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頭の中の最強AI ──金も女も、そして世界も手に入れる──  作者: 橙色
受験編

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9話 もう分かった気がした





 卒業式の翌朝、僕は午前七時に目を覚ました。


 目覚ましはかけていない。


 二次試験が終わった翌日は八時過ぎまで眠っていたのだから、何も予定がない今日は、もっと遅くまで寝ていてもよかったはずだ。


『おはようございます、和希さん』


『おはようジン。今何時?』


『午前七時三分です』


『休みなのに、どうしてこんな時間に起きたんだろう』


『センター試験前から維持してきた睡眠周期が定着しています。二度寝を希望しますか?』


『二度寝まで手伝えるの?』


『眠りやすい呼吸法や、覚醒を抑える方法は提示できます』


『起こすこともできる?』


『指定された時刻に呼びかけることは可能です』


『目覚まし時計より便利だ』


『目覚まし時計には、和希さんが私の呼びかけを無視した場合でも、周囲の家族を起こせるという利点があります』


『それは利点なの?』


『起床させるという目的に限れば、有効です』


 ジンと話しているうちに眠気は消えていた。


 ベッドから出て、カーテンを開ける。高校を卒業した翌朝も、窓の外に広がっているのは見慣れた住宅街だった。


 制服を着る必要はなく、学校の時間割もない。


 合格発表まで予定らしい予定はなかったが、一日中何もしないで過ごすつもりもなかった。


『運動、今日から始めるかぁ』


『はい。昨日までに説明した内容を、現在の身体状態に合わせて調整しています』


『器具は必要?』


『当面は必要ありません。自重による運動と、現在所持している道具で実施できます』


『なるべく早く変わる内容にして』


『回復可能な範囲を超えて負荷を増やしても、身体的変化が早まるとは限りません』


『毎日、限界までやるのは?』


『筋力の低下、関節の負傷、運動を中断する確率の上昇が見込まれるため、推奨しません』


『僕がやる気を出してるのに、冷静だね』


『やる気は身体組織の回復速度を上昇させません』


 言い方に容赦がない。

 僕は床へ薄いマットを敷き、ジンの指示に従って運動を始めた。


 負荷は軽くないが、動けなくなるほど厳しくもない。姿勢や関節の角度が僅かにずれるたび、頭の中から修正が入る。


 映像を見ながら一人で運動するのとは違い、僕の身体だけを見ている指導者が、常に隣にいるようなものだった。


『右肘を少し内側へ向けてください』


『これくらい?』


『あと三度です』


『三度なんて自分で分かるわけないだろ』


『現在の位置で適切です。その感覚を記憶してください』


『最初からそう言ってくれればいいのに』


『修正量を伝えたほうが、動作を再現しやすいと判断しました』


 運動を終える頃には、背中と肩の奥に重さを感じていた。


 痛みではなく、普段あまり使っていなかった場所を動かした感覚に近い。


『明日は?』


『下半身と体幹を中心に行います。背部と肩後部には休養が必要です』


『一日でどれくらい変わった?』


『運動直後の血流増加による一時的な変化はありますが、筋肉量が増えたわけではありません』


『分かってるけど、少しくらい褒めてもいいだろ』


『指示した動作の九十二パーセントを、許容範囲内で実行できています』


『褒め方が採点なんだよなぁ』


 これから少しずつ教えれば、ジンも人間を気分よくさせる方法を覚えるのだろうか。


 本人にその必要性を感じさせるところから始めなければならない気がした。


 卒業から合格発表までの間、僕の生活は思っていたより規則正しく進んだ。


 朝は同じ時間に起き、ジンが作った内容に沿って運動する。食事は母が用意するものを大きく変えず、足りない栄養だけを間食で補った。


 肌の手入れも続けている。


 数日で顔そのものが変わるはずはないが、受験中に残っていた目元の疲れは薄くなり、鏡に映る姿勢も以前より整って見えた。


 投資についても、毎朝確認した。


『今日は何かいいのある?』


『現在の資金と許容損失に適合する取引候補はありません』


『昨日も同じことを言ってなかった?』


『市場は、和希さんに利益を提供するために存在しているわけではありませんから』


『僕が取引したいって言ってもダメ?』


『利益を得ることではなく、取引すること自体が目的であれば候補を提示できます』


『負ける可能性は?』


『現在分析している候補では、期待利益が損失の危険に見合いません』


『なら、やめとく』


 金を増やせる力を得たからといって、毎日増えるとは限らない。


 何もしないことが最善なら、何もしなければいい。以前の僕なら、機会を逃しているようで落ち着かなかったかもしれないが、ジンが世界中を見たうえで見送っているのなら、焦る理由はなかった。


 相場を眺め続ける代わりに、大学生活について調べる。


 授業、進学選択、サークル、設備、周辺の店。

 調べようと思えば、いくらでも出てくる。


 東京大学へ合格したかどうかはまだ分からないのに、僕の知識だけが先に東大生へ近づいていった。


 三月七日の午前十時過ぎ、直人からメッセージが届いた。


《受かった。昼飯、いつにする?》


 合格した大学の名前と、自分の受験番号が載っている画面の写真も添えられている。


 僕はベッドへ腰かけたまま、何度かその番号を確認した。


 間違いなく、直人のものだった。


《忘れちゃうから今日行こう》


 すぐに既読がつく。


《普通、最初におめでとうとかじゃないのか》


《おめでとう。どこ集合?》


《うぜーーーー》


 待ち合わせは、昼過ぎに駅前となった。


『ジン、この辺りで少し高くて美味しい昼食は?』


『松内直人さんの予算が不明です』


『高校生が合格祝いに友達へ奢って、後悔しないくらい』


『主観的な条件です』


『じゃあ、一人三千円以内。普段は行かないけど、無理をすれば払える店』


 いくつか示された中から、駅の反対側にある洋食店を選んだ。


 昼のセットが二千円を少し超える。


 直人へ店の名前を送ると、しばらくしてから返信が来た。


《本当に高いところ選んだな》


《嫌なら変えるよ》


《合格した日くらい払う。ただし追加注文は禁止》


《分かった。追加は自分で払う》


《そこまで食うつもりなのかよ》


 店の前で会った直人は、普段と同じ服を着ていたが、表情は試験前より軽かった。


「おめでとう」


「ありがとう。メッセージでも最初に言ってほしかった」


「文字より直接言ったほうがいいだろ」


「昼飯のことしか考えてなかったくせに」


「半分くらいは合格のことも考えてたよ」


「残り半分が高すぎるんだよ」


 店へ入り、僕は牛肉の煮込み料理を、直人はハンバーグを注文した。


 料理が運ばれてくるまで、試験と合格発表の話を聞く。


「数学、本当に最後まで見られたの?」


「見られた。最後の問題は解けなかったけど、途中までは書けたよ。前半へ戻ってたら、たぶん空欄だった」


「なら、助言した意味はあったね」


「意味ありすぎたかもしれない。自己採点だと、数学が今までより十五点くらい高いんだ」


「合格最低点との差は?」


「正確な点数はまだ分からないけど、余裕があったとは思えない。あの十五点がなかったら、危なかったかもな」


 直人から渡された問題冊子を、ジンに一度見てもらっただけだった。


 それまで誰も気づかなかった癖を見つけ、直人が実行できる形に直して伝えた。


 僕にとっては短い会話でも、直人の進路を変える力があったのかもしれない。


「佐村、ありがとうな」


「どういたしまして」


「もう少し照れたりしないのか?」


「感謝されるようなことをしたんだから、普通に受け取っていいだろ」


「そういうところ、本当に変わったよな」


「前より格好よくなった?」


「性格の話だよ」


 運ばれてきた料理は、値段に見合う味だった。

 直人の財布で食べていることまで含めれば、さらに美味しく感じる。


『人に奢らせた食事は、美味しく感じやすいものなのかな?』


『金銭的負担がないことで満足度が上昇する可能性はあります。ただし、友情や成功体験との関連も考えられます』


『今のは、誰に聞かせるわけでもない冗談なんだけど』


『冗談である確率は考慮しましたが、質問としても成立していました』


『相棒になったんだから、そこは笑ってくれてもいいんだよ』


『音声による笑いが必要ですか?』


『今やられると怖いから、やっぱりいい』


 頭の中で急に男の笑い声が響くところを想像してしまった。


 ジンには今のままでいてもらったほうが、僕の精神衛生にはいいのかもしれない。


「何笑ってるんだ?」


「料理が美味しいと思って」


「人の金で食ってるからだろ」


 直人にも同じことを言われた。

 僕の冗談は、人工知能より人間のほうが理解しやすいようだった。


「そういえば、東大の発表は十日だよな」


「うん。日曜日の正午」


「受かってると思う?」


「たぶんね」


「試験が終わってから、ずっとその調子だな。少しくらい不安にならないのか?」


「不安になったところで点数は変わらないし、できる問題は取ってきたから」


「俺は発表の五分前、何度も受験票を見直したぞ」


「番号が途中で変わると思った?」


「そういう問題じゃない。お前も当日になれば分かるよ」


 直人の言葉が正しいかどうかは、三日後に分かる。


 食事を終え、約束どおり代金は直人が払った。


 店を出たところで、僕はあらためて合格を祝う。


「大学でも、数学の見直しすぎには気をつけたほうがいいよ」


「お前は合格祝いの日まで指導するのか」


「次に奢ってもらう理由を作っておこうと思って」


「もう奢らないからな」


 直人はそう言いながら笑っていた。


 僕が東大へ受かれば、四月から通う大学は別になる。


 毎日会うことはなくなるが、関係まで卒業するわけではない。会おうと思えば会えるし、困ったことがあれば、また手を貸すこともできる。


 何より、次は僕が合格を報告する番だった。




 三月十日。


 午前十一時五十分を過ぎた頃から、家族がリビングへ集まり始めた。


 日曜日なので、父も仕事へ行っていない。


 母は朝から何度も時刻を確認し、美咲は僕より先に東京大学のウェブサイトを開いていた。彩香も自分のスマートフォンを持って、食卓の椅子へ座っている。


「おにい、受験番号もう一回教えて」


「さっき送っただろ」


「間違えてないか確認するの」


「僕の番号なんだから、僕が見ればいいよ」


「家族全員で見たほうが、見落とさないでしょ」


「見落としたら不合格になるわけじゃないからな」


 美咲は聞かず、送った番号と受験票を見比べている。


 母はテーブルの上へ受験票を置き、その横にスマートフォンを並べた。


「和希、本当に正午で合ってるのよね?」


「合ってるよ」


「あと何分?」


「時計を見れば分かるだろ」


「そうだけど、落ち着かないのよ」


 父だけは普段と変わらない顔で新聞を読んでいたが、同じページから一向に進んでいなかった。


「父さんも気になるなら、新聞を閉じたら?」


「まだ発表されてないんだろ。今から画面を見ても仕方がない」


「その記事、十分前から読んでるよ」


「難しい内容なんだ」


「地域の催し物の記事だよね?」


「細かいところまで読んでるんだよ」


 追及するのはやめておいた。


『ジン、公開されたら分かる?』


『はい。合格者の受験番号が公開された時点で確認します』


『家族より先に言って』


『承知しました』


『もし落ちてたら?』


『同様にお伝えします』


『そこは少しくらい言い方を考えてよ』


『結果を確認した後、伝達方法を選択します』


『なんか不安になってきた』


『合格可能性の推定値に、大きな変化はありません』


『僕の気分は変わるんだよ』


 直人の言っていたことが、少し分かった。


 試験直後は、受かったと確信していた。ジンの予測も九十八・七パーセントだったのだから、心配する必要はないと考えていた。


 発表まで残り一分になると、一・三パーセントのほうが急に大きく見えてくる。


 提出書類に何か問題があったのではないか。受験番号を書き間違えた答案があったのではないか。ジンの記憶にも残っていない失敗をしていたのではないか。


『受験番号は、全部正しく書いた?』


『確認できた答案では、誤りはありません』


『提出書類は?』


『不備は確認されていません』


『僕が今から思いつきそうな不安を、先に全部否定できる?』


『根拠のない可能性を無限に想定することはできますが、すべてを否定することはできません』


『役に立たないな』


『現在の不安は、情報不足より結果発表を待つ状況によって生じています。新しい情報が公開されるまで、解消は困難です』


 正しい分析が欲しい場面ではなかったのだが、ジンへ八つ当たりしても仕方がない。


 時計の数字が正午へ変わる。


 美咲が画面を更新した。


「開かない」


「わたしも。アクセスが集中してるのかな」


 彩香のスマートフォンも、読み込み中の表示から変わらない。


 母が僕を見る。


「和希のは?」


「まだ」


 僕の画面も白いままだった。

 全国から一斉に接続され、サイトが混雑しているのだろう。


 何度も更新するより待ったほうがいい。そう分かっていても、指は画面へ触れたくなる。


 頭の中から、いつもと変わらない声が聞こえた。


『和希さん』


『なに?』


『東京大学理科一類に合格しています』


 一瞬、家族の声が遠くなった。


『本当に?』


『公開された合格者一覧に、和希さんの受験番号があります』


 分かっていた。


 受かる確率が高いことも、必要な点数を取れたことも、何度も確認している。


 胸の奥から込み上げてきたものは、予想していたより大きかった。


 僕は東大へ受かった。


 一月八日の朝には、目指してすらいなかった大学へ。


「和希?」


 母の声で、リビングへ意識が戻った。


「どうしたの?」


「受かった」


「見られたの?」


「まだ画面は開いてないけど、受かってるよ」


「どうして分かるのよ」


「何となく。もう分かった気がした」


「何よ、それ」


 彩香が笑った直後、僕のスマートフォンへ合格者一覧が表示された。


 理科一類の欄を開き、受験票と同じ番号を探す。


 ジンに場所を聞けば一瞬で見つかるが、今だけは自分の目で探したかった。


 番号は、一覧の中ほどにあった。


「これ」


 画面を食卓の中央へ置き、受験票を隣へ並べる。


 同じ番号が載っている。


 母が最初に口元を押さえ、父は新聞を畳んで立ち上がった。美咲と彩香が同時に画面を覗き込み、もう一度番号を読み上げる。


「本当にある。おにい、東大生になるの?」


「そうなるね」


「おめでとう!」


 美咲が抱きついてきた。


 高校生になってからは滅多にしなくなった行動に驚いたが、拒む理由もない。肩へ回された腕を軽く叩く。


「和希、おめでとう。本当によかった」


 母の目には涙が浮かんでいた。


「ありがとう。心配かけたね」


「心配するに決まってるでしょう。センター試験の直前に、急に東大を受けるなんて言い出すんだから」


「結果的には、受けてよかっただろ」


「受かったから言えるのよ」


「うん。受かったから言ってる」


 父が僕の肩へ手を置いた。


「よくやったな、和希」


「ありがとう」


「正直に言えば、最初に聞いたときは無理だと思っていた。センターであの点数を取ってからも、二次試験は厳しいんじゃないかと考えていたよ」


「知ってる」


「悪かったな」


「謝らなくていいよ。僕だって、あの時点で同じことを言われたら疑ったと思う」


 父の手に、少し力が入った。


「おめでとう。父さんも嬉しいよ」


 短い言葉だったが、その声を聞いた瞬間、合格者一覧を見つけたときとは別の嬉しさが湧いた。


「和希」


 彩香が、隣から画面を覗いたまま僕を見る。


「本当に勝ったね」


「勝てそうなときだけ強気になるって言ってたの、覚えてるからね」


「覚えてたんだ」


「僕、記憶力いいから」


「今回は認める。おめでとう」


「ありがとう」


 美咲が僕の服を引いた。


「おにい。何か買ってくれる約束も覚えてる?」


「約束まではしてない。考えておくって言っただけ」


「東大に受かったんだから、買ってくれてもいいじゃん」


「そもそもなんで僕が受かったことで、美咲のお願いを聞くことになってるんだよ」


「家族だから?」


 以前と同じ理屈だった。


「はぁ……欲しいものを考えておいて。金額を見てから決める」


「やった!」


「買うとは言ってないからね」


 聞いていない顔をしている。

 合格した直後から妹への出費が増えそうだったが、不思議と嫌ではなかった。


『ジン』


『はい』


『僕、受かったよ』


『はい。先ほどお伝えしました』


『知ってる。でも、こういうときは、おめでとうって言うところじゃない?』


 僅かな間があった。


『東京大学理科一類への合格、おめでとうございます、和希さん』


『ありがとう』


 定型的な言葉ではあったが、今はそれでよかった。

 名前をつけておいて正解だったと思う。


 家族から少し離れ、担任へ電話をかける。

 二度目の呼び出し音でつながった。


「もしもし、佐村です」


《おう。どうだった?》


「合格しました」


 電話の向こうで息を吐く音が聞こえた。


《そうか。おめでとう、佐村》


「ありがとうございます」


《本当にやったな。センター前に相談されたときは、止めるべきか迷ってたんだぞ》


「父にも同じことを言われました」


《先生としては、ご両親と同じ判断だったということだ。許してくれ》


「気にしてません。結果が出た後まで止められてたら、少し怒ったと思いますけど」


《今なら誰も止めないよ。四月からは東大生か》


「はい」


 自分で口にすると、合格者一覧を見たときより現実味が増した。


《学校にも報告しておく。落ち着いたら、一度顔を見せに来い》


「分かりました」


《本当におめでとう》


 電話を切り、直人にも短いメッセージを送る。


《受かった》


 返信はすぐに届いた。


《知ってた》


《僕より自信あった?》


《お前が落ちてたら、奢った昼飯を返してもらうつもりだった》


《何で?》


《東大合格予定の佐村に奢ったんだから》


《もう食べたから返せないよ》


《なら合格しててよかった。おめでとう》


 友人の祝福を読み終え、スマートフォンを閉じた。


 僕の受験は、これで終わった。


 その日の夕食は、母の料理に加え、父が買ってきた寿司とケーキが食卓へ並んだ。


 卒業祝いより明らかに豪華だったが、指摘するのはやめておく。


「和希、入学祝いは何がいい?」


 父に聞かれ、少し考える。


 パソコンは欲しい。


 大学で使うなら性能や持ち運びやすさを比較し、入学後の用途に合うものを選びたい。スーツも必要になるし、服も増やしたい。


 ただ、一番欲しいものは品物ではなかった。


「東京で一人暮らしがしたい」


 母が箸を止めた。


「一人暮らし?」


「うん。駒場キャンパスの近くとは言わないけど、通いやすい場所に住みたい」


「家からでも通えるでしょう?」


「通えない距離ではないよ。ただ、朝の乗り換えと混雑を含めると、家を出てから駒場まで一時間四十分くらいかかる。帰りも同じなら、一日に三時間以上だ」


 正確な所要時間は、ジンに調べてもらっている。


 最短の乗り継ぎだけを見れば、もう少し早く着く。しかし、駅までの移動、電車を待つ時間、朝の混雑による遅れまで含めれば、一時間四十分前後になる。


「大学へ行くのは、毎日じゃないんでしょう?」


「週五日通う時期もあるよ。一年間で考えたら、通学だけで五百時間近く使う可能性がある。その時間を勉強や運動、大学での活動に使えるなら、家賃を払う意味はあると思う」


「五百時間か」


 父は、すぐに否定しなかった。


『定期代も必要になりますし、帰宅が遅くなる活動へ参加する場合、通学距離が選択を制限する可能性があります』


 頭の中でジンが補足する。


『それは今言わなくていい。父さんも考えてる』


『承知しました』


 話している最中まで手伝おうとしてくる。


 相棒になったことで張り切っているのかもしれないが、家族との会話くらいは僕にも任せてほしい。


「通学が面倒だから家を出たい、というだけじゃないんだな?」


 父の質問に、少し考えてから答える。


「面倒なのも理由だよ。毎朝早く起きて、満員電車に長く乗りたいとは思わない。ただ、一度は自分だけで生活してみたいんだ。料理や洗濯も、自分でできるようになりたい」


「和希、料理できた?」


 母の疑問はもっともだった。


「簡単なものなら。できないものは覚えるよ」


『調理技術の習得は支援できます』


『頼りにしてる』


「掃除も毎日やらないと、すぐ汚くなるのよ」


「分かってる。ゴミ出しもするし、生活費がいくらかかるかも調べる。何も知らないまま家を出たいと言ってるわけじゃないよ」


『家事の負担を、実際より低く見積もっている可能性はあります』


『ジン、今はどっちの味方?』


『事実を提示しています』


『家を出られなくなったら、君も困るだろ』


『私は居住場所による不利益を受けません』


『少しくらい僕の側に立ってよ』


 頭の中で言い合っている間も、父は家賃や生活費を考えていた。


「一人暮らしをさせること自体には反対しない」


 母が父を見る。


「あなた」


「大学まで片道一時間半以上なら、考えてもいいだろう。早朝や夜遅くの通学もあるかもしれない。和希が自分で生活したいと言うなら、経験にもなる」


「心配じゃないの?」


「心配だから、条件は決める」


 父は僕へ向き直った。


「家賃と管理費を合わせて八万円まで。大学へ無理なく通えて、治安と建物に問題がないこと。契約する前に、父さんか母さんも一緒に見に行く。これでどうだ?」


「初期費用は?」


「入学祝いとして、父さんたちが出す。家賃も在学中は負担するつもりだが、生活費には上限を決めるぞ」


「ありがとう。その条件で探すよ」


「即答か。もう少し遠慮するかと思った」


「払ってくれると言ってるのに、断る理由はないだろ」


「少しは親の懐を心配してくれてもいいんだぞ」


「父さんが無理な金額を提案するとは思ってないから」


 父は呆れた顔をした後、笑った。


「本当に、口がうまくなったな」


 家賃も生活費も、自分で払おうと思えば、いずれ払えるようになる。


 今の資金では無理だが、焦って自立したふりをする必要はない。両親が大学進学を支援してくれるというのなら、素直に頼ればいい。


 その代わり、僕の金が増えたときには、別の形で家族へ返す。


「おにい、家を出るの?」


 美咲は少し意外そうな顔をしていた。


「まだ部屋が見つかったわけじゃないけどね」


「おにいの部屋、わたしが使っていい?」


「寂しがるかと思ったら、狙いはそこかよ」


「だって、今より広いし」


「帰ってくる場所がなくなるから駄目」


「大学生になったら、そんなに帰ってこないでしょ」


「勝手に荷物を動かしたら、美咲への合格祝いはなしにする」


 美咲は納得していない顔をしたが、僕の部屋を諦めるとは言わなかった。


 実家を出る前に、鍵でもつけたほうがいいかもしれない。


 夕食後、自分の部屋へ戻る。


 合格者一覧を表示したスマートフォンを机へ置き、椅子に座った。


『聞いてた?』


『はい』


『家賃と管理費で八万円まで。駒場キャンパスへ通いやすくて、治安と建物に問題がない部屋を探して』


『希望する間取り、駅からの距離、築年数、設備を指定してください』


『一人で住むなら一部屋でいい。駅から十分以内で、室内に洗濯機を置けること。できれば二階以上、風呂とトイレは別。日当たりも悪くないほうがいい』


『すべての条件を満たす場合、対象地域によっては家賃上限を超える可能性があります』


『なら、条件に優先順位をつけよう。僕が後から知って後悔しそうなことを、全部先に調べて』


『後悔の要因を具体化してください』


『騒音、寒さ、暑さ、湿気、虫、近所の店、治安、災害、管理会社、隣人。今の僕が思いついてないものも含めて』


『公開情報から確認できない室内状況や近隣住民の生活については、現地での確認が必要です』


『分からないことは、分からないままでいい。その代わり、分かることは全部調べて』


『承知しました。大学までの所要時間と住環境を考慮し、検索範囲を設定します』


『どれくらいかかる?』


『すでに公開されている物件情報の分析は完了しています』


『早いな。候補は?』


『指定された条件に近い物件が十七件あります。そのうち、総合的な評価が最も高いものは、本日午前に公開された一件です』


 ジンが告げた住所と物件名を、スマートフォンで検索する。


 駅から徒歩七分。


 駒場キャンパスまでは乗り換えを含めて二十分ほど。家賃と管理費は、父が示した上限より僅かに安い。


 掲載された写真には、白い壁と明るい床の小さな部屋が映っていた。


『欠点は?』


『収納が少なく、最寄りのスーパーマーケットまで徒歩九分かかります。また、北東向きのため、午後の日照時間は短くなります』


『致命的ではないね』


『現在確認できる情報では、大きな問題はありません。ただし、同条件の物件と比較して問い合わせが増える可能性があります』


『明日、見に行ける?』


『不動産会社は午前十時から営業します。内見可能かどうかは、問い合わせる必要があります』


『なら、十時になったらすぐ連絡する』


 東京大学へ合格した日の夜。


 僕はもう、四月から一人で暮らすかもしれない部屋を眺めていた。




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