま緒凛を凝視した。
納得できるような納得できないような緒凛の意見に、いまいち信憑性がないのが原因だ。
あの人が?
女性と手をつないで歩いたのは自分が初めて?
あんなに気軽に、平然と手を握り締めてくるあの男が、手を繋ぐことが初めてだなんて考えられない。
自分に心配させぬように緒凛が気を使っているようにも見えないし……。
蝶子が怪訝そうな顔をしていると、緒凛は目を細めて慈しむ様に蝶子を見つめた。
「本当に君は細いな。そんな体でアイツの相手は大変だろうが、こちらとしても君に頼らざるを得ないから」
心配そうにする緒凛の表情を見て、蝶子はようやく理解した。
この人は蝶子の心配をしているのではなく、十五自身のことを心配しているのだと。
今まで少しだけ感じていた違和感。
十五の兄として彼を心配しているのだ。
茅がいつか言っていた。
十五は家族の前でも笑わなくなったと。
きっとこの人の前でも十五は笑っていないのだろう。
だからこそこれほどまでに心配をさせているのだ。
彼は家族にこれだけ心配をかけている事を自覚しているのだろうか?
多分、しているけれど素直に慣れないのだろう。
緒凛の切なげな表情に、蝶子は心配をかけないよう笑顔で答えた。
「大丈夫です。十五さん、とても大食いですけど、料理好きですし」
「は?」
真剣に答えたつもりだったが、緒凛からしてみれば的外れだった回答に、彼は思わず唖然とする。
自分は何か間違った事を言っただろうかと蝶子が首をかしげていると、緒凛は口元を手の平で押さえながら、考え込むように蝶子から視線をそらしながらたずねた。
「君……もしかして……十五とまだヤッていないのか?」
「やる?」
緒凛の言葉の意味が理解できず、蝶子が眉をひそめれば、その反応に緒凛は「マジか……」とつぶやいて、それから大層驚いたように蝶子を直視した。
「アイツと付き合い始めてどれくらいだい?」
「多分、まだ一週間も経っていないかと……。でも大体一週間くらいです」
たぶん……そうだ、と蝶子は指折り数えていれば、緒凛は口元に当てていた手を額に当てて再び上を向いた。
「嘘だろ……アイツが我慢してるだって?二日に一度はヤッてたアイツが?傍に女居るのにヤッてない?」
何度も何度も自分自身に問いかけるように、緒凛がブツブツと呟く。
結局「やる」とは何のことを差しているのか、いまいち理解できていない蝶子は、緒凛の反応が心配になってきて、おずおずと緒凛の様子を覗き込んだ。
周囲はザワザワとざわめいている。
それは普通の会場のざわめきと混じりながら、時々視線が緒凛のほうに向けられているのを感じる。
どうしてそんな視線が向けられるのだろうかと蝶子は一瞬首をかしげ、それから茅が教えてくれたことをハタッと思い出した蝶子は、自分の今までの軽い言動に今更ながら焦りだした。
この人、黒澤緒凛は黒澤財閥の次期跡取りであり、現在は黒澤不動産の専務を務めている。
普段ならば会うこともないだろう、高貴な人と話ていると気づいた蝶子は、どうすればいいかとひたすら悩んだ挙句に、微動だにしなくなった緒凛に声を掛けた。
「あ……あの?」
「……居た」
蝶子が声を掛けたと同時に、違う場所から聞きなれた声がする。
振り返れば、少しだけ息を切らした十五が、蝶子のすぐ横で睨むように見下ろしていた。
「なんだ、早かったな」
十五の登場に驚くこともなく、緒凛がそう言えば、十五は無言のまま蝶子を椅子から立ち上がらせて、緒凛を睨む。
緒凛もそんな十五の視線に耐えかねるように、あえて視線を合わせずに立ち上がれば、十五は深くため息を漏らして緒凛に言った。
「人の彼女を拉致するのは辞めて下さい兄さん」
「何だその言い草は。彼女が別の会社の輩に誘われているのを救ったんだ。ある意味俺は救世主だ」
「何が救世主ですか。どうせ蝶子さんにいらないことを色々吹き込んでいたんでしょう」
「色々吹き込まれるような女付き合いをしていたお前が悪いと思うが?」
「それは今年の春までの話です」
「事実は事実だな」
「兄さん」
嗜めるように、十五がサングラスの奥の目を細めながら緒凛を睨めば。
緒凛はどこ吹く風で十五にニッコリと微笑むと、ポンッと肩を叩いて言った。
「お前、我慢してんだって?」
「っ!?兄さん!」
十五が珍しく声を荒げた。
相変わらず表情は無表情に近かったけれど、でもいつもよりは遥かに焦る様子が手に取るようにわかる。
肩に置かれた手を振り払い、今にも掴みかかりそうな十五を見て、蝶子はあわてて二人の間に止めに入った。
「い、いけません喧嘩は。緒凛さんもあまり十五さんの嫌がることをおっしゃらないでください」
ピシャリと言った蝶子の声に、緒凛はマジマジと蝶子を見下ろして。
「蝶子……さん」
「はい?」
「俺のことは気軽に、お兄様と呼んでくれて構わないからね?」
「ぶっ飛ばしますよ兄さん」
「ちっ……」
突然の緒凛の申し出に「えっ?」と声を上げるも、今まで聴いたことのないような十五の低い声にギョッとして。
それから蝶子が居ることを一瞬忘れていたらしく、十五は蝶子を見下ろせば今度は正真正銘、大慌てで弁解をした。
「今のは本心ではありますが、実行には移しませんから安心してください」
そういう意味じゃないだろう……。
蝶子は思わず唖然として、けれど必死さが伝わってくる十五の言葉に、意地悪っぽく笑って答えた。
「実行に移したら、それでこそ十五さんを軽蔑します」
「それだけはご勘弁願います」
初めて十五より自分が優位に立てた気がして、蝶子がクスクスと笑えば。
それをただただ緒凛は唖然と見つめていたのだった。




