第19話
翌朝の厨房。
夜明け前の冷たい空気が満ちる中、ギルバートは新しい弟子に根菜の面取りを指示した。
「包丁の角度が浅い。根菜の繊維を断ち切るように、もう少し刃を立てなさい」
「はいっ」
王宮から逃げてきた青年は額に汗を滲ませながら、真剣な表情で作業を続ける。王宮の華やかな厨房では決して教わらなかった、地道で泥臭い下ごしらえ。食材のポテンシャルを極限まで引き出すためには、この地味な作業こそが最も重要なのだと、ギルバートは言葉ではなく行動で示していく。厨房は常に清潔に保たれ、無駄な動きは一切ない。
リリィは調理台の隅で、両足をぶらぶらと揺らしている。首元には、いつも肌身離さず身につけている古びた銀の匙が下がる。新しい仲間が増えたことで、彼女の表情はいつも以上に明るい。孤児として泥水をすすってきた彼女にとって、この食堂は初めて手に入れた温かな居場所なのだ。出された食べ物は一粒残さず綺麗に平らげる。それが彼女の譲れない信条だった。
店の表扉が、ドンドンと乱暴に叩かれた。
仕込みの最中だ。客が来るには早すぎる。ギルバートが手を止めるより早く、リリィが小走りで入り口へ向かい、重い木の扉の閂を外す。
冷たい朝の風と共に、泥だらけの外套を羽織った小柄な人物が転がり込んできた。
「きゃっ」
リリィが短い悲鳴を上げる。床に倒れ込んだ人物のフードが外れ、泥に汚れた金糸の髪がこぼれ落ちた。外套は所々が破れ、長旅の過酷さを物語る。その繊細な顔立ちには、深い疲労と絶望が刻まれている。
ギルバートは布で手を拭い、静かに歩み寄る。その顔を見て、わずかに目を細めた。
かつて王宮で、理不尽な追放を言い渡された彼を唯一庇おうとした人物。心優しい若き王女が、息を荒らげて床に這いつくばっている。
彼女はギルバートの姿を認めるなり、泥だらけの膝を折り、深く頭を擦り付けた。
「どうか、兄を……国王陛下をお救いください」
悲痛な声が、静かな店内に響き渡る。
王宮の厨房は完全に機能不全に陥ったという。新料理長が乱用する刺激の強い香辛料によって、貴族たちは次々と味覚障害や内臓疾患に倒れている。何より、若き王の衰弱は目を覆うばかりであり、今は水すら満足に喉を通らない状態だというのだ。
「宮廷の者たちは皆、己の保身ばかり。私にはもう、あなたにすがるしか……」
王女の肩が小刻みに震えている。泥に塗れた手で、ギルバートの足元にすがりつこうとする。かつては華やかなドレスを身に纏っていた彼女が、今は泥にまみれて土下座をしている。その姿に、青年は息を呑んだ。
ギルバートは静かにため息をつき、傍らの椅子を勧めた。だが、王女は頑なに顔を上げようとしない。
「陛下のお加減が優れないのは、当然のことです」
落ち着いた老紳士の声が落ちる。王女が弾かれたように顔を上げた。
「陛下は、特定の華やかな食材や強い香辛料に対して、重度の拒絶反応を示す体質をお持ちなのです。ご自身でも気づいておられないほど、微細なものですが」
王女の目が大きく見開かれる。
ギルバートは長年、その隠された体質を庇うため、あえて地味で素朴な食事を出し続けていた。それが周囲から蔑まれる原因になったとしても、国の胃袋を預かる者として当然の務めだと信じていたからだ。若い頃から権力闘争の渦中に身を置き、本当に作りたい大衆向けの料理を作れなかった彼にとって、せめてもの誠意だった。食材を絶対に粗末にしない。客の身分や事情で料理の手を抜かない。その信念を貫いた結果が、あの理不尽な追放劇だったのだ。
「私たちが、あなたの忠義を……」
王女の目から大粒の涙が溢れ落ち、泥に汚れた床に染みを作っていく。彼女は両手で顔を覆い、しゃくり上げた。
「どうか、王宮へ戻ってきてはいただけないでしょうか。あなたの腕が、心が必要なのです」
その言葉に、リリィの顔から血の気が引いた。
彼女は震える両手で、ギルバートの調理着の袖を強く握りしめる。彼が連れ戻されれば、自分はまたあの飢えた孤独な日々へ逆戻りしてしまう。
「ギルバートは、渡さない……っ」
リリィは小さな体を王女の前に立ちはだからせ、必死に睨みつけた。惨めな過去の記憶から来る卑屈さを振り払い、大切な人を守るために牙を剥く。恩人には必ず報いる。それが彼女の生きる道だった。
ギルバートはそっとリリィの頭に手を置き、その震えを鎮めるように撫でる。そして、王女に向き直った。
「もったいないお言葉ですが、お断りいたします」
断固とした響きがあった。
長年抱えていた宮廷への未練や、権力に対する恐れ。自分の料理がただ腹を満たすだけの餌に成り下がるのではないかという恐怖。それらはもう、彼の中には欠片も残っていない。
「私はすでに、この辺境の食堂の主です。身分や事情を問わず、目の前の客の心と体を満たす。それだけが私の進むべき道なのです」
王女は絶望に唇を噛む。だが、ギルバートは背を向け、調理台から一枚の羊皮紙を取ってきた。
そこには、王の体質に合わせた消化に良い薬膳の作り方が、詳細に記されている。彼は弟子に目配せし、辺境特有の薬効を持つハーブを小さな袋に詰めさせた。この気候でしか育たない特別な植物こそが、彼がこの地を選んだ真の理由だった。
「これを、信頼できる料理人に託してください。この草が、陛下の胃の炎症を穏やかに鎮めてくれるはずです」
王女は震える手で羊皮紙と袋を受け取る。見捨てるわけではない。ただ、自分の居場所はここだと示しているのだ。
涙を拭いながら立ち上がった王女は、ふとリリィの胸元に揺れる古い銀の匙に目を留めた。
「その匙……」
王女の目が驚きに見開かれる。
「先代王妃様が、特別に目をかけておられた一族に下賜されたもの。あなたは、あの没落した名家の……」
リリィはきょとんとして首を傾げる。彼女自身、親に捨てられた記憶しかなく、その匙の意味を知る由もない。
だが、ギルバートは腑に落ちた。一度味わったものを正確に記憶する彼女の絶対味覚。それは、食を重んじた誇り高き一族の血脈ゆえだったのか。
「見事な覚悟だ、料理人殿」
不意に、店の奥から野太い声が響いた。
いつの間にか、粗末な木製のテーブルに大柄な男が腰を下ろしている。上質な外套を無造作に羽織ったその男は、この地を治める辺境伯であった。
異常な賑わいを見せる食堂の噂を聞きつけ、身分を隠してお忍びで様子を見に来たのだ。
「権力に媚びず、己の信じる食の道を貫く。その姿勢、実に気に入った」
辺境伯は立ち上がり、ギルバートの前に歩み寄る。
「この食堂を、我が領地公認の特待店として保護しよう。王宮からの理不尽な干渉があれば、私が盾となる」
それは、辺境で生きていくための最強の後ろ盾だった。
ギルバートは深く頭を下げる。リリィもほっと息を吐き、へナヘナとその場に座り込んだ。彼女の目には、安堵の涙が浮かんでいる。
王女はレシピとハーブを胸に強く抱きしめ、深く一礼した。
「必ず、兄を救ってみせます。そして……いつかまた、あなたの食事をいただきに参ります」
決意を秘めた顔で、王女は朝靄の向こうへと帰っていく。
ギルバートは静かに扉を閉め、厨房へと戻る。
過去との決別は果たされた。王女が持ち帰った知識で、崩壊寸前の王宮を立て直せるのかはわからない。
だが、彼がやるべきことは変わらない。
「さあ、仕込みを続けるぞ」
老紳士の穏やかな声に、弟子とリリィが元気よく返事をする。辺境の料理人としての誇りが、静かに、しかし確かな熱を持って彼の胸の奥で燃え続けていた。




