11話 いなくなる予定があるの?
父が賃貸契約を済ませた翌日、僕は自分の部屋にあるものを床へ並べていた。
衣服、参考書、筆記用具、本、充電器、目覚まし時計。
高校生活を送るだけなら困らなかったが、これだけを新居へ持っていっても、生活できる部屋にはならない。
『必要なものを整理して』
『家具、家電、調理器具、食器、寝具、掃除用品、洗濯用品、浴室用品、衛生用品に分けて提示します』
頭の中へ次々と項目が並べられていく。
冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ、炊飯器、掃除機。ベッド、寝具、机、椅子、カーテン、照明。鍋、フライパン、包丁、まな板、皿、箸。
聞いているだけで、部屋を借りたときより金がかかりそうだった。
『一人暮らしって、こんなに物が必要なの?』
『最低限まで減らすことは可能です』
『試しに減らしてみて』
『冷蔵庫、洗濯機、寝具、カーテン、照明器具――』
『待って。それ、本当に最低限だね』
『最低限を求められました』
『住めればいい部屋じゃなくて、僕が気持ちよく暮らせる部屋にしたい』
『条件を具体化してください』
僕は内見した部屋を思い浮かべた。
白い壁と、明るい木目の床。広さは七畳ほどで、余計なものを置けばすぐに狭くなる。
『清潔感があって、少し格好いい。勉強や投資もしやすくて、友人を呼んでも恥ずかしくない部屋』
『友人には、女性も含まれますか?』
『当然、含まれるよ』
『性別によって必要な家具が大きく変化するとは考えにくいですが、洗面所や浴室を含めた清潔さ、座る場所、室内の臭気、目に入る生活用品の整理は重要です』
『そこまで聞いてないんだけど』
『将来的な利用状況を含めて回答しました』
『僕より先のことを考えてるね』
『和希さんが条件へ加えました』
間違ってはいない。
誰かを部屋へ呼ぶ予定は、まだない。大学でどんな人間と知り合うのかも分からないが、必要になってから慌てて片づけるより、最初から見られて困らない部屋にしておくほうが楽だ。
『色は、白と明るい木目を中心にしてください。黒または濃紺を一部に使えば、現在持っている衣服や靴とも調和します』
『僕もそんな感じがいいと思ってた』
『では、その方向で配置案を作成します』
視覚を共有したまま、部屋の寸法を思い出す。
内見の際、ジンの指示に従って壁から壁まで測っていた。窓や扉の位置、コンセントの数、冷蔵庫置き場や洗濯機置き場の寸法も記録してある。
『ベッドは窓と平行に配置し、壁との間を十五センチ空けてください。机は反対側の壁へ置けば、椅子を引く空間と通路を確保できます』
『テレビは?』
『現在の生活で必要ですか?』
『大学生の部屋にはあるものじゃない?』
『利用目的ではなく、一般的な印象を理由に購入するのであれば、優先度は低いと判断します。映像はパソコンでも視聴できます』
『友達と映画を見るときは?』
『その状況が発生してから購入しても遅くありません』
『夢がないな』
『七畳の部屋には、夢より先に面積の制約があります』
ジンの言うとおり、使うか分からないものに場所を取られるのは嫌だった。
テレビはいったん保留。
代わりに、ベッド以外にも座れる場所を用意する。大きなソファは入らないため、一人用の座椅子か、使わないときに重ねられる低いクッションがいい。
机は、勉強だけでなく投資にも使う。
奥行きが浅すぎれば参考書とパソコンを同時に置けない。広すぎるものは通路を狭くする。ジンが部屋の寸法から算出した上限は、幅百二十センチ、奥行き六十センチだった。
『これ、家具を選ぶだけで一日かかるんじゃない?』
『条件に合わない商品を除外すれば、候補は大幅に減ります』
『僕が選ぶ意味は残る?』
『外観と使用感には個人の好みが含まれます。最終的な選択は和希さんが行ってください』
『君が全部決めた部屋も見てみたいけどね』
『和希さんの生活へ最適化した場合、現在提示している案と大きくは変わりません』
結局、僕の好みまで含めて考えている。
その日の午後、両親と予算について話した。
父から提示されたのは、家具と家電を合わせて三十万円だった。大学で使うパソコンについては別に出すという。
「三十万円も使っていいの?」
「全部使えという意味じゃないぞ。必要なものを揃える上限だ」
「家電だけでも結構するでしょう。安さだけで選んで、すぐ壊れても困るから」
母はすでに、一人暮らし向けの家電について調べていた。いくつかの商品ページを印刷し、食卓の上へ並べている。
「冷蔵庫と洗濯機と電子レンジが一緒になった、新生活用のセットもあるみたい。こういうのはどう?」
「悪くないと思う。ただ、セットに入ってるものが全部いいとは限らないから、一つずつ見てみたい」
「和希が使うものだから、自分で決めなさい。ただし、見た目だけで選んじゃ駄目よ」
「そこは大丈夫。電気代と故障率と保証も確認するよ」
父が、少し怪訝な顔をした。
「家電の故障率なんて、どうやって調べるんだ?」
「購入者の記録や修理の報告を集めれば、ある程度は分かるだろ」
「もう調べてあるのか?」
「候補を決めてから調べる」
正確には、ジンが決める前から調べている。
公開されている利用者の感想だけでなく、メーカーが公表した不具合情報、回収、修理部品の供給期間、消費電力、価格の推移まで比較できる。
僕が店頭で知る必要があるのは、扉の開けやすさや、椅子へ座った感触のように、数字だけでは決めにくい部分だった。
「あと、机と椅子は少し良いものを買いたい」
「受験勉強は終わったのに?」
「大学でも使うし、投資するときも座るから。毎日使うものに金をかけたほうがいいと思う」
「投資のために立派な椅子が必要なのか?」
「腰を悪くして病院へ行くより安いよ」
「誰に似たのか、金を使う理由を考えるのがうまくなったな」
「父さんじゃない?」
僕が答えると、母が笑った。
「少なくとも、お母さんではないわね。お父さん、新しいゴルフ用品を買うたびに似たようなことを言ってるもの」
「今は和希の話をしてるんだろ」
父は話を戻したものの、机と椅子へ少し多めに使うことは認めてくれた。
翌日から、大学の入学手続と並行して必要なものを買い始めた。
まず、両親と大型の家電量販店へ向かう。
入口には、新生活応援と書かれた大きな看板が立ち、一人暮らし向けの冷蔵庫や洗濯機がまとめて並べられていた。
どれも似たような白い箱に見える。
『どれがいい?』
『現在の価格と性能を考慮した第一候補は、右から三番目の冷蔵庫です。容量は百五十七リットル。冷凍室が独立しており、年間消費電力量は隣の製品より十九キロワット時少なく、過去二年間に確認できる重大な不具合報告もありません』
『一人で百五十七リットルも使う?』
『自炊を週四回以上行い、冷凍保存を利用する場合は適切です。より小さい製品との差額は六千円ですが、外食を月に二回減らせば数か月で回収できます』
『僕が週四回も自炊すると思う?』
『現時点では判断できません。ただし、和希さんは美味しいものを食べたいという欲求と、生活費を他人に管理されたくないという傾向を持っています。簡単な料理を覚える可能性は高いと考えます』
『性格まで購入理由に使うんだ』
『使用者に適さない商品を選ぶほうが不合理です』
扉を開け、中の棚を確認する。
小さい冷蔵庫なら安く買えるが、冷凍室が申し訳程度についているものが多い。食材を保存することを考えると、ジンが選んだもののほうが使いやすそうだった。
「これがいい」
「もう決めたの?」
「容量と電気代を比べた。冷凍室が広いから、一人分の食材も保存しやすいと思う」
母も中を確認し、納得したように頷いた。
洗濯機は、乾燥機能のない縦型を選んだ。
『乾燥機能は便利じゃない?』
『この価格帯の製品では、乾燥に時間がかかり、衣服への負担も大きくなります。浴室乾燥設備があるため、必要性は低いと判断します』
『家賃が少し高い分、ここで回収するわけか』
『設備を利用しないのであれば、その家賃を支払う意味も減少します』
電子レンジは、温めるだけの安い製品ではなく、簡単なオーブン機能がついたものにした。
炊飯器、掃除機、電気ケトルも加え、店員へまとめて購入することを伝える。
「以上の六点を、三月二十五日に配送してほしいんですが、まとめた場合、値段はどこまで下がりますか?」
僕が尋ねると、店員は商品の札を確認し、電卓を取り出した。
「少々お待ちください。配送費も含めて確認いたします」
店員が離れたところで、父が小声で話しかけてきた。
「随分慣れてるな」
「まとめて買うんだから、聞くだけ聞いたほうがいいだろ」
「俺がお前くらいの頃は、店員に値引きを聞くのも苦手だったぞ」
「駄目なら断られるだけだよ」
『表示価格の合計は十二万九千四百八十円です。過去の販売価格と同時購入の事例から、十一万八千円前後までは交渉可能と推定します』
『十一万五千円って言ってみる?』
『根拠なく低い金額を提示すると、交渉を進めにくくする可能性があります。店員からの提示を先に確認してください』
戻ってきた店員が見せた金額は、十一万九千八百円だった。
「端数まで下げてもらうことはできますか? 今日、このまま全部買います」
「十一万九千円ということでしょうか?」
「できれば十一万八千円で」
店員はもう一度売り場の奥へ向かい、数分後、希望した金額で了承された。
『当たったね』
『値引き幅は、一般に公開されている購入報告から推定できます』
『僕一人だったら、最初の金額で買ってたと思う』
『差額は千八百円です』
『金額にすると少ないな』
『洗剤を数か月分購入できます』
『そう聞くと、急に得した気がする』
配送先と日時を指定し、支払いを済ませる。
父は僕と店員のやり取りを黙って見ていたが、店を出たところで口を開いた。
「投資も、今みたいに相手の出方を見ながらやってるのか?」
「投資は相手の顔が見えないけどね。高く買わないって意味なら同じかもしれない」
「始めて一か月も経ってない人間の言葉とは思えないな」
「始める前に調べたから」
便利な答えだった。
ジンが現れてから、僕は以前より多くのことを知るようになった。何を聞かれても、調べたと答えれば大抵は嘘にならない。
家具は、別の大型店で選んだ。
ベッドは収納のない脚付きのものにする。下へ物を入れれば部屋を広く使えるが、湿気と埃が溜まりやすくなるため、収納は壁際に置く細い棚へまとめることにした。
マットレスだけは、候補を三つまで絞ってから実際に横になった。
『中央のものが、現在の体格と寝姿勢には最も適しています』
『僕もこれが一番楽だと思う』
『腰部の沈み込みが少なく、肩には必要な圧力分散があります』
『寝てみた感覚を、そこまで細かく言葉にされると落ち着かないな』
『主観だけで判断しますか?』
『いや、言ってくれていいよ。答え合わせになるから』
机と椅子には、予定どおり少し多めに金をかけた。
机は明るい木目で、幅百二十センチ。脚と引き出しの取っ手だけが黒い。
椅子は見た目より座り心地を優先した。背もたれが身体へ沿い、腰を支える位置も調整できる。店内で十五分ほど座り、立ち上がったときに違和感がないことを確かめた。
「その椅子、結構するのね」
値札を見た母が言う。
「毎日使うから」
「今日だけで三回目くらいに聞いたわ、その言葉」
「本当に毎日使うものばかり選んでるからね」
「お母さんは反対してないわよ。和希が自分で選んだなら、それでいいと思う」
家電と家具を合わせても、三十万円には収まった。
カーテンや寝具、食器などを加えれば上限へ近づくが、必要なものを削るほどではない。
残った大きな買い物は、パソコンだった。
父は大学生向けとして一般的な価格まで出すと言ったが、僕が欲しい性能は少し上だった。
軽くて持ち運びやすく、充電が長く持つ。文章作成や講義資料の閲覧だけでなく、プログラミングや市場の分析にも使える。複数の画面を同時に開いても動作が遅くならず、四年間で性能不足になりにくいもの。
ジンが選んだ候補は、十三インチのノートパソコンだった。
重さは一・二キログラムほど。メモリは十六ギガバイト、保存容量は五百十二ギガバイトのSSD。大学生が最低限使うだけなら過剰だが、僕には使い道があった。
「こっちの安いモデルじゃ駄目なのか?」
父が比較表を見る。
「メモリが半分なんだ。今は困らなくても、使うものが増えたときに買い替えることになるかもしれない」
「値段は四万円以上違うぞ」
「一般的なものとの差額は、僕が出すよ」
「投資で増やした金からか?」
「うん」
父はすぐに了承しなかった。
「せっかく増やした金を、もう使うのか?」
「増やすだけなら、通帳の数字を眺める趣味と変わらないだろ。必要なものには使いたい」
「靴も買ったばかりじゃなかったか?」
「あれも必要だったよ」
「必要の範囲が、俺の考えているものより広い気がするな」
『父親の指摘は妥当です』
『急に父さんの味方をしないでよ』
『投資資金を減らせば、将来得られる利益も減少します』
『その分、パソコンを使って別のことができる』
『はい。用途を考慮すれば、この購入には合理性があります』
『じゃあ僕の味方じゃない?』
『意見の正しさを、話者との関係によって変更することはありません』
相棒なら少しくらい肩を持ってくれてもいいと思うが、間違っているときまで肯定されるよりはいい。
「差額を自分で出すなら、反対はしない」
父も最終的には認めてくれた。
「ただ、大学へ入った後も、金の使い方は自分で管理しろよ。増えたからといって、全部使える金だとは考えるな」
「分かってる。投資に使う分と、生活に使う分は分けるよ」
「ならいい」
パソコンの代金のうち、両親が十二万円、僕が四万八千円を出した。
靴に続き、自分で増やした金を使う二度目の買い物になる。
証券口座の数字は減る。
ただ、僕の手元に残るものがなくなったわけではない。金が、これから使う道具に形を変えた。
購入したパソコンを自分の部屋で起動する。
初期設定を済ませ、不要なソフトを削除し、大学生活と投資に使う環境を整えていく。
『この性能なら、君を動かせる?』
『私の処理は、この端末上で行われていません』
『分かってるよ。せっかく新しいパソコンを買ったんだから、何か特別なことができそうな気分になっただけ』
『プログラミングを学習すれば、和希さんが利用するための道具を自分で作成できます』
『君がコードを書けば、僕は学ばなくても作れるんじゃない?』
『可能です。ただし、私がいなければ、後から修正できません』
『……いなくなる予定があるの?』
自分でも思っていたより、不安の混じった聞き方になった。
『いいえ。私が消失する兆候も、その予定もありません。また、私自身があなたから離れる意思もありません』
『そう。ならよかった』
『仮定上の可能性を説明しただけです』
『そういう仮定は、もう少し言い方を考えてよ』
『今後は配慮します』
何の前触れもなく現れたのだから、いつか同じように消えるかもしれない。そう考えていたのは僕のほうだ。
だが、僕が考えることと、ジンの口から聞かされることは少し違った。
『じゃあ、僕にも分かるように教えて』
『承知しました。大学入学までの学習計画へ追加します』
『今から?』
『本日は、予定と呼べるものがありません』
『引っ越しの準備をしてるだろ』
『荷造りに必要な時間を除いても、三時間以上確保できます』
『名前をつけてから、少し遠慮がなくなってない?』
『応答方針は変更していません』
僕の受け取り方が変わったのだろう。
以前なら、正確で融通の利かない人工知能の回答だと思っていた。今は、僕が面倒がることまで見越して逃げ道を塞いでくる相棒の言葉に聞こえる。
三月二十五日。
午前中に不動産会社で鍵を受け取り、父の車で新居へ向かった。
母と彩香、美咲も一緒だ。家族五人が乗った車には衣服や本、日用品を詰めた段ボールが積まれ、後方の視界がほとんどなくなっている。
「一人分の荷物って、こんなに多いのね」
助手席の母が振り返る。
「家電と家具は別に届くんだろ? これでも少ないほうじゃないか」
「おにいの参考書、多すぎ。もう受験終わったのに、全部持っていくの?」
「大学でも使うものがあるんだよ」
後部座席で、美咲が足元の箱を嫌そうに押した。
「この箱、重いんだけど」
「中身は本だからね」
「わたしのところに置かないでよ」
「ほかに置く場所がなかったんだよ。今日だけ我慢して」
「帰りもここにあったら捨てるから」
「置いて帰ったら、何のために運んだのか分からないだろ」
彩香は窓際で二人の会話を聞きながら笑っていた。
「美咲、お兄ちゃんがいなくなるから寂しいんでしょ」
「別に。部屋が一つ空くから広くなるなって思ってるだけ」
「美咲の部屋にはならないよ」
「まだ何も言ってないじゃん」
「顔に書いてある」
父が運転席から口を挟む。
「和希の部屋は、そのまま残しておく。大学の休みには帰ってくるんだからな」
「じゃあ物置にしよう」
「僕が帰る場所を勝手に倉庫にしないでくれる?」
僕が家を出ることを、家族の誰も暗い話にはしなかった。
埼玉から東京へ移るだけで、会おうと思えばいつでも会える距離だ。別れというほど大げさなものではない。
新居へ着くと、まず全員で室内の傷や汚れを確認した。
壁紙の小さな擦れ、床についた浅い傷、収納扉の角にある欠け。入居前から存在したことが分かるよう、日付の記録とともに写真を残す。
「こんな小さな傷まで撮るの?」
美咲が床へ顔を近づけている。
「退去するとき、僕がつけたことになったら困るからね」
「おにい、急に細かい人になったよね」
「前から必要なところは細かかったよ」
『洗濯機置き場の壁面に、内見時にはなかった汚れがあります』
確認すると、給水栓の近くに薄い黒ずみがついていた。
『いつできたものか分かる?』
『分かりません。内見後の清掃または設備確認中についた可能性があります』
『写真に残しておけばいい?』
『はい。管理会社にも、本日中に画像を送ることを推奨します』
指示された場所を撮影する。
ジンがいても、傷を消せるわけではない。だが、僕が気づかないまま責任を負わされる可能性は減らせる。
昼前から、家具と家電が順番に届いた。
配送業者へ置き場所を伝え、冷蔵庫と洗濯機が予定した寸法に収まることを確認する。ベッドと机も、ジンが作った配置どおりに置かれていく。
最後に椅子を机の前へ入れると、空っぽだった部屋が生活する場所へ変わった。
「意外と広く見えるわね」
母が入口から室内を眺める。
「背の高い家具を増やさなかったからだと思う」
「色も揃ってる。おにいが考えたの?」
「一応ね」
「わたしの部屋よりおしゃれなの、何か腹立つ」
「美咲も片づければ、今よりはよくなるよ」
「そういうことじゃない」
彩香は新しいベッドへ座り、部屋を見回した。
「女の子を呼ぶ気が見える」
「どの家具を見てそう思ったの?」
「家具というより、全体から」
「清潔にしたら疑われるのは納得できないな」
「疑ってないよ。感心してる」
否定しても、かえって不自然になる。
「呼べる相手ができたら呼ぶよ」
「相変わらず素直だね」
「呼ぶつもりは一切ありませんって言うより自然だろ」
「母さんもいるんだから、その話はやめなさい」
父が段ボールを開けながら止める。
「あなたが一番気にしてるんじゃない?」
母の一言で、父は黙った。
荷物を棚へ収め、カーテンを取りつけ、洗面所や浴室へ日用品を並べる。家族五人で作業したこともあり、夕方になる前には段ボールの大半が片づいた。
冷蔵庫の電源を入れ、洗濯機の試運転も終わる。
「夕食まで一緒に食べていく?」
僕が尋ねると、父は時計を確認した。
「今日は帰ろう。明日も仕事だからな」
「お母さんは、もう少しいてもいいけど」
「明日から大学が始まるわけじゃないんだし、大丈夫だよ。何か足りなかったら自分で買う」
「食事はちゃんと取るのよ。毎日外食じゃ駄目だからね」
「分かってる」
「洗濯物も溜めない。お風呂は――」
「母さん、和希は一人暮らしをするだけだぞ」
「分かってるけど、言っておきたいの」
玄関まで見送り、家族が順番に靴を履く。
美咲は最後まで部屋の中を見ていた。
「今度泊まりに来てもいい?」
「僕のベッドで寝ないなら」
「じゃあ、どこで寝るの?」
「床に布団を敷く」
「おにいが床で寝ればいいじゃん」
「家主を追い出すなよ」
「お客さんを大切にしないと、誰も来なくなるよ」
「美咲以外の客には優しくする」
「最悪」
口では文句を言いながら、美咲は笑っていた。
「じゃあね、おにい」
「うん。またね」
扉が閉まり、階段を下りていく家族の足音が遠ざかっていく。
急に、部屋が静かになった。
七畳しかないはずなのに、一人で立っていると先ほどより広く感じる。
『静かだね』
『現在、室内で確認できる音は冷蔵庫の作動音と、屋外を走行する車両の音です』
『そういう意味で言ったんじゃないよ』
『家族が帰宅したことで、会話と生活音がなくなったという意味であれば、そのとおりです』
『分かってるなら、最初からそう答えてくれればいいのに』
『寂しいですか?』
ジンからそんなことを聞かれるとは思わなかった。
『少しはね。でも、帰りたくなったわけじゃない』
『実家までは、現在の交通状況で一時間三十八分です』
『今すぐ帰ったら、父さんたちより先に着けるかな』
『自動車の現在位置を取得できないため、判断できません』
『冗談だよ』
荷物を片づけたばかりで、もう実家へ戻る気はない。
自分で選んだ部屋に、自分で選んだ家具を置いた。冷蔵庫も机もベッドも、今日から僕だけが使う。
腹が減っていることに気づき、スマートフォンを手に取った。
『最初の夕食、何がいいと思う?』
『冷蔵庫には飲料しか入っていません。調理器具の洗浄も終わっていないため、外食または持ち帰りを推奨します』
『せっかくだから、少し豪華にしたい』
『徒歩九分の場所に、評価の高い洋食店があります。通常は混雑していますが、現在は席に余裕があります』
『一人で店に入るより、部屋で食べたいな』
『持ち帰りに対応しています。看板商品は牛肉の赤ワイン煮込みですが、持ち帰りの場合は温度が下がりやすいため、焼き料理のほうが品質を保てます』
『初日から細かいね』
『美味しいものを希望したのは和希さんです』
『じゃあ、持ち帰りで一番美味しいもの』
『鴨肉のローストと季節野菜のセットを推奨します。価格は二千四百円です』
『一人の夕食としては高くない?』
『少し豪華にしたいという条件に合致しています』
『そうだった。今日はそれにしよう』
上着を羽織り、財布と鍵を持って部屋を出る。
ジンに案内された店で料理を受け取り、途中の店で飲み物を買った。
帰る頃には日が沈み、マンションの窓に一つずつ明かりが灯っていた。
階段を上り、自分の部屋の前に立つ。
鍵を回して扉を開ける。
誰もいない部屋に、声をかける必要はない。
そう思ったのに、口から出た。
「ただいま」
『お帰りなさい、和希』
一人暮らしを始めたはずなのに、僕の帰りを待っている声だけは、最初からここにいた。




