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第11話

冷たい風が木々を揺らし、葉擦れの音が不気味に響く。

昼間でも薄暗い辺境の森の奥深くへ、ギルバートとリリィは足を踏み入れていた。足元はぬかるみ、張り出した木の根が歩みを阻む。


「こっちです、ギルバートさん。湿った土の匂いに混じって、少しツンとする香りがします。それと……ひどく生臭い獣の臭いも」


孤児として過酷な環境を生き抜いてきた彼女の鋭い嗅覚は、森の微かな変化を正確に捉えていた。ギルバートは無言で頷き、彼女の指差す方角へ慎重に足を進める。


鬱蒼とした茂みを抜けると、突然視界が開けた。

そこでは、地元の猟師たちが数人がかりで巨大な魔獣を取り囲んでいた。背中に毒々しい紫色の棘を生やした、大猪のような魔物だ。猟師たちが長い槍で牽制しているが、分厚い皮膚に阻まれて致命傷を与えられずにいる。荒い息遣いと怒声が飛び交い、現場には濃密な死の気配が漂っていた。


あれこそが、令嬢の身体を蝕む微量な魔力毒の元凶。そして同時に、解毒のための特効薬となる部位を持つ獲物だった。


「下がっていろ」


ギルバートはリリィに短く告げると、腰の包丁を抜き放ち、静かに踏み込んだ。


猟師の一人が放った槍を魔獣が弾き飛ばし、体勢を崩したわずかな隙。ギルバートの身体が滑るように獲物の懐へ潜り込む。

力任せに斬りつけるのではない。長年の経験で培われた眼力が、魔獣の筋肉の繊維と関節の隙間を正確に見極めていた。


銀の刃が閃く。


抵抗らしい抵抗もなく、魔獣の巨体がぐらりと揺れた。急所を的確に貫かれ、声を発する間もなく地に伏す。

ギルバートはすぐさま血抜きに取り掛かった。毒袋を傷つけないよう慎重に、かつ迅速に刃を滑らせる。鮮血が土を染める前に、必要な処置はすべて終わっていた。


「なんて手際だ……。あんた、ただの料理人じゃないのか?」


猟師の一人が、呆然と呟く。


「食材を粗末にしないためには、手早く処理する必要があるだけだ」


ギルバートは短く答え、彼らの協力を得て極上の薬膳肉となる部位だけを切り出した。

さらに、リリィが見つけ出した辺境特有の雑草を大量に採取する。彼女は植物の繊維を傷つけないよう、完璧な状態で葉を摘み取っていた。必要なものはすべて揃った。二人は急ぎ館へと踵を返す。



辺境伯邸の厨房に戻ると、王都から招かれた治癒術師が不機嫌そうに腕を組んで待ち構えていた。家令がオロオロとその後ろに控えている。


「紫棘猪の肉だと? その毒素が令嬢の臓腑を破壊するぞ。正気の沙汰ではないな」


嘲笑を含んだ言葉が投げかけられるが、ギルバートは意に介さない。彼は黙々と調理台に向かい、持ち帰った食材を広げた。


魔物の肉は特有の臭みと、微かな毒性を帯びている。これを中和し、薬効に反転させなければならない。

採取した雑草を細かく刻み、肉に揉み込んでいく。辺境の気候でしか育たないこの植物こそが、料理の要だった。


下ごしらえを終えたギルバートは、周囲に誰も近づかないよう手で制し、そっと指先を振った。


「『清浄』」


淡い光が厨房を満たす。

それは単なる汚れ落としの魔法ではない。食材の不純物を取り除き、ポテンシャルを極限まで引き出すための繊細な魔力操作だ。

圧倒的な清浄の魔力が放たれ、肉に纏わりついていたどす黒い気が、澄んだ輝きへと変わっていく。


治癒術師は目を見開き、言葉を失った。口をパクパクと動かすが、声が出ない。彼の信じていた常識が、目の前で音を立てて崩れ去っていた。


鍋から立ち上る香りは、王宮の厨房を支配していた暴力的な香辛料のそれとはまるで違っていた。五臓六腑に染み渡るような、深く穏やかな薬膳の香り。

横に立つリリィが、たまらないといった様子で喉を鳴らしている。


「完成だ」


澄んだスープ、柔らかく煮込まれた肉、そして香草を添えた粥。

奇跡の解毒薬膳コースが、盆の上に並べられた。



令嬢の寝室は、重苦しい空気に包まれていた。

長年の闘病生活を物語るように、部屋の隅々まで薬の匂いが染み付いている。

家令が心配そうに見守る中、ギルバートはベッドの脇に盆を置いた。


青白い顔をした令嬢は、最初は気乗りしない様子だった。だが、スープの香りを嗅いだ途端に瞳へ微かな光が宿る。

震える手で匙を持ち、一口すする。


たちまち、彼女の頬に赤みが差した。


「……あたたかい」


次々と料理を口に運び、みるみるうちに皿が空になっていく。

食欲を取り戻した令嬢は、長年寝たきりだったにもかかわらず、自らの足でベッドから立ち上がった。


「身体が、軽い……。こんなに力が入るなんて」


極上の味わいと身体の奥から湧き上がる温かさに、令嬢の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。

家令は泣き崩れ、周囲の者たちも歓喜の声を上げた。治癒術師すらも、信じられないものを見る目で立ち尽くしている。


だが、歓喜の渦の中で、ギルバートだけは静かに目を伏せていた。


令嬢の笑顔を見るほどに、彼の胸の奥に冷たい泥のようなものが沈んでいく。

王宮での日々が脳裏をよぎった。若き王の隠された体質を庇い、あえて地味な食事を作り続けた日々。そして、時代遅れだと蔑まれ、追放された自分。


今頃、王宮では新料理長による刺激の強い香辛料が乱用され、味覚障害や内臓疾患が蔓延し始めているはずだ。


(私がもっとうまく立ち回っていれば。正しい食事のあり方を、王宮の者たちに理解させることができていれば……)


目の前の命を救えたという事実は、過去に救えなかった、あるいは今まさに蝕まれている命への無力感を浮き彫りにするだけだった。

自分の料理は、本当に誰かを救えているのだろうか。ただ目の前の小さな世界で、自己満足に浸っているだけではないのか。


「やりましたね、ギルバートさん!」


リリィが嬉しそうに袖を引く。


「……ああ。そうだな」


短く応える声は、ひどく掠れていた。


歓喜に包まれる館の中で、老料理人は過去の亡霊に囚われ、静かな不安を抱え込んでいた。

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