第18話
確かな自信を胸に、ギルバートは次の仕込みに取り掛かるのだった。
数日が過ぎた頃。昼時の喧騒が一段落した店内の片隅で、王都から来た行商人たちが声を潜めて語り合っている。
「聞いたか。王宮の晩餐会で、大規模な食中毒騒ぎがあったらしいぞ」
「ああ。新しく雇われた料理人が、前料理長のレシピを完全に再現したと豪語して、赤鱗の泥魚を出したそうだ」
「馬鹿な奴だ。あの魚は、完璧な毒抜きをしなければ内臓が腐り落ちるほどの猛毒だろうに」
行商人たちの話によれば、その料理人は毒抜きの本質を全く理解していなかったらしい。
「赤鱗の泥魚といえば、前料理長が三日三晩かけて毒を抜き、極上の薬膳スープに仕立て上げる幻の逸品だろう。それを新任の奴は、たった半日で調理したそうだ」
「強い香辛料で誤魔化して出したが、食べた途端に舌が痺れ、胃の奥が焼け焦げるような激痛に襲われたらしい。王宮の治癒術師たちが総出で解毒に当たったが、未だに後遺症で苦しむ貴族も多いと聞く」
見た目の華やかさと刺激的な味付けだけを真似て、肝心の毒素を中和する工程を省いた結果、王宮の権威は完全に地に落ちたという。
調理台の奥で根菜の皮を剥いていたギルバートは、噂話を背中で聞き流し、剥き終わった根菜を煮込み鍋へと放り込んだ。
赤鱗の泥魚の毒は、表面の鱗だけでなく、血合いの奥深くにまで浸透している。それを抜くには、特殊なハーブを混ぜた水で何度も血抜きを繰り返さねばならない。見よう見まねで手を出していい代物ではないのだ。
食材の性質を無視し、表面だけを取り繕えばそうなる。王宮の惨状を憂う気持ちはある。長年守り続けてきた厨房が、無惨に荒らされていくことへの寂寥感もゼロではない。
だが、今の彼には目の前の客に全力を尽くすことしかできない。権力闘争の道具としてではなく、純粋に命を養うための食事を作る。それが、この辺境で見つけた彼の真の居場所なのだ。
彼は静かに息を吐き、再び包丁を動かし始めた。
夕刻。店内に見慣れない客が現れた。
長身で、燃えるような赤い髪を持つ青年。その瞳は縦に割れた爬虫類のもので、周囲の空気が微かに震えるほどの圧倒的な威圧感を放っている。
先客のドワーフや冒険者たちが、本能的な恐怖から言葉を失い、武器に手をかけることすら忘れて硬直した。
「おい、小娘。案内しろ」
青年は傲慢な態度で言い放つ。
リリィは孤児として過酷な環境を生き抜いてきたため、危険を察知する能力が高い。足が微かに震えるが、恩人の店を守るため、気丈に空いている席へと案内する。
「腹が減っている。この店で一番美味なるものを出せ」
ギルバートは相手の尋常ではない気配を感じ取りながらも、顔色一つ変えずに火口へ向かう。提供するのは、先日の騒動で自警団が持ち込んだ魔物キノコと、地元の猪肉を使った香草焼きだ。
分厚く切った猪肉の筋を丁寧に切り、辺境特有の雑草をすり鉢で擦って作った特製の香草ペーストを塗り込む。強い火力で表面を一気に焼き上げ、肉汁を閉じ込めた後、魔物キノコとともに蒸し焼きにする。
香ばしい匂いが店内に広がり、青年の鼻腔をくすぐった。
配膳台から運ばれた熱々の皿を前に、青年は無造作に肉を口に運ぶ。
直後、彼の縦に割れた瞳孔が大きく見開かれた。
「なんだこれは……。我の長い寿命の中でも、これほど舌を歓喜させるものは初めてだ」
荒々しい猪肉の旨味を、香草の爽やかな風味が完璧に引き立てている。魔物キノコの濃厚な出汁が肉に絡みつき、噛むほどに深い味わいが溢れ出す。
「ほう。この香草、ただの雑草かと思えば、肉の臭みを完全に消し去り、旨味だけを極限まで引き出している。それにこのキノコ、魔力を帯びているな。人間の分際で、これほどの食材を完璧に調和させるとは」
彼はあっという間に皿を平らげ、立ち上がる。
「我は炎の竜。人間の姿をとって美食を探し求めてきたが、ようやく見つけたぞ」
竜の宣言に、店内の客たちが再び息を呑む。伝説の存在が、こんな辺境の小さな食堂に現れたのだ。
「料理人よ。我と契約を結べ。毎日この極上の食事を提供するなら、我が最高級の魔物肉を狩ってきてやろう。そして、この店に仇なす者は我がすべて灰にしてくれる」
ギルバートは布で手を拭きながら、淡々と答える。
「食材の提供は助かります。ですが、ここはただの食堂です。食事代さえ払ってくだされば、どなたでも歓迎しますよ」
竜は愉快そうに笑い、金貨の入った袋をテーブルに放り投げた。
「気に入った。今日からここが我の縄張りだ」
数日後の夜。激しい雨が屋根を打ちつける中、店の扉が弱々しく叩かれた。
リリィが扉を開けると、そこには泥だらけでボロボロの服を着た青年が倒れ込んでいる。
「……料理長……」
かすれた声を聞き、ギルバートは急いで駆け寄る。それは、かつて王宮の厨房でギルバートの下働きをしていた若手料理人だった。
ギルバートは彼を暖炉のそばに座らせ、急いで厨房へ戻る。冷え切った体を温めるため、生姜に似た辺境の根菜をたっぷりと使った薬膳スープを手早く仕上げた。
青年は震える手で匙を持ち、温かいスープを口に運ぶ。
じんわりと胃の奥から広がる熱に、彼の強張る表情が少しずつ解けていく。
「……生き返るようです」
青年は少し落ち着きを取り戻すと、涙ながらに語り始めた。
王宮の厨房は完全に腐敗していること。食中毒騒ぎの後、責任のなすりつけ合いが始まり、まともな料理を作れる環境ではないこと。
「今の料理長は、自分の失敗をすべて下働きのせいにしています。少しでも意見を言えば、反逆者として地下牢に放り込まれる。食材の管理も杜撰で、腐りかけた肉を強い香辛料で誤魔化して出している有様です」
青年は両手で顔を覆う。
「俺は、あなたが教えてくれた、食材と真摯に向き合う姿勢を守りたかった。でも、あそこではもう……」
青年は深く頭を下げ、ギルバートに弟子入りを志願する。
ギルバートは青年の荒れた手を見た。それは、過酷な環境で必死に足掻いてきた証だ。王宮の華やかな厨房に似合わない、火傷と切り傷だらけの手。
「よく、ここまで逃げてきたな」
その一言に、青年は堪えきれずに号泣した。
「ここは王宮ではない。朝は早く、仕込みは泥臭い。給金も安いぞ」
「構いません。どうか、俺をここで働かせてください」
ギルバートは静かに頷いた。
「明日から、厨房に入りなさい」
青年の顔に、希望の光が灯る。リリィも新しい仲間の加入に目を輝かせている。
食堂に新たな活気が生まれようとしている。だが、ギルバートの教えは決して甘くはない。この青年がどこまで食らいついてこれるか。
ギルバートは静かに微笑み、明日の仕込みの段取りを頭の中で組み直すのだった。




