第8話
男たちは、空になった皿を見つめながら、ただ声を上げて泣き続けていた。
「すまなかった……本当に、俺たちが浅ましかった」
恰幅の良い男が、袖口で乱暴に涙を拭いながら頭を下げた。彼は近隣で食堂を営む店主だった。彼らは最近、王都から来たという行商人から、相場より安いという理由で大量の食材を買い込んでしまったのだという。
だが、それは筋張って硬い老獣の肉と、水分が抜けきったしなびた野菜の山だった。まともな料理にならず、客足は遠のき、店は傾きかけていた。そんな折に、ギルバートの店が大繁盛しているのを見て、嫉妬と焦りから嫌がらせに及んだのだと白状した。
「その食材、私が買い取ろう」
ギルバートは静かに告げた。男たちは驚きに目を丸くする。
「正気か? あんなゴミみたいな肉と野菜だぞ。あんたの店の評判まで落ちちまう」
「食材に罪はない。扱い方次第で、どうにでもなるものだ」
ギルバートの言葉に嘘はなかった。翌朝、裏口に運び込まれたのは、確かにひどい有様の食材だった。肉は赤黒く変色し、野菜は表面がひび割れている。
リリィが心配そうに木箱を覗き込んだ。
「ギルバート、これ、本当にお料理になるの?」
「見ていなさい」
ギルバートは腕まくりをし、硬い肉の塊をまな板に置いた。
「まずは筋を断ち切る。そして、このハーブだ」
包丁の峰で叩いて柔らかくした肉に、すり潰したハーブを揉み込んでいく。
指先に微かな魔力を集め、肉の繊維の奥深くまで薬効成分を浸透させる。これは王宮では決して見せなかった、彼独自の魔力調理法だった。
しなびた野菜は、ぬるま湯に少量の塩とハーブを加えてじっくりと戻す。水分を吸ってふっくらと蘇った野菜を、大きめに切り分けた。
それらを大鍋に入れ、弱火でじっくりと煮込んでいく。数時間後、厨房には食欲をそそる濃厚な香りが満ちていた。
昼時になり、店を開けると、香りに誘われた客たちが次々と席を埋めていった。
「今日のまかないシチューだ」
ギルバートが差し出した深皿には、琥珀色のスープの中で、とろけるように柔らかくなった肉と、鮮やかな色を取り戻した野菜が輝いていた。
一口食べた客たちの顔に、驚愕の色が浮かぶ。
「なんだこれ、肉が口の中で溶けるぞ!」
「野菜も甘い……こんな美味いシチュー、食べたことがない」
謝罪に訪れていた同業者の男たちも、カウンターの隅でシチューを口に運び、再び涙ぐんでいた。自分たちが見捨てた食材が、ここまで極上の料理に昇華されたことに、ただ打ちのめされていた。
店はかつてないほどの活気に包まれていた。リリィは空になった皿を次々と片付け、客席を飛び回る。
だが、その平穏は唐突に破られた。
「おい、いつまで待たせる気だ!」
入り口近くのテーブルに陣取っていた、身なりの荒んだ男が空のジョッキを乱暴に叩きつける。
「申し訳ありません、すぐにお持ちします!」
リリィが慌てて駆け寄るが、男は彼女を冷ややかな目で見下ろした。
「孤児のくせに、小綺麗な格好をして生意気な。どうせ、どこかで盗んだ金で店を開いたんだろう」
男の言葉が、リリィの耳に突き刺さる。
彼女の足がピタリと止まった。手にした布巾が、床に滑り落ちる。
孤児。盗んだ。生意気。
かつて、彼女が家を追われた日に投げつけられた言葉の数々が、脳裏にフラッシュバックした。
リリィは没落した貴族の生まれだった。だが、生まれつき魔力器官に欠陥があり、一族の恥として冷たい言葉とともに放逐された。泥水をすすり、残飯を漁って生き延びてきた惨めな記憶が、どろどろと溢れ出してくる。
私は、ここに居ていい人間じゃない。
呼吸が浅くなり、視界がぐらりと揺れた。胸の奥、魔力器官のある場所が焼け付くように痛み出す。
「リリィ!」
ギルバートの声が聞こえた気がしたが、彼女の体は糸が切れたように床へ崩れ落ちた。
「……ん」
リリィが目を覚ますと、そこは店の奥にある彼女の小さな部屋だった。窓の外はすでに暗く、夜の冷気が漂っている。
胸の奥には、まだ鈍い痛みが残っていた。魔力器官の欠陥による発作だ。
部屋の扉が静かに開き、ギルバートが盆を手に入ってきた。
「気がついたか」
「ギルバート……お店は?」
「今日はもう閉めた。臨時休業だ」
ギルバートはベッドの脇に丸椅子を引き寄せ、盆を置いた。そこには、湯気を立てる白い粥がよそわれた椀があった。
「食べられるか」
リリィはゆっくりと身を起こした。椀からは、微かに甘く、どこか懐かしい香りが漂ってくる。
「これは……?」
「お前のための、特製薬膳粥だ」
ギルバートはスプーンをリリィに手渡した。
それは、魔力回路の修復と体質改善を促す、幻の薬膳料理だった。辺境の森の奥深くでしか採れない希少な根菜をすりおろし、魔物から取れた滋養豊かな出汁で何時間もかけて炊き上げている。
リリィは震える手でスプーンを握り、一口分をすくって口へ運んだ。
温かく、優しい味がした。
すりおろされた根菜の甘みが、荒れた胃の粘膜を優しく包み込む。飲み込んだ粥が食道を通って胃に落ちると、そこからじんわりと温かな力が全身に広がっていくのがわかった。
胸の奥の痛みが、嘘のように引いていく。
「美味しい……」
ぽつりと呟いたリリィの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「私、足手まといじゃないかな。あんな風に倒れて、お店の邪魔をして……」
「馬鹿なことを言うな」
ギルバートのぶっきらぼうな声が、部屋に響いた。
「お前はうちの看板娘だ。お前がいなければ、この店は回らない」
彼は椀を見つめたまま、静かに言葉を継いだ。
「客が何を言おうと関係ない。お前は、出されたものを誰よりも美味しそうに食べる。それだけで、料理人にとっては十分すぎるほど価値があるんだ」
リリィは顔を上げた。ギルバートの目は、いつものように穏やかで、深い包容力に満ちていた。
私はもう、一人じゃない。
泥水をすすっていたあの頃とは違う。ここには、温かい料理と、私を必要としてくれる人がいる。
リリィは袖で乱暴に涙を拭い、椀を両手で包み込んだ。
「おかわり、ある?」
鼻声で尋ねる彼女の顔には、いつものちゃっかりとした笑顔が戻っていた。
ギルバートは短く息を吐き、口元に微かな笑みを浮かべた。
「鍋にたっぷり作ってある。全部平らげても構わんぞ」
辺境の小さな食堂が、温かな粥の湯気と穏やかな空気に包まれていた頃。
遠く離れた王都の宮廷では、重苦しい空気が漂っていた。
「……くっ」
豪奢な料理長室で、クロードは腹部を押さえて顔をしかめた。胃の奥底から込み上げてくる、焼け付くような鈍い痛み。最近、この原因不明の胃痛が頻繁に彼を襲うようになっていた。
机の上には、貴族たちからの苦情を記した書状が山のように積まれている。
『見た目は華やかだが、味が濃すぎる』
『食後に胃もたれがする』
『ギルバートの料理の方が、体に馴染んだ』
クロードは苛立たしげに書状を床に叩きつけた。
「素人が……私の芸術的な料理を理解できないだけだ」
彼は荒い息を吐きながら、痛む胃をさする。
王宮の厨房では、今日も大量の香辛料が計量され、刺激的な匂いが充満しているはずだった。だが、その華やかな晩餐の裏で、確実に何かが狂い始めていた。
王宮で、一体何が起きているのか。
クロードは冷や汗を拭いながら、暗く沈んだ目で窓の外の夜景を睨みつけていた。




