第7話
「この味は……まさか」
男は血相を変え、厨房の奥に立つギルバートの背中を凝視した。辺境の小さな食堂に、新たな波乱の足音が近づいていた。
男は震える手でスプーンを置き、懐から銀貨を数枚取り出してテーブルに叩きつけた。
「釣りはいい!」
それだけ叫ぶと、逃げるように店を飛び出していく。バタンと乱暴に閉まった扉を、リリィが目を丸くして見つめていた。
「……変なお客さんでしたね。お口に合わなかったんでしょうか」
「いや、残さず食べていた。気にするな」
ギルバートは布巾で調理台を拭き上げながら、静かに首を振った。王都の商人らしき身なり。もしかすると、宮廷時代の自分を知る者だったのかもしれない。だが、今の彼には関係のないことだった。目の前の客が満足して帰ったのなら、それで十分だ。長年縛られていた権威や名声など、この辺境の食堂には持ち込みたくなかった。
夜も更け、そろそろ看板を下ろそうかという頃。
重い足取りで扉が開いた。
「こんばんは……まだ、開いてるかな」
入ってきたのは、冒険者ギルドの制服を着た若い女性だった。肩を落とし、足元はおぼつかない。目の下には濃いクマが張り付き、肌はカサカサに荒れ果てている。手には分厚い書類の束が抱えられていた。荒くれ者の冒険者たちのクレーム処理に追われ、心身ともに限界を迎えているのは明らかだった。
「どうぞ、お好きな席へ!」
リリィが明るく案内する。女性は力なく椅子に沈み込むと、テーブルに突っ伏した。
「ギルドの仕事が立て込んでて、三日徹夜なの……。何か、胃に優しくて温かいものをちょうだい」
ギルバートは彼女の顔色と、浅い呼吸を観察した。極度の疲労と睡眠不足。交感神経が張り詰め、胃腸の働きも落ちている。
彼は無言で頷き、厨房の奥から小ぶりな鍋を取り出した。
使うのは、地元の猟師から安く仕入れた魔物肉のすじ肉。時間をかけて煮込み、ゼラチン質がたっぷりと溶け出した極上のスープベースだ。そこに、辺境の岩場に自生する独特の香草を刻んで加える。この香草は、王都では見向きもされない雑草だが、高ぶった神経を鎮め、血流を促す強い薬効がある。
ギルバートは手際よく香草を刻み、絶妙な火加減でスープを温め直す。沸騰させず、香りが一番引き立つ温度を保つ。火にかけると、ふわりと爽やかな香りが店内に広がった。
「お待たせしました。特製のスープです」
リリィが湯気を立てる深皿を運ぶ。
女性は重い瞼を持ち上げ、スプーンを口に運んだ。
「……あ」
一口飲んだ瞬間、彼女の強張っていた肩の力がふっと抜けた。
とろみのあるスープが、冷え切った胃の腑にじんわりと染み渡っていく。魔物肉の濃厚な旨味を、香草の清涼感がさっぱりとまとめ上げている。
「美味しい……それに、なんだか体がポカポカしてきた」
二口、三口と進めるうちに、彼女の青白かった頬に赤みが差してきた。張り詰めていた糸が切れたように、目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「私、ずっと怒鳴られてばかりで……でも、これ、すごく優しい味がする」
「ゆっくり召し上がれ。今日はもう、休むといい」
ギルバートの短い言葉に、彼女は何度も頷きながら、最後の一滴までスープを飲み干した。
翌日の昼時。
「ギルバートさん! 大変です!」
市場へ買い出しに行っていたリリィが、血相を変えて飛び込んできた。
「どうした。忘れ物か」
「違います! お店の外、見てください!」
ギルバートが窓から外を覗くと、そこには長蛇の列ができていた。しかも、その大半が女性客やギルドの職員たちだ。
列の先頭には、昨晩の受付嬢が立っていた。彼女の顔を見て、ギルバートもわずかに目を細めた。
昨夜のクマはすっかり消え去り、肌は内側から発光しているようにツヤツヤと輝いている。
「見てよこれ! あのスープを飲んで一晩ぐっすり寝たら、お肌が信じられないくらい若返ったの! しかも、魔力の巡りまで良くなってて!」
彼女の熱烈な演説に、並んでいる女性たちが興奮気味に頷いている。
「さあ、開けてちょうだい! 私たちもその特製スープを飲みたいの!」
「……リリィ、仕込みの鍋をもう二つ出せ。忙しくなるぞ」
「はいっ!」
その日のまかない食堂は、かつてない大繁盛となった。
ギルバートは次々と入る注文に対し、一切の手抜きなく応え続けた。身分も事情も関係ない。目の前の客が何を求めているかを見極め、一人一人の体調に合わせて塩加減や香草の量を微調整しながら、最適な状態で料理を提供する。
厨房を舞うように動きながら、ギルバートの胸の奥には確かな熱が灯っていた。自分の料理が、人々の心と体を満たしている。ただ腹を膨らませるだけの餌ではない。本当に作りたかった料理が、ここにある。
しかし、急激な繁盛は、予期せぬ摩擦を生む。
数日後の朝。リリィが空の籠を抱えて、肩を落として帰ってきた。
「……ごめんなさい。お肉も野菜も、売ってもらえませんでした」
「どういうことだ」
「市場の商人さんたちが、うちには卸さないって。近所の大きな料理屋の旦那さんたちから、きつく止められてるみたいで……」
リリィの声が震えている。彼女が大切にしている居場所が、理不尽な悪意に晒されているのだ。
その時、店の外でガシャーンと派手な音が響いた。
慌てて外に出ると、店の入り口に生ゴミがぶちまけられていた。腐った野菜の強烈な悪臭が鼻を突く。少し離れた路地の陰から、ニヤニヤと笑いながらこちらを窺う男たちの姿が見える。近隣の食堂の店主たちだ。
「なっ……なんてことするのよ!」
リリィが顔を真っ赤にして駆け出そうとする。彼女の脳裏に、かつて路地裏でゴミのように扱われた記憶がフラッシュバックしているのがわかった。泥水をすすり、誰からも見向きもされなかった惨めな日々。その記憶が、彼女の心を激しく揺さぶっていた。
ギルバートは無言で彼女の肩を掴み、引き留めた。
「ギルバートさん! あいつら、許せない!」
「リリィ。厨房を清潔に保つのが、私たちの仕事だ。掃除を手伝ってくれ」
「でも……!」
「いいから」
ギルバートの静かで揺るぎない声に、リリィは唇を噛み締めながら頷いた。
ゴミを片付け終えた後、ギルバートは厨房の隅にある木箱を開けた。
そこに入っているのは、昨日までに使い切れなかった野菜の切れ端や、筋が多くて硬い肉の端材だ。新鮮な食材は手に入らない。だが、彼にとってそんなものは些細な問題だった。
ギルバートは包丁を手に取り、硬い肉の筋を丁寧に断ち切っていく。野菜の皮や芯は捨てずに鍋に入れ、じっくりと出汁をとる。食材の命を一切無駄にしない。それが彼の譲れない価値観だった。
「リリィ、表にいる彼らを中へ案内してきなさい」
「えっ? あの人たちをですか?」
「そうだ。腹が減っているから、あんな真似をするんだ」
リリィは不満そうに頬を膨らませたが、ギルバートの指示には逆らわず、外へ向かった。
しばらくして、三人の男たちが警戒した様子で店に入ってきた。
「なんだよ。文句があるなら言ってみろ」
一番恰幅の良い男が、威圧するように腕を組む。
ギルバートは彼らを席に座らせると、無言で三つの皿をコトリと置いた。
「……なんだこりゃ」
皿の上には、色とりどりの野菜と肉が煮込まれた、素朴な料理が盛られていた。
「余り物のまかないだ。食べていけ」
「ふざけるな! 俺たちにゴミを食わせる気か!」
男が立ち上がろうとした瞬間、皿から立ち上る香りが彼の鼻腔をくすぐった。
素材の甘みを凝縮したような湯気に当てられ、男は中腰の姿勢のまま動きを止めた。
男は無意識に唾を飲み込み、スプーンを手に取った。
警戒しながら一口分をすくい、口へ運ぶ。
その瞬間、男の動きが止まった。
硬いはずの端肉は、舌の上でほろりと崩れた。野菜の切れ端からは、信じられないほどの甘みが溢れ出す。それらが一体となり、深い旨味となって口いっぱいに広がっていく。
「……っ」
男は二口、三口と、取り憑かれたようにスプーンを動かし始めた。他の二人も、それに釣られるように皿にがっつく。
店内に、スプーンが皿に当たるカチャカチャという音だけが響き渡った。
やがて、恰幅の良い男の手がピタリと止まった。
彼の目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちていた。
「おい、どうしたんだよ……」
仲間の男が声をかけるが、彼自身もまた、頬を濡らしていることに気づいていなかった。
男たちは、空になった皿を見つめながら、ただ声を上げて泣き続けていた。彼らはなぜ、これほどまでに涙を流しているのか。




