第17話
雨上がりの冷たい風が吹き込み、厨房の明かりを揺らした。答えの出ない問いだけが、ギルバートの足元に暗い影を落とす。
使者の冷酷な宣告が、静まり返った店内に響き渡った直後だった。王宮の騎士たちが剣の柄に手をかけ、金属の擦れる冷たい音が空気を切り裂く。
逆らえば、ここにいる全員の命はない。
自分が身を引けば済むことなのか。いや、王宮に戻れば、己の作る皿は再び権力闘争の道具となり、ただ腹を満たすだけの餌に成り下がる。華やかな食材を使えず、地味だと蔑まれた日々。それでも食べる者の体を思って包丁を握り続けたが、結局は老害と切り捨てられた。あの息の詰まる厨房へ戻るくらいなら、ここで命を散らした方がましだ。
「ギルバートは、渡さないっ!」
鋭い声が、重苦しい沈黙を破った。
リリィが震える両足を必死に踏ん張り、使者の前に立ち塞がる。小さな肩が小刻みに揺れ、握りしめた拳は白く染まる。
泥水や残飯をすすって生きてきた惨めな記憶。孤児として誰からも見向きされず、ただ飢えに耐えるだけだった日々。再びあの孤独で冷たい生活に戻る恐怖が、彼女の細い足をすくませる。彼女の目には明らかな怯えが浮かぶ。それでも、一歩も引こうとはしない。温かい食事と、自分を必要としてくれる恩人を失うことへの恐れが、自身の保身を上回ったのだ。
「ここは、私たちの居場所だ。お前たちなんかに、奪わせてたまるか!」
「小娘が。身の程を知れ」
使者が鼻で笑い、顎をしゃくる。騎士の一人が無造作にリリィへ手を伸ばした。
だが、その手が彼女に触れることはなかった。
ガタン、と背後で椅子が倒れる音がした。
「おいおい。せっかくの飯が不味くなるじゃねえか」
低い、地を這うような声。立ち上がったのは、部屋の隅で食事をとるクロードだった。元近衛騎士の彼は、毒見役の任務で負った内臓の古傷をギルバートの料理で癒やされ、今ではすっかり常連となっている。ゆっくりと首を鳴らしながら、彼は使者たちを睨みつける。
それに呼応するように、店内のあちこちで客たちが立ち上がった。
かつてギルバートのスープで味覚と涙を取り戻した暗殺者。屈強な肉体を誇るドワーフの冒険者たち。彼らは皆、この辺境の食堂で心身を癒やされ、明日への活力を得た者たちだ。
「親父の店に手出しする奴は、俺たちが許さねえぞ」
「辺境で一番安全な場所を荒らそうってのか。いい度胸だ」
誰一人として武器は抜かない。しかし、歴戦の猛者たちが放つ濃密な殺気が、目に見えない壁となって使者たちを包み込んだ。
使者の顔から、さっと血の気が引く。
「き、貴様ら……王宮に逆らう気か!」
「ここは辺境だ。王都の理屈は通用しねえよ」
クロードが一歩前に出る。ただそれだけで、王宮の騎士たちはたまらず後ずさった。温室育ちの彼らでは、実戦をくぐり抜けてきた者たちの気迫に耐えられないのだ。
「ひ、退け! 今日はこれまでにしてやる!」
使者は捨て台詞を吐き、逃げるように店を飛び出していく。騎士たちも慌ててその後を追った。
遠ざかる足音を聞きながら、ギルバートは呆然と立ち尽くす。
自分が長年恐れていた絶対的な権力。それが、この辺境の地ではいともたやすく退けられた。
「リリィ。怪我はないかい」
「うん……」
緊張の糸が切れたのか、リリィがその場にへたり込む。ギルバートはしゃがみ込み、彼女の頭を優しく撫でた。
「親父さん、気に病むこたぁない。ここは俺たちが守る自警団の縄張りだからな」
ドワーフの男が豪快に笑い、他の客たちも頷く。彼らの温かな眼差しに触れ、ギルバートの胸の奥で、冷え切った何かがゆっくりと溶けていく。
騒動から数時間が過ぎ、昼の喧騒が落ち着いた頃。
重い木の扉がゆっくりと開き、フードを深く被った小柄な人影がふらふらと入ってきた。
「空いている席へどうぞ」
ギルバートが声をかけると、その客は壁際の席に倒れ込むように腰を下ろす。拍子にフードが外れ、尖った耳と透き通るような銀糸の髪が露わになった。
エルフだ。しかも、身につける衣服の意匠からして、ただの旅人ではない。上質な絹のローブに施された精緻な刺繍は、高貴な身分の者であることを示している。だが、その足取りはひどく覚束ない。
「……草の匂いがする。でも、人間の作るものなんて……」
かすれた声で呟く彼女の顔色は青白く、ひどく衰弱しきっている。人間に対する強い不信感と、長旅の疲労。そして何より、極度の空腹が彼女の体力を奪い尽くす。
ギルバートは静かに観察した。極度の偏食による栄養失調。胃腸が弱りきっており、強い味や脂っこいものは受け付けない状態だ。
「少し、お待ちください」
彼は調理台の奥へ向かい、手早く準備を始める。
取り出したのは、辺境の森で採れた数種類のハーブ。この気候でしか育たない特別な植物であり、彼がこの宿場町を第二の人生の地に選んだ真の理由でもある。そして、朝市で仕入れた新鮮な根菜類と、低刺激で滋味深い魔物キノコだ。
人間を嫌うエルフの味覚は繊細だ。素材の持ち味を極限まで引き出し、かつ体に負担をかけない調理法が求められる。
鍋に清らかな水を張り、火にかける。
ハーブを丁寧に刻み、キノコの旨味をじっくりと抽出していく。余計な味付けはしない。塩をほんの少し、味を調える程度に留める。エルフの繊細な味覚を傷つけないよう、火加減には細心の注意を払う。
やがて、厨房に爽やかな香りが漂い始めた。
「お待たせしました。辺境野菜と森の恵みの薬膳鉢です」
湯気を立てる木製の器を、エルフの少女の前に置く。
淡い緑色の透き通った汁の中に、色鮮やかな野菜とキノコが美しく配置されている。
彼女は警戒するように器を見つめるが、漂ってくる優しい香りに誘われるように、木のスプーンを手に取った。
一口、汁をすする。
途端に、彼女の翠緑の瞳が大きく見開かれる。
「……なに、これ」
驚きの声が漏れる。
「ハーブの青臭さが全くない。それに、この深い旨味は……」
「魔物キノコから出汁を取っています。辺境の土で育った野菜は、それ自体が強い生命力を持っていますから、余計な手は加えていません」
ギルバートの言葉に、彼女は無言で頷き、次々と匙を口へ運ぶ。
最初はゆっくりだった動きが、次第に熱を帯びていく。器の中身が減るごとに、彼女の青白かった頬にほんのりと赤みが差していく。
最後の一滴まで飲み干すと、彼女はほうっと長い息を吐く。
「こんなに心が安らぐ味……初めて」
顔を上げた彼女の口元には、満面の笑みが浮かぶ。人間への警戒心など、そこには微塵も残らぬほどに。
「お粗末様でした」
ギルバートは空の器を下げると、休む間もなく夕食の仕込みのために厨房へ戻った。
ギルバートは短く応え、静かに一礼する。
目の前の客が、自分の作った皿で生気を取り戻す。その事実が、彼の胸に確かな熱を灯す。
王宮の権力闘争の中で見失いかけた、料理人としての誇り。
自分の手から生み出されるものは、決してただの餌ではない。誰かの心と体を癒やし、明日を生きる活力を与えることができる。
窓から差し込む午後の陽光が、綺麗に空になった器を照らす。
辺境での生活は、まだ始まったばかりだ。王宮からの干渉が完全に終わったわけでもない。
だが、彼にはもう迷いはない。この小さな食堂で、自分を必要としてくれる人々と共に生きていく。
確かな自信を胸に、ギルバートは次の仕込みに取り掛かるのだった。




