10話 大学名くらい、大きく書いてもいいだろ
三月十一日、午前九時五十九分。
僕はスマートフォンに不動産会社の電話番号を表示し、時刻が変わるのを待っていた。
ウェブサイトに記載されている営業時間は午前十時から。
たった一分早く電話したところで、誰も出ない可能性が高い。
『ジン。まだ物件は空いてる?』
『掲載は継続されています。現在までに申し込みが入ったことを示す情報はありません』
『問い合わせがあったかは?』
『不動産会社の内部情報にはアクセスできません』
『掲載されたのは昨日の午前だよね』
『はい。正確な公開時刻は午前九時四十二分です』
『合格発表の二時間以上前か。僕が東大に落ちてたら、見つけても意味がなかったな』
『ほかの大学へ進学する場合でも、東京で一人暮らしを選択した可能性はあります』
『昨日の僕に、そこまで考える余裕はなかったよ』
時計が午前十時へ変わる。
『確認することは?』
『現在も申し込み可能か、内見できる最短時刻、入居可能日、初期費用、未成年者が入居する場合の契約方法、親権者に必要な手続きです』
『多いな。忘れたら教えて』
『はい』
通話ボタンを押すと、三度目の呼び出し音で相手が出た。
《お電話ありがとうございます。青葉住宅です》
「ウェブサイトに掲載されている物件について聞きたいんですが」
《ありがとうございます。物件名をお願いできますか?》
画面に表示された名前を読み上げる。
《少々お待ちください》
保留音が流れた。
『声、変じゃなかった?』
『通常の発話と比較して、僅かに高くなっています』
『緊張してるように聞こえた?』
『相手が緊張と判断するほどの差ではありません』
『なら、言わなくていいよ』
『質問に回答しました』
保留音が途切れ、先ほどと同じ女性の声へ戻る。
《お待たせいたしました。こちらは現在もご紹介可能です。ただ、昨日からお問い合わせを三件いただいております》
予想より多い。
「まだ申し込みは入っていませんか?」
《はい。今のところは入っておりません》
「今日、内見することはできますか?」
《確認いたします。午後二時でしたらご案内できますが、ご都合はいかがでしょうか》
「大丈夫です。母と二人で伺います」
《かしこまりました。お申し込みになる場合、契約者様はお母様でしょうか》
「父になると思います。僕は十八歳なので、入居者として登録する形にしたいです」
《お父様が契約者様であれば、本日の内見にはお母様とご本人様だけでも問題ございません。お申し込みの際に、お父様の勤務先や収入などをご記入いただく必要があります》
「父本人がいなくても、申し込みまではできますか?」
《はい。契約時にはご本人様の署名や本人確認書類が必要になりますが、入居申込書はお持ち帰りいただくこともできます》
『入居可能日と初期費用』
「入居できるのは、いつからですか?」
《審査と契約が順調に進めば、三月二十五日から可能です》
大学の入学式までには余裕がある。
「初期費用は、どのくらいになりますか?」
《契約開始日によって変わりますが、概算で四十万円前後です。内見の際に見積書をご用意いたします》
『必要事項は確認できました』
「分かりました。では、午後二時にお願いします」
名前と電話番号を伝え、通話を終える。
『どうだった?』
『必要な情報は確認できています。対応にも不自然な点はありません』
『電話の採点までしてくれるんだ』
『依頼されれば、改善点も提示できます』
『今の電話に改善点があった?』
『最初に物件名を伝えた後、問い合わせの目的を一文で補足すれば、相手が案内する順番を決めやすくなります』
『初めて不動産屋に電話したんだから、合格でいいだろ』
『合否を判定する基準がありません』
『じゃあ、僕が決める。合格』
『承知しました』
ジンから認めてもらえないなら、自分で認めるしかない。
電話の内容を母へ伝えると、すでに出かける準備を始めていた。
「昨日合格したばかりなのに、もう今日見に行くの?」
「条件のいい部屋は、僕の合格祝いが終わるまで待ってくれないから」
「まだほかにもあるでしょう」
「十七件の中では、あそこが一番よかった」
「いつ十七件も見たのよ」
「昨日の夜」
嘘ではない。
僕が一件ずつ確認したわけではないというだけだ。
「和希って、そんなに一人暮らししたかったの?」
「昨日思いついたばかりだけど、やると決めたら早いほうがいいだろ」
「一人暮らしは、東大受験みたいに急に決めることじゃないと思うんだけど」
「受験はうまくいったよ」
「毎回うまくいくとは限らないでしょう」
母の心配はもっともだった。
僕だって、部屋を見ただけですべて分かるとは思っていない。だからジンに、住み始めてから困りそうな点まで調べてもらっている。
もちろん、そのことを母に説明するわけにはいかなかった。
電車へ乗り、東京へ向かう。
実家の最寄り駅から駒場キャンパスまでは、乗り換えが順調でも一時間半ほどかかる。朝の混雑や駅までの移動を含めれば、昨日父へ説明した一時間四十分前後という計算になる。
今日見に行く物件は、駒場東大前駅まで電車で数駅の場所にあった。
最寄り駅へ着いたのは、約束の四十分前。
「不動産屋さんへ行くには、少し早くない?」
「先に周りを見ておきたいんだ。部屋だけよくても、住みにくい場所だったら困るだろ」
「そこまで考えてるならいいけど、二時には遅れないでね」
駅を出て、実際に物件まで歩く。
『計測を始めます』
『お願い』
掲載情報では徒歩七分。
僕と母の歩く速度では、信号待ちを含めて六分三十八秒だった。
『不動産屋の七分より少し早いね』
『掲載される徒歩所要時間は、道路距離八十メートルを一分として算出され、信号や坂道などは考慮されません。今回の経路には信号が一か所ありますが、和希さんの歩行速度が基準より速いため、七分以内に到着しました』
『母さんと一緒なのに?』
『恵美さんの歩行速度も、同年代の平均より速い範囲にあります』
『母さんに教えたら喜ぶかな』
『健康状態の評価と誤解される可能性があります。歩行速度のみで総合的な健康を判断することはできません』
『ただ足が速いって言うだけじゃん』
頭の中で話している間にも、周囲を確認する。
駅前には小さな商店街があり、コンビニ、飲食店、薬局も揃っている。物件情報に書かれていたスーパーマーケットは駅と反対方向にあるため、帰宅途中に寄るなら少し遠回りが必要だった。
「スーパーまで九分って、毎日だと少し遠くない?」
「駅前にも小さい店があるよ。普段はそこで買って、まとめ買いするときだけスーパーに行けばいいと思う」
「値段は?」
『駅前の店舗は、主要な食料品の平均価格がスーパーマーケットより約九パーセント高くなっています』
「少し高いみたいだけど、一人分なら大きな差にはならないと思う」
「調べてあるの?」
「昨日見た」
母から何度目かの疑いの目を向けられる。
これ以上正確な数字を出すと、昨日一晩で何をしたのか説明しにくくなる。少し知らないふりを混ぜたほうがよさそうだった。
物件は、駅前の通りから一本入った住宅街に建っていた。
三階建ての小さなマンションで、外壁や共用部分に目立つ汚れはない。前の道は車がすれ違える程度の幅があるものの、交通量は少なかった。
『周辺の犯罪発生状況は?』
『過去三年間、半径五百メートル以内で公開された刑法犯認知件数は、同地域の平均を下回っています。最寄り駅から物件までの経路では、街灯が少ない区間が約七十メートルあります』
『夜は別の道を使えば?』
『所要時間は一分二十秒増えますが、商店街を通る経路を選択できます』
『そのくらいなら問題ないな』
水害の危険も低く、周辺に大規模な建築計画はない。近隣の道路工事も、入居予定日までには終わる見込みだった。
公開情報から確認できる範囲では、大きな懸念は見つからない。
「外から見た感じは、悪くないわね」
「僕もそう思う」
「まだ中を見てないんだから、決めるのは早いわよ」
「分かってるよ」
『現時点で契約を推奨したわけではありません』
『ジンまで母さんみたいなこと言わなくていいから』
物件の場所だけ確認し、駅近くの不動産会社へ向かった。
店へ入ると、電話で対応した女性が迎えてくれた。
簡単な説明を受け、担当の男性と車で物件へ戻る。
「こちらは築十二年で、三階建ての二階部分です。家賃が七万四千円、管理費が四千円になります」
「敷金と礼金は一か月ずつですよね?」
「はい。更新料も新賃料の一か月分です」
担当者が鍵を開け、最初に母が中へ入る。
玄関は狭いが、一人分の靴を置くには困らない。短い廊下の片側に台所があり、反対側には洗濯機置き場と風呂、トイレが並んでいた。
奥の部屋は六畳を少し超える程度。
白い壁と明るい色の床は、掲載されていた写真と大きく変わらなかった。
『第一印象は?』
『掲載情報との明確な相違はありません。玄関周辺に軽度の擦れがありますが、通常の使用による範囲です』
『臭いは?』
『嗅覚情報は共有されていません』
『共有したら分かる?』
『和希さんが知覚できる臭気の識別と、原因の推定は可能です』
『許可する』
鼻を意識すると、新しい壁紙と洗剤の臭いが混じっているのが分かった。
『湿気や排水の臭いは?』
『現在、強い異臭は確認できません。ただし、長期間水を使用していない場合、内見時の状態だけで判断することはできません』
担当者へ断って、台所と洗面所の水を流す。
水圧に問題はなく、排水も詰まっていない。洗面台の下を開けても、漏れた跡は見つからなかった。
母は台所の前に立ち、調理台の広さを確かめている。
「ここで料理できるの?」
「一口コンロよりはいいよ。まな板を置く場所もあるし」
「魚は焼ける?」
「最初から難しいものを要求しないでよ」
『魚を焼くこと自体は、複雑な調理ではありません』
『今は黙ってて』
「何?」
「何でもない」
声に出していないつもりだったが、最後だけ僅かに口が動いていたようだ。
母から目を逸らし、窓際へ向かう。
窓枠の隅には、過去に結露したと思われる薄い跡が残っていた。黒く変色してはいないが、冬場には多少の湿気が出るのだろう。
『対策は?』
『定期的な換気、室温と湿度の管理、窓周辺の清掃で軽減できます。北東向きであるため、午後の日照は期待できません』
『洗濯物は?』
『午前中に干せば日照を利用できます。浴室乾燥機はありませんが、室内物干し用の金具が設置されています』
窓を閉め、しばらく音を聞く。
遠くを走る電車の音は僅かに届くが、会話や睡眠を妨げるほどではない。前の道路を車が通ったときにも、窓を閉めれば大半は遮られた。
「音は気になりませんか?」
担当者に聞かれ、母と顔を見合わせる。
「今のところは。ただ、隣の生活音は分からないですよね」
「現在、隣には会社員の方が一人で住んでいます。騒音の苦情は出ていませんが、生活時間まではお答えできません」
『妥当な回答です』
『隣人について詳しく聞いても、教えてもらえないよね』
『個人情報に該当するため、回答される可能性は低いと考えます』
壁を叩いて確かめるようなことはしなかった。
内見の短い時間だけで、隣人の生活や夜の音まで知ることはできない。ジンがいても、誰にも公開されていないものは分からない。
不明なものが残ることを理由に、すべての物件を避けていたら、住む場所は決まらないだろう。
スマートフォンを取り出し、通信状態を確認する。
電波は安定している。
コンセントの位置を一つずつ見てから、部屋の中央へ立った。
『ベッド、机、棚を置いたら、どれくらい狭くなる?』
『シングルベッドを壁際に置き、反対側に幅百二十センチの机を配置した場合、中央に約八十センチの通路を確保できます。収納家具の大きさによって変化します』
『ソファは?』
『小型であれば設置できますが、食事と勉強に使える机を優先する場合、空間が狭くなります』
『欲しくなったら後で考えるか』
『先に購入すると、ほかの家具配置を制限します』
『買わないよ。まだ』
備え付けの収納は、予想どおり小さかった。
服を増やすなら、ベッドの下や壁際を使う必要がある。大学の教科書や書類を置く棚も必要になるだろう。
欠点はある。
けれど、生活できないほどのものではなかった。
「初めての一人暮らしですよね。随分しっかり確認されますね」
担当者が感心したように言った。
「住んだ後で気づいても、簡単には変えられないので」
「そのとおりです。大学生の方だと、部屋を見てすぐ決める方も多いですよ」
僕も、ジンがいなければそうしていたかもしれない。
駅から近く、部屋が綺麗で、家賃が予算内。それだけで喜び、冬の結露や家具の配置まで考えなかった可能性は高い。
「お母様はいかがですか?」
「わたしは、和希が気に入ったならいいと思います。駅からの道も見ましたし、鍵も二重になっているので」
玄関の鍵には補助錠があり、共用入口にはオートロックもついている。
母が気にしていた防犯面も、最低限の条件を満たしていた。
「昨日からお問い合わせが増えていまして、明日も別のお客様の内見予定が入っています。もちろん急かすつもりはありませんが、お申し込みの順番によっては、ご紹介できなくなる場合があります」
考える時間は長くない。
窓の外へ目を向け、ジンへ尋ねる。
『十七件の中で、今もここが一番?』
『はい。ただし、すべての項目で最も優れているという意味ではありません』
『欠点を含めても?』
『家賃、通学時間、周辺環境、設備、安全性を総合すると、現在公開されている物件の中では、和希さんの希望に最も近いと判断します』
『この後、もっといい部屋が出る可能性は?』
『あります』
『待ったほうがいい?』
『今後公開される物件の条件は評価できません。現在の物件を見送った場合、同等以上の候補が入学までに現れない可能性もあります』
『ジンなら、どうする?』
『私が居住する訳ではありません』
『僕が決めなきゃ駄目なのは分かってる。そのうえで意見を聞いてるんだよ』
『許容できない欠点がないのであれば、申し込みを推奨します』
完璧な部屋ではない。
収納は少なく、午後の日当たりも弱い。スーパーへ行くには少し歩くし、隣人が静かな人間かどうかも分からない。
僕が求めているのは、存在しない完璧な部屋ではなく、予算の中で気持ちよく暮らせる場所だ。
「申し込みたいです」
僕が答えると、母も頷いた。
「では、店舗へ戻ってお手続きをご案内します」
不動産会社へ戻り、入居申込書と初期費用の見積書を受け取る。
契約者になる父の勤務先や収入は、帰宅してから確認することにした。
見積書には、敷金、礼金、前家賃、管理費、仲介手数料、火災保険、保証会社の利用料、鍵交換費用が並んでいる。
その下には、室内消毒、二十四時間緊急サポート、防災用品の項目もあった。
『ジン。全部必要?』
『賃貸借契約書と募集条件を確認する限り、室内消毒と防災用品は任意です。緊急サポートについては、管理会社が提供する基本対応と一部重複しています』
『外したら、いくら安くなる?』
『合計四万三千二百円です』
知らなければ、初期費用に必要なものだと思ってそのまま払っていただろう。
「この室内消毒と防災用品は、外せますか?」
「はい。どちらも任意ですので、ご希望でなければ外せます」
「緊急サポートは、建物の管理サービスと何が違うんですか?」
「管理会社は水漏れや設備故障など建物に関する連絡を受け付けます。こちらは、鍵を紛失した場合の対応や、日常生活の電話相談などを含む別のサービスです」
『鍵紛失時の費用上限と、利用回数を確認してください』
「鍵をなくした場合、作業費は全部無料になりますか?」
「出張費は無料ですが、部品代や特殊作業は別料金です。また、夜間は対応できない場合があります」
『現在の利用条件では、加入費用に見合う可能性は低いと判断します』
「それも外してください」
「かしこまりました」
担当者は嫌な顔をせず、三つの項目を削除した見積書を作り直した。
合計金額が四万円以上下がる。
「こういうところまで調べてきたんですか?」
「入るかどうか迷っていただけです」
本当は、見積書を見るまでサービスの存在すら知らなかった。
知識がなければ、何を質問すべきかも分からない。ジンは僕が知らないことを教えるだけでなく、知らないまま払おうとしている金まで見つけてくれる。
投資で四万円を稼ごうとすれば、十万円前後の資金では大きな危険を取る必要がある。
今回は一つ尋ねただけで、同じ金額が手元に残った。
稼ぐことだけが、金を増やす方法ではないのだろう。
申込書を受け取り、店を出る。
「和希、あのサービスが要らないって、どうして分かったの?」
「見積書に、必須とは書いてなかったから」
「細かいところまで見てるのね」
「父さんの金だからね」
「自分のお金でも、それくらい慎重に使いなさいよ」
「靴のこと?」
「別に靴とは言ってないでしょう」
母には、すでに値段まで知られている。
今後は買ったものだけでなく、何にいくら使ったかまで見られているつもりでいたほうがよさそうだった。
父が帰宅した後、申込書と見積書を見せた。
母からも、部屋や周辺の様子を説明してもらう。
「合格した次の日に、もう部屋まで決めてきたのか」
「まだ申し込み前だよ。父さんが契約者になるから、勝手には進められない」
「昨日の今日で十七件も比較したと聞いたぞ」
「比較できる情報は、インターネットに出てるからね」
「だからといって、普通は一晩でそこまで調べないと思うが」
「早く決めたかったんだよ。母さんも見て、問題ないって言ってる」
父は見積書へ視線を戻す。
「家賃七万四千円、管理費四千円か。上限には収まってるな」
「駒場まで二十分くらい。駅からも近いよ」
「初期費用は、最初に聞いた金額より安くなったのか?」
「任意のサービスを外した。なくても困らないものだったから」
「交渉したのか?」
「必要か聞いただけ。任意だと言われたから断った」
父は項目を一つずつ確認し、母と話した後、申込書を手元へ引き寄せた。
「分かった。この部屋で申し込もう」
「ありがとう」
「契約者は父さんで、和希を入居者にする。それで問題ないんだな?」
「不動産会社には確認してある。契約するときは、父さんの本人確認書類と署名が必要になるって」
「そこまで聞いてあるなら、書けるところから書くか」
父の勤務先や年収、連絡先を記入し、本人確認書類を用意する。
僕も入居者欄へ名前や生年月日、進学先を書いた。
進学先の欄に、東京大学と記入する。
何度書いても、少し気分がよかった。
『字が僅かに大きくなっています』
『大学名くらい、大きく書いてもいいだろ』
『記入欄には収まっています』
『なら問題ないね』
必要書類を撮影し、不動産会社から案内された方法で送る。
入居申し込みが受理されたことを確認した時刻は、午後九時を少し過ぎていた。
東大の合格発表から、まだ一日半も経っていない。
大学の次は、住む部屋が決まろうとしている。
『審査に通る確率は?』
『契約者である浩一さんの収入、勤務状況、家賃との比率を考慮すると、高いと判断します。ただし、審査基準は公開されていません』
『また百パーセントとは言ってくれないんだ』
『審査結果を決定するのは私ではありません』
『分かってる。通ると思う?』
『はい』
最初からそう答えてほしかったが、前置きが必要なのもジンの性格なのだろう。
三月十四日の午後、不動産会社から電話が入った。
《青葉住宅です。先日お申し込みいただいた物件について、入居審査が承認されました》
「ありがとうございます」
《契約開始日は、三月二十五日でよろしいでしょうか》
「はい。父にも確認しています」
《では、三月十六日の午後に、契約手続きへお越しいただけますか? 契約者様ご本人の署名が必要になります》
「父と二人で伺います」
《必要書類とお持ち物は、メールでもお送りいたします》
通話を終え、父と母へ審査に通ったことを伝える。
ジンが予測したとおりだった。
その二日後、父と不動産会社へ行き、重要事項の説明を受ける。
契約期間、禁止事項、退去時の負担、更新料。長い説明を聞きながら、ジンにも内容を確認させた。
『問題は?』
『募集時の条件や、事前に提示された見積書との相違はありません。退去時の清掃費用は固定額であり、通常使用を超える損傷は別途請求されます』
『契約していい?』
『はい。現在確認できる範囲に、契約を中止すべき問題はありません』
父が契約書へ署名し、僕も入居者として必要な書類へ記入する。
初期費用の支払いを終え、三月二十五日に鍵を受け取ることが決まった。
帰宅後、賃貸借契約書の控えを机へ広げる。
物件所在地の欄には、実家とは違う東京の住所が書かれていた。
僕の住民票はまだ埼玉にあり、部屋の鍵も受け取っていない。
けれど、契約書に書かれた一室は、もう僕が暮らすために確保されている。
『ジン』
『はい』
『あの部屋で、最初に何をしようか』
『生活に必要な家具と家電を揃えることを推奨します』
『もう少し夢のある答えはないの?』
『家具と家電がなければ、夢を見るための寝具もありません』
相棒の言うことは、今日も現実的だった。




