第10話
馬車の車輪が石畳を叩く音が止み、重厚な鉄格子がゆっくりと開かれた。
辺境伯邸は、宿場町の外れにある小高い丘の上に建っていた。質実剛健な石造りの外観は、王都の華美な宮殿とは対極にある。だが、手入れの行き届いた庭園や、磨き上げられた窓ガラスからは、領主の確かな威厳が感じられた。
ギルバートは調理器具の詰まった革鞄を提げ、馬車を降りた。
隣では、リリィが目を丸くして巨大な館を見上げている。彼女の小さな手が、無意識にギルバートの袖口をきゅっと掴んだ。
「緊張することはない。私たちはただ、料理を作りに来ただけだ」
「う、うん。わかってるけど、こんな立派な場所に入るの、初めてだから」
出迎えた家令の案内で、二人は館の奥へと進む。廊下は静まり返っており、すれ違う使用人たちの顔には一様に深い疲労と焦燥が刻まれていた。
通されたのは、二階の奥にある豪奢な客間だった。
そこにはすでに先客がいた。純白のローブを身にまとった数人の男女だ。胸元には、王都の治癒院に所属することを示す銀の紋章が輝いている。
彼らはギルバートの質素な身なりと、手にした革鞄を一瞥すると、あからさまに眉をひそめた。
「家令殿。まさか、この薄汚れた老人が、例の料理人ですか」
リーダー格らしい、金髪を撫でつけた若い男が冷ややかに言い放つ。
「たかが料理人に何ができるというのです。我々エリート治癒術師が最高位の回復魔法を施しても、令嬢の衰弱は止まらないのですよ。それを、鍋と包丁で治そうなどと、正気の沙汰とは思えない」
男の背後に立つ者たちも、同調するように鼻で笑った。
王都の権威を笠に着た、傲慢な態度。宮廷時代に嫌というほど見てきた貴族たちの顔と重なる。
ギルバートは表情を変えなかった。彼らの挑発に乗る気は毛頭ない。
「魔法で治せないのなら、別の手段を試すしかないだろう」
淡々と告げ、ギルバートは家令に向き直った。
「患者の元へ案内してくれ。無駄話に付き合っている暇はない」
「なっ……! 貴様、我々を愚弄する気か!」
激昂する治癒術師を無視し、ギルバートは歩き出す。家令は慌てて彼らの間に入り、頭を下げながらギルバートを先導した。
重い樫の扉が開かれる。
寝室の中は、ひんやりとした空気に満ちていた。窓のカーテンは引かれ、薄暗い部屋の奥に、天蓋付きの大きなベッドが置かれている。
そこに横たわる少女は、雪のように青白い顔をしていた。
年齢はリリィと同じくらいだろうか。頬はこけ、呼吸はひどく浅い。生命の灯火が今にも消え入りそうだった。
ギルバートはベッドの傍らに立ち、静かに観察を始めた。
皮膚の乾燥具合。唇の微かな変色。そして、部屋に漂う独特の甘い香り。
(これは……)
長年、王宮で数々の陰謀や毒味を経験してきた記憶が、脳内で急速に結びついていく。
単なる病ではない。
「家令殿。令嬢は最近、森の奥へ出向いたことはないか」
「えっ? はい、ひと月ほど前、珍しい花を摘みに行きたいと、護衛を連れて領地の北の森へ……。それが何か?」
「やはりな」
ギルバートは確信を得て、小さく頷いた。
「これは病ではない。辺境特有の微量な魔力毒の蓄積だ」
「魔力毒……!?」
家令が息を呑む。背後で控えていたリリィも、不安げに身を乗り出した。
「空気中や植物に含まれる微弱な毒素が、時間をかけて体内に蓄積されたのだろう。それが内臓の機能を著しく低下させ、あらゆる食物を受け付けなくしている」
魔法による外からの治癒では、体内に根を張った毒を完全に追い出すことはできない。むしろ、強引な魔力の注入が内臓に負担をかけ、衰弱を早めていた可能性すらある。
体内から毒を中和し、機能を回復させる「食」のアプローチが不可欠だった。
「治せるのですか……?」
すがるような家令の問いに、ギルバートは腕を組んだ。
「原因はわかった。だが、普通の食材では太刀打ちできない」
彼は頭の中で、必要な食材のリストを組み立てていく。
「この毒を中和するには、強い生命力を持つ特定の魔物の肉と、辺境にしか生えない特別な草が必要だ」
「特別な草、ですか」
「私が普段、料理の隠し味に使っているものだ。だが、手持ちの乾燥葉では効力が足りない。生の状態で、しかも根の部分が必要になる」
その草は、辺境の気候でしか育たない。ギルバートが王都を離れ、この宿場町を第二の人生の地に選んだ真の理由でもあった。
「すぐに手配いたします! 兵を出して、森を捜索させましょう」
「いや、素人には見分けがつかない。それに、鮮度が命だ。私が自ら採取に向かう」
ギルバートの言葉に、家令は目を丸くした。
「しかし、北の森は危険です。魔物も出没しますし、何より料理長殿に万が一のことがあれば……」
「客を救うためなら、厨房を出るのも料理人の仕事だ」
ギルバートは革鞄から使い慣れたナイフを取り出し、腰のベルトに吊るした。
「私も行きます!」
不意に、リリィが声を上げた。
彼女の瞳には、強い意志が宿っていた。
「足手まといにはなりません。私、鼻も利くし、森を歩くのには慣れてます。少しでも役に立ちたいんです」
孤児として過酷な環境を生き抜いてきた彼女は、ただ守られるだけの存在ではない。受けた恩には必ず報いるという、彼女なりの譲れない価値観があった。
ギルバートは少し考え、頷いた。
彼女の絶対味覚と鋭い嗅覚は、森での食材探しにおいて大きな助けになるかもしれない。
「いいだろう。だが、私のそばを離れるなよ」
「はいっ!」
二人は足早に館を後にした。
背後から、治癒術師たちの嘲笑が聞こえたような気がしたが、振り返ることはしなかった。
領地の北に広がる鬱蒼とした森へ到着した二人は、すぐさま薬草の探索を開始した。
そこは、昼間でも薄暗く、未知の危険が潜む領域だ。
冷たい風が木々を揺らし、葉擦れの音が不気味に響く。
ギルバートは腰のナイフの柄に手を当て、深く息を吸い込んだ。
幻の解毒食材を求めて、二人は険しい辺境の森へと足を踏み入れる。
果たして、令嬢の命を繋ぐ食材を、無事に見つけ出すことができるのだろうか。




