第12話
歓喜に包まれる館の中で、老料理人は過去の亡霊に囚われ、静かな不安を抱え込んでいた。
「ギルバート殿。いや、ギルバート先生」
重厚な絨毯を踏みしめ、辺境伯が歩み寄ってくる。その目には大粒の涙が浮かび、威厳ある顔をくしゃくしゃに歪ませていた。彼はギルバートの両手を固く握りしめ、深く頭を下げる。
「娘の命を救っていただいたこと、いかほど感謝しても足りぬ。我が領地の専属料理長として、最高の待遇で迎え入れたい。報酬は望むままだ。どうか、どうか我が家のために……」
周囲の家臣たちも、固唾を呑んでギルバートの口元を見つめている。辺境伯の背後では、執事がすでに分厚い契約書らしき羊皮紙を抱えて待機していた。
だが、ギルバートの心は冷え切ったままだった。
(私がもっと早く、正しい食事のあり方を示せていれば)
王宮で倒れていく者たちの幻影が、辺境伯の顔に重なる。目の前の命を救えたからといって、過去の失敗が帳消しになるわけではない。自分は、権力者の庇護の下で安穏と料理を作る資格などないのだ。
ギルバートは静かに、しかし力強く辺境伯の手を解いた。
「過分なお言葉、痛み入ります。ですが、私はただの食堂の親父です。気取った晩餐を作るより、腹を空かせた客に温かい飯を出す方が性に合っておりまして」
「しかし、それでは我が気が済まぬ! せめて、この金貨を……」
差し出された重そうな革袋を、ギルバートはやんわりと押し返す。そして、傍らのテーブルに置かれていた数枚の銀貨を指差した。
「いただくのは、ただのまかない代だけで結構です。それが、私の店の流儀ですので」
銀貨を数枚だけ手に取ると、彼は深く一礼した。
「では、店を開ける時間ですので、これにて失礼いたします」
呆然と立ち尽くす辺境伯たちを背に、ギルバートは踵を返す。リリィが小走りでその後を追ってきた。
「ギルバートさん、本当によかったんですか? あんなにたくさんのお金……」
「食材を仕入れるには、これで十分だ。それに、お前も早く帰ってまかないを食べたいだろう?」
「あ……はいっ!」
リリィの顔にパッと花が咲く。その無邪気な笑顔を見下ろしながら、ギルバートは小さく息を吐いた。自分の居場所は、あの薄暗くも温かい厨房にしかない。
数日後。辺境の宿場町にある小さな食堂は、昼時を前にしてすでに満席となっていた。
「リリィちゃん、こっちに麦酒のおかわり!」
「はーい! ただいまお持ちします!」
リリィは軽やかな足取りで店内を駆け回り、次々と注文を捌いていく。辺境伯の娘を救ったという噂は瞬く間に広まり、同業者からの嫌がらせは完全に消滅した。今やこの店は、町の人々から冒険者、さらには行商人までが集う、活気に満ちた場所となっていた。
厨房では、ギルバートが黙々と鍋を振るっている。身分も事情も異なる客たちが、同じ空間で肩を並べ、自分の作った料理を口にして笑顔を見せる。それは、彼が長年夢見ていた光景そのものだった。
「ギルバート先生! 本日の仕込み、何か手伝うことはありませんか!」
突然、厨房の入り口から場違いなほど張りのある声が響いた。
振り返ると、そこには見覚えのある男が立っていた。辺境伯の館でギルバートを嘲笑していた、あの高慢なエリート治癒術師である。彼は高級なローブを脱ぎ捨て、なぜか粗末な前掛けを身につけていた。
「……なぜ、あなたがここにいるのですか」
「先生の神業を目の当たりにし、己の無知を恥じました! 食がこれほどまでに人の体を、いや、命を左右するものだったとは。どうか私を弟子にしてください!」
男は床に額を擦りつける勢いで頭を下げる。ギルバートは呆れたようにため息をついた。
「私は料理人であって、治癒術師に教えることなど何もありません。お引き取りを」
「そうおっしゃらずに! まずは皿洗いから始めさせていただきます!」
男はギルバートの制止も聞かず、勝手に流し台へ向かい、積み上げられた木の皿を洗い始めた。その手つきは危なっかしく、見ている方が不安になる。
「あーっ! ちょっと、そこは私が洗うところなんだから!」
空いた皿を抱えて戻ってきたリリィが、治癒術師を押し退けようとする。
「なんだ君は! 私は王都でも指折りの……いや、今はただの皿洗い見習いだ。君も先輩として指導を頼む」
「なんだかよくわかんないけど、お皿を割ったら弁償してもらうからね!」
騒がしいやり取りを背中で聞きながら、ギルバートはふっと口元を緩めた。
王宮の静まり返った厨房では、決して聞くことのできなかった喧騒。食材が煮える音、客たちの笑い声、そしてリリィの元気な声。すべてが心地よい和音となって、ギルバートの胸を満たしていく。
(これでいい。私の料理は、ここで生きている)
過去の亡霊は、まだ完全に消え去ったわけではない。それでも、目の前の鍋に向かう手には、確かな力が宿っていた。
「ごちそうさん!」と最後の客が店を出ていき、扉が閉まった頃。
リリィは布巾でテーブルを拭きながら、厨房の奥で仕込みを続けるギルバートの背中をそっと見つめていた。
(今日も、すごく忙しかったな。みんな、ギルバートさんのご飯を食べてニコニコしてた)
辺境伯の後ろ盾を得て、店はすっかり軌道に乗った。毎日お腹いっぱい食べられて、暖かいベッドで眠ることができる。泥水をすすり、残飯を漁っていた頃の惨めな記憶が、遠い昔のことのように思えた。
だが、その温かな賑わいの中で、リリィの胸の奥には冷たいしこりが居座っていた。
(こんな幸せな日々が、いつまでも続くはずがない)
孤児として過酷な環境を生き抜いてきた彼女の直感が、警鐘を鳴らしている。
ギルバートの料理は凄すぎる。辺境伯の娘の命すら救ってしまうほどの腕前だ。そんな彼が、こんな辺境の小さな食堂にいつまでも留まっているはずがない。
もし、王宮の偉い人たちが彼の本当の価値に気づいたら?
もし、無理やり連れ戻されてしまったら?
その時、自分はどうなるのだろう。
再び冷たい路地裏へ放り出されるのではないか。
(嫌だ。あんな生活に戻るのは、絶対に嫌)
布巾を握る手に、ぎゅっと力が入る。
「どうした、リリィ。手が止まっているぞ」
ギルバートの声に弾かれたように、リリィは慌ててテーブルをゴシゴシと擦り始めた。
「な、なんでもないです! ちょっとぼーっとしてただけ!」
慌てて笑顔を作り、再びテーブルを拭き始める。不安を口に出せば、それが現実になってしまいそうで怖かった。だから、彼女はただ明るく振る舞うことしかできない。
ギルバートは不思議そうに目を細めたが、それ以上は何も言わず、再び手元の作業に戻った。
リリィは息を潜め、その広く頼もしい背中を盗み見る。失うことへの恐怖が、じわじわと足元から這い上がってくるのを感じながら。
彼女の抱える静かな恐怖を裏付けるように、事態はすでに動き出していた。
王都から続く街道を、数頭の馬が猛烈な勢いで駆け抜けている。
騎乗しているのは、王家の紋章を掲げた使者たちだった。彼らの顔には焦燥と疲労が色濃く浮かび、馬の腹を蹴り続けている。
王宮の厨房を支配した刺激的な香辛料は、ついに取り返しのつかない事態を引き起こし始めていた。味覚障害と内臓疾患は貴族たちに蔓延し、国政にまで深刻な影響を及ぼしている。
彼らが向かう先は、北の果て。
かつて時代遅れと蔑まれ、追放された老料理人がいる辺境の宿場町だった。
冷たい風が、不吉な予感を孕んで吹き抜ける。
リリィの恐れる事態は、すぐそこまで迫っていた。
小さな食堂の温かな日常は、見えない脅威によって静かに、だが確実に侵食されようとしていた。




