第9話
窓の外に広がる王都の夜景から忌々しげに視線を外すと、クロードは執務机に重い体を預け、こめかみに浮いた冷や汗を乱暴に拭い去った。
引き出しから気休めの丸薬を取り出し、水も飲まずに噛み砕く。王宮の厨房を支配したというのに、原因不明の胃の痛みは一向に治まる気配がなかった。
同じ夜。王都から遠く離れた辺境の宿場町では、小さな食堂が穏やかな空気に包まれていた。
閉店後の薄暗い店内。ランプの灯りが、テーブルの上に置かれた木の実と根菜の薬膳粥を柔らかく照らしている。
リリィは両手で器を包み込み、深く息を吸い込んだ。辺境特有の野草が放つ、少し土臭くて優しい香りが鼻腔をくすぐる。
彼女は胸元から、大切にしている古びた銀の匙を取り出した。持ち手の部分に精巧な紋章が刻まれたそれは、彼女が親から唯一受け継いだものだ。
銀の匙で粥をすくい、ゆっくりと口へ運ぶ。
じんわりとした熱が舌の上で解け、喉を通って胃の腑へと落ちていく。途端に、体の奥底で燻っていた鈍い痛みが、春の雪解けのようにすっと消え去った。
魔力器官の欠陥による、長年の苦痛。それが嘘のように引いていく。
「……痛くない」
ぽつりと漏らした声は、震えていた。
リリィの大きな瞳から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。孤児として泥水をすすり、誰からも疎まれながら生きてきた日々。もう二度と、あんな惨めな思いはしなくていいのだ。
「鍋にはまだたっぷりある。泣きながら食べるのは、行儀が悪いぞ」
向かいの席に座るギルバートが、腕を組みながらぶっきらぼうに言った。だが、その声色はどこまでも温かい。
「うん……っ、ごめんなさい。でも、すごく温かくて……」
リリィは袖口で乱暴に涙を拭った。
ギルバートは、無心に粥をかき込む少女の姿を静かに見つめていた。
宮廷の豪奢な晩餐では、誰も料理そのものなど見ていなかった。権力闘争の道具として消費され、流行にそぐわないと切り捨てられた過去。
だが今は違う。目の前で、自分の作った素朴な料理が、一人の少女の心と体を確実に救っている。
長年忘れていた、料理人としての純粋な喜び。それが、ギルバートの胸の奥で静かに息を吹き返していた。
数日後。宿場町の朝は、活気に満ちていた。
ギルバートの食堂は、開店と同時に多くの客で賑わうようになっていた。冒険者や商人、近隣の住民たちが、湯気を立てる定食を求めて列を作っている。
「よう、親父さん。今日も頼むぜ。ここの飯を食うと、昔負った古傷が全然痛まねえんだ」
「あたしもよ。魔力欠乏で倒れかけてたのに、昨日のスープを飲んだら一発で治っちまった」
客たちの間で、そんな会話が日常的に交わされるようになっていた。
ギルバートが隠し味に使っている辺境特有の野草。それは、過酷な環境で育つがゆえに強烈な生命力を秘めている。適切な下処理と調理法を用いれば、薬以上の効能を発揮するのだ。
『万病を治し、魔力欠乏すら完治させる奇跡の料理人』
そんな大げさな噂が、風に乗って町中に広まるのに時間はかからなかった。
そして、その噂はついに、この地を治める権力者の耳にも届くことになる。
町から少し離れた小高い丘の上。重厚な石造りの辺境伯の館では、重苦しい沈黙が支配していた。
豪華な天蓋付きのベッドに横たわるのは、十代半ばの可憐な令嬢。だが、その顔色は蝋のように蒼白く、呼吸は浅い。
「今日も、一口も召し上がらなかったのか」
初老の辺境伯が、苦渋に満ちた声で尋ねた。
傍らに控える侍女が、悲痛な面持ちで首を振る。
「はい。王都から呼び寄せた高名な医師の薬も、腕利きの料理人が作った滋養のあるスープも、すべて吐き戻してしまわれました」
辺境伯は深くため息をつき、頭を抱えた。
原因不明の病。数週間前から突然食欲を失い、今では水すらまともに喉を通らない。このままでは、娘は衰弱して命を落としてしまう。
「旦那様」
部屋の扉が開き、側近の騎士が足早に入ってきた。
「町で奇妙な噂を耳にしました。どんな病も治してしまう、奇跡の料理人がいると」
「なんだと? それは真実か」
「真偽のほどは定かではありません。ですが、冒険者たちの間では、古傷や魔力欠乏が治ったと専らの評判です」
辺境伯は顔を上げ、ベッドの上の娘を見つめた。
もはや、手段を選んでいる余裕はない。
「すぐに使いを出せ。その料理人を、何としてもここへ連れてくるのだ」
翌日の昼下がり。昼のピークを過ぎ、食堂の客足が落ち着いた頃だった。
カラン、と入り口のベルが鳴り、身なりの良い初老の男が店に入ってきた。仕立ての良い外套に、磨き上げられた革靴。明らかにこの辺りの住人ではない。
「ようこそ。お一人ですか?」
リリィが明るい声で出迎えるが、男は周囲を鋭く見回し、厨房の奥に立つギルバートに歩み寄った。
「あなたが、この店の店主か」
「いかにも。だが、今は仕込みの時間だ。食事なら他を当たってくれ」
ギルバートは包丁の手を止めず、冷淡に返した。男の纏う空気から、面倒事の匂いを感じ取っていたからだ。
男は姿勢を正し、深く頭を下げた。
「無礼を承知でお願いに参りました。私は辺境伯家に仕える家令です。どうか、当家の令嬢のために料理を作っていただけないでしょうか」
ギルバートの眉が微かに動く。
権力者との関わりは、彼が最も避けたかったことだ。宮廷でのしがらみに嫌気がさし、この辺境までやってきたのだから。
「断る。私はただの食堂の親父だ。出張料理などやっていないし、貴族の口に合うような華やかな皿は作れん」
「そこを曲げてお願いしたい! 報酬はいくらでもお支払いします。お嬢様は原因不明の病に伏せ、もう何日も食事をとられていないのです。このままでは……」
家令の悲痛な叫びが、店内に響き渡る。
ギルバートは無言でまな板の上の野菜を見つめた。
食材を粗末にすることは許せない。だが、それ以上に、権力者の気まぐれに振り回され、自分の料理が再びただの道具に成り下がることは耐え難かった。
「帰ってくれ」
短く告げ、再び包丁を握り直そうとした時だった。
「おじさん」
エプロン姿のリリィが、ギルバートの袖をきゅっと掴んだ。
彼女の瞳は、家令の切羽詰まった表情を真っ直ぐに見つめている。
「助けてあげてほしいな。ご飯が食べられないのって……すごく、すごく辛いから」
孤児として飢えに苦しんできたリリィの言葉には、重い実感がこもっていた。彼女は、誰かが食べられずに苦しんでいるのを、見過ごすことができなかったのだ。
ギルバートは小さく息を吐き、包丁を置いた。
「……厨房の自由を完全に保証すること。そして、私が指定した食材をすべて揃えること。それが条件だ」
家令の顔に、ぱっと希望の光が差した。
「ありがとうございます……! すぐに馬車を手配いたします」
何度も頭を下げながら店を出ていく家令の背中を、ギルバートは静かに見送った。
「よかったの、おじさん」
「お前が引き受けろと言ったんだろう。それに、腹を空かせている客を追い返すのは、料理人の名折れだからな」
ギルバートはぶっきらぼうに言い捨て、出張用の調理器具をまとめ始めた。
だが、彼の胸中には微かな疑念が渦巻いていた。
先ほどの家令の態度は、単なる病人を案じるものにしては、あまりにも焦燥感が強すぎた。まるで、見えない何かに怯えているかのように、彼の手は微かに震えていたのだ。
一切の食事を受け付けなくなる病。
それが単なる風邪や疲労ではないことは、長年宮廷で様々な陰謀や毒を見てきたギルバートの直感が告げていた。
令嬢を苦しめる病の正体とは、一体何なのか。
辺境の穏やかな空気に、微かな不穏の影が忍び寄っていた。




