12話 おはようございます、和希
一人暮らし最初の朝、僕は目覚ましが鳴る二分前に目を覚ました。
『おはようございます、和希』
目を開けるより先に、ジンの声が聞こえる。
『おはよう。ところで、昨日から僕のことを呼び捨てにしてるよね』
『はい』
『理由を聞いてもいい?』
『和希が私に固有の名称を与え、相棒と表現したため、従来の呼称より現在の関係に適していると判断しました』
『嫌じゃないけど、変えるなら一言くらい言ってよ』
『呼称の変更に許可が必要でしたか?』
『そういうわけじゃない。少し驚いただけ』
『元へ戻しますか?』
『そのままでいいよ。僕もジンを呼び捨てにしてるしね』
『承知しました』
頭の中に現れてから二か月半ほど、ジンはずっと僕を和希さんと呼んでいた。
たった二文字減っただけで、声の距離まで近くなったように聞こえる。
身体を起こすと、カーテンの隙間から入った朝日が、まだ新しい机と床を照らしていた。
家族の声はしない。
美咲が廊下を走る音も、母が食器を動かす音もなく、冷蔵庫の作動音だけが部屋の隅から聞こえている。
『今、何時?』
『午前七時十八分です』
『今日の予定は?』
『指定された予定はありません。午前中に不足している日用品を購入し、午後は大学から届いた資料を確認することを推奨します。運動は午後四時から行えば、夕食までに入浴を終えられます』
『予定がないって言った直後に、全部決めたね』
『提案です。従う義務はありません』
『従わなかったら?』
『必要に応じて、再構成します』
一人暮らしなら、いつ起きても、何を食べても、誰にも何も言われない。
その自由を味わうつもりだったのだが、頭の中には僕より先に一日の使い方を考える相棒がいる。
嫌なら断ればいい。
僕が寝たままでも、ジンは布団を剥がせないし、腕を掴んで起こすこともできない。
ただ、示された予定が僕自身の希望に沿っていると分かっているため、断る理由を探すほうが面倒だった。
『朝食は?』
『昨日購入したパン、卵、ヨーグルトがあります。調理器具は洗浄済みです』
『卵を焼こうかな』
『現在のフライパンでは、中火で三十秒加熱した後に油を引き、卵を入れてから弱火にすれば、底を焦がさず半熟にできます』
『目玉焼き一つにも細かいね』
『失敗するよりは良いと判断しました』
言われたとおりに焼くと、白身の端を焦がさず、黄身だけが柔らかく残った。
トーストと一緒に皿へ載せ、窓際の机で食べる。
料理と呼ぶには簡単すぎる朝食だったが、自分で作ったものを、自分で選んだ部屋で食べるだけで少し気分がいい。
『美味しい?』
『味覚は共有されていません』
『共有する?』
『和希が許可するのであれば可能です』
『今はいいや。味まで分かるようになったら、僕より先に感想を言われそうだから』
『求められない限り、回答しません』
『なら、今度すごく美味しいものを食べるときに共有しよう』
『承知しました』
朝食を終え、証券口座を確認する。
靴を買い、パソコンの差額も自分で支払ったため、投資へ回せる金は四万円台まで減っていた。
八万円から始め、十万円を超えた。
その後も一度損をし、一度利益を出した。数字だけ見れば最初より増やしたはずなのに、口座に残っている金は最初の半分ほどしかない。
『増やしたはずなのに、最初より貧しくなった気がする』
『購入した靴とパソコンを含めれば、保有する資産の総額は減っていません』
『靴まで資産に数えるの? 履いた時点で中古だよ』
『売却価値だけでなく、使用によって得られる効用も考慮しています』
『つまり、僕が満足してるなら損じゃない?』
『支払った金額に相当する満足と用途があるなら、そのように評価できます』
『便利な考え方だな。欲しいものを全部買えそう』
『将来必要になる資金まで消費すれば、選択肢は減少します』
釘を刺すのも早い。
父から受け取る生活費は、家賃や食費、大学で必要になるものへ使う金だ。それを勝手に投資へ回す気はない。
自由に使える金を増やしたければ、今ある四万円台を運用するか、別の方法で稼ぐ必要がある。
『ジン。僕が金を稼ぐ方法って、株しかないの?』
『いいえ。労働、物品の売買、情報提供、広告、ソフトウェアの販売、事業の運営など、複数の方法があります』
『じゃあ、僕が最初に株を選んだのは、間違ってなかった?』
『当時の和希が保有していた資金、年齢、利用可能な口座、能力を秘匿する必要性、作業へ使える時間を比較すれば、適切な選択でした。株式投資が唯一の方法だったのではなく、当時の和希に最も適していました』
『翻訳とか、文章を書く仕事は? 君ならすぐに終わるよね』
『受注は可能です。ただし、依頼者との連絡、納期の管理、修正への対応が必要です。報酬は作業量または納品物に対して支払われるため、収入を増やすほど継続的な対応も増えます』
『僕が受けて、君が全部作るのは?』
『実行できます』
『問題はある?』
『四月から大学生になる十八歳が、複数分野の専門的な依頼を短時間で処理し続ければ、技術の出所を問われる可能性があります。また、私が作成した内容を和希が理解していなければ、依頼者からの質問へ自分の言葉で回答できません』
受験と同じだ。
答えを聞くだけなら簡単だが、それを僕自身の能力として外へ出すには、途中を説明できなければならない。
『えーと、じゃあ競馬は? 馬の状態も過去の成績も、全部分析できるだろ』
『二十歳未満は勝馬投票券を購入できません。また、二十歳になった後も、競走中の事故や、観測されていない馬の状態まで知ることはできません』
『宝くじ』
『抽選が適切に無作為化されている場合、当選番号は予測できません』
『君にも無理なものがあると、少し安心するよ』
『無作為な事象を予測できないことが、和希の安心につながる理由は不明です』
『何でも分かる相手と暮らすのも、それはそれで落ち着かないんだよ』
『私は、何でも知っているとは回答していません』
『分かってる。じゃあ、一番大きく稼げる方法は?』
『長期的には、事業を所有することです』
ジンが挙げたのは、僕が予想していたより普通の答えだった。
『会社を作れってこと?』
『その方法も含まれます。市場に存在する需要を把握し、商品やサービスを作り、継続的に提供できれば、投入した時間だけに依存せず利益を得られます』
『君なら、売れそうなものも分かる?』
『公開されている検索傾向、商品への不満、既存サービスの利用状況、企業の採用動向、技術の普及率などから、需要を予測できます』
『作ることも?』
『ソフトウェアであれば、設計と開発を支援できます。物理的な商品であっても、必要な技術、製造方法、供給先を調査できます』
『なら、今から何か作ればいいんじゃない?』
『現在の和希には、事業を運営した経験と、自分で説明できる技術が不足しています。すべてを私へ依存した場合、取引先や利用者から予想外の質問を受けた際、不自然な対応になる可能性があります』
『だから、プログラミングを覚えろって言ったのか』
『選択肢を増やすためです』
『株で元手を増やしながら、別の稼ぎ方も作る。悪くないね』
『はい。急いで一つへ絞る必要はありません』
大学へ通うのは、学歴を得るためだけではない。
技術を覚え、人と知り合い、僕一人では入れない場所へ入る。その全部を、自分で事業を作るためにも使える。
パソコンを開き、昨日設定した開発環境を起動する。
『何から始める?』
『変数と条件分岐から説明します』
『もっと面白いものを作りながら覚えられない?』
『希望するものを指定してください』
『株価と資産の変化を、自動で整理できるもの』
『和希が保有銘柄と取得価格を入力し、公開されている株価から評価額を計算する記録用プログラムを作成しましょう』
『最初から僕向けだね』
『和希が継続して使用するものを作るほうが、学習意欲を維持しやすいと判断しました』
一時間ほど教わり、自分で入力した数字が画面へ表示されたところで休憩する。
出来上がったものは、電卓より少し便利な程度だった。
ジンなら、僕が指示するだけで完成形を作れる。それをせず、一行ずつ意味を確認しながら書いた。
遠回りには見える。
けれど、今日覚えたことは、ジンが黙っていても僕の中に残る。
何より、昨日買ったばかりのパソコンが、動画を見るための高価な板ではなくなったことが嬉しかった。
三月二十八日。
東京大学の新入生入学諸手続へ向かうため、僕は午前八時半に部屋を出た。
駒場キャンパスまでは、歩いて二十分もかからない。
実家から通えば、一時間半以上かかっていた場所だ。混雑や遅延を考えて早く出る必要もなく、忘れ物に気づいても取りに戻れる。
一人暮らしを始めた価値を、家賃以外の形で初めて実感した。
『今のところ、忘れ物はない?』
『必要書類、筆記用具、本人確認書類、大学から送付された案内を所持しています』
『鍵は?』
『上着の右ポケットにあります』
『財布』
『鞄の内側です』
『ジンがいると、忘れ物をするほうが難しいな』
『私へ確認しなければ可能です』
『そういう可能性はいらないよ』
駒場東大前駅へ近づくにつれて、同じ方向へ歩く人間が増えていった。
封筒や書類を持っている者が多い。家族と一緒に歩く者もいれば、すでに知り合ったのか、数人で話しながら正門へ向かう者もいる。
門の前では、在学生たちが新入生へ声をかけていた。
運動部、文化系サークル、学生団体。色の違う看板や旗が並び、手渡される紙を断らずに受け取れば、校舎へ辿り着く前に両手が埋まりそうだった。
「新入生ですか? テニスに興味ありませんか?」
「理一? うち、理系も多いよ!」
「新歓だけでも来て! 食事代は先輩が出すから!」
高校の校門とは、まったく違う。
昨日まで存在さえ知らなかった団体が、それぞれ自分たちこそ大学生活に必要だという顔で近づいてくる。
『この中で、僕に合いそうなのは?』
『何を得たいか指定してください』
『友人、人脈、面白い経験。できれば女性との出会いも』
『最後の条件を加えたことで、候補の順位が変化しました』
『どのくらい?』
『競技種目と活動頻度だけで判断した場合、上位に含まれていた団体のうち三つが候補から外れました』
『僕の大学生活を、女性の比率だけで決めないでよ』
『和希が条件へ加えました』
『加えたけど、全部じゃない』
『条件ごとの優先順位を指定してください』
『人脈と面白さが上。友人と女性は、その中で自然に増えればいい』
『承知しました』
ジンが、公開されている団体の活動記録や、新歓の案内、過去に所属していた学生の投稿を整理していく。
興味のない競技を続ける必要がある運動部は外した。飲み会ばかりが目立つ団体も、僕が欲しいものとは違う。
投資研究会を名乗る集団からも勧誘された。
「初心者も歓迎です。株とか為替に興味ない?」
「少しあります」
「なら絶対面白いよ。経験者もいるし、みんなで企業分析したり、仮想取引の大会にも出てるから」
受け取った紙には、過去の活動と説明会の日程が書かれていた。
『どう思う?』
『公開されている範囲では、健全に活動しています。投資を学ぶことが目的であれば、参加する価値はあります』
『僕が入った場合は?』
『知識を隠せば、得られるものが限られます。実際の分析能力を示せば、短期間で注目される可能性があります』
『だよね』
僕が株を始めてから、まだ二か月も経っていない。
表向きは初心者として振る舞えるが、企業分析を話し始めれば加減が難しい。ジンの判断を自分の言葉へ置き換えたとしても、毎回正しい方向を示せば理由を知りたがる人間が現れる。
わざわざ能力を隠すために、間違った意見を言う集まりへ参加するのも面倒だった。
紙は捨てず、ほかの案内と一緒に鞄へ入れる。入らないと決めるのは簡単だが、将来的に仕事や投資などで関わる可能性がある。全てが無価値とは限らない。
校舎へ向かう途中、黒い機材を抱えた学生から声をかけられた。
「映像制作に興味ない? 短編映画やミュージックビデオ、大学祭の企画映像も作ってるんだけど」
「撮影したことはないです」
「ほとんどの新入生が未経験だよ。撮るだけじゃなくて、脚本、編集、音響、出演もあるから、興味があるところから始められる」
渡された紙には、学生が制作した映像の画像と、上映会の日程が載っている。
映画を作りたいと思ったことはない。
だが、映像制作という言葉から連想できるものは多かった。
動画配信、広告、テレビ、芸能事務所。撮影や編集の技術だけでなく、出演する人間、企画する人間、仕事を発注する人間ともつながる。
表へ出なくても、関われる場所がある。
『この団体は?』
『五年前から活動記録を公開しています。制作した短編映像は二十七本。卒業生の一部は映像制作会社、広告会社、放送局へ就職しています。現在確認できる範囲では、重大な問題は報告されていません』
『僕に向いてる?』
『映像制作そのものに関心を持てるなら、和希が将来希望している複数の行動と接続します』
『複数って?』
『広告を用いた事業、匿名での情報発信、映像業界への参加、芸能関係者との接点です』
『最後まで覚えてたんだ』
『忘れる理由がありません』
僕は憧れの人へ会う方法として、一時的にテレビ局や事務所へ入ることまで考えたことがある。
映像を作る側から入れば、もう少し自然な道になるかもしれない。大学のサークルへ参加した結果、その業界に興味を持ったことにすれば、誰にも不審には思われない。
「説明会、行ってみます」
「本当? 今週末にも新入生向けの上映会があるから、都合よかったら来て。編集体験もできるよ」
「分かりました」
今度の紙は、すぐに鞄へ入れず、折れないよう別に持った。
『まだ入ると決めたわけじゃないよ』
『はい』
『何か言いたそうだね』
『発言していません』
『こういうとき、君の表情が見えないのは不便だな』
『表情を持つ必要がありますか?』
『あったら、何を考えてるか分かりやすい』
『質問されれば回答します』
『じゃあ、僕がこのサークルに入ると思う?』
『現時点では七十一パーセントです』
『結構高いね』
『勧誘を受けた団体の中で、この案内だけを手に持ち続けています』
自分で思っているより、態度に出ていた。
手続会場では、郵送した内容の確認と、これから必要になる書類の受け取りが行われた。
初修外国語は、入学手続の際に希望したフランス語になっていた。
英語をやめてフランス語を選んだわけではない。英語は既修外国語として引き続き学び、その上でもう一つ、新しい言語を選ぶ。
英語に関しては、考えたことがそのまま口から出る水準まで身につける。
フランス語を選んだ理由は、もう少し個人的だった。
服、料理、映画、パリ。そして、モナコ。
調べてみれば、僕が一度は見てみたいものが随分と集まっていたというだけだ。
手元にある紙には、知らない名前が並んでいた。
この中の何人かとは、少なくとも一年近く同じ授業を受けることになる。友人になる人間もいれば、顔と名前だけ覚えて卒業までほとんど話さない人間もいるだろう。
『この人たちについて、調べられる?』
『公開されている情報があれば可能です』
『今はいい。会ってから知るよ』
『承知しました』
事前に調べれば、話の合う相手も、避けたほうがいい相手も分かるかもしれない。
だが、何も起きていないうちから同級生の過去を集めるのは、少し違う気がした。必要になれば、そのとき考えればいい。
資料と時間割を受け取り、会場を出る。
外では、行きより多くの新入生が在学生に囲まれていた。
勧誘の声、紙の擦れる音、初対面同士のぎこちない会話が、春休み中のキャンパスを満たしている。
僕は一月まで、ここへ通う未来を考えていなかった。
今では、歩いて帰れる場所に部屋があり、鞄の中には自分のクラスと時間割が入っている。
『東大生になった実感は?』
『私には評価できません。和希自身の感覚です』
『聞き方を変えるよ。僕はもう、東大生なの?』
『入学日は四月一日です。現在は東京大学への入学予定者です』
『こういうときくらい、そうだって言ってくれてもいいのに』
『四日後には、事実として回答できます』
『融通が利かないな』
『以前にも同様の評価を受けています』
同じことを言った覚えがある。
頭の中へ現れた初日、国内で一番難しい大学を目指せるかと尋ねたときだ。
あのときのジンは、僕の学力を判断する情報が足りないと答えた。
今なら、何と答えるのだろう。
『ジン』
『はい』
『僕は、東京大学でやっていける?』
『学業だけを基準にすれば、問題ありません。ただし、大学生活で何を得るかは、試験の得点だけでは決まりません』
『友人、人脈、面白い経験?』
『女性との出会いも含まれます』
『そこ、覚えなくていいから』
『和希が提示した条件です』
さっきの会話を、そのまま返された。
『なら、全部手に入れる方法を考えてよ』
『和希が何を選ぶかに応じて支援します』
『そこは僕が決めるんだ』
『はい』
ジンは、僕の代わりに人生を選ばない。
どれが得か、何が危険か、選んだ先に何があるかは教えてくれる。最後に手を伸ばすのは僕だ。
今日は、映像制作の案内を一枚選んだ。
たったそれだけでも、一月には存在しなかった未来が、また一つ増えている。
両親と入学式に着るスーツを買いに行った。
父も休みだったため、都内の百貨店で待ち合わせる。
売り場には黒や濃紺のスーツが並び、どれも大きくは変わらないように見えたが、実際に着ると肩の位置や腰回りで印象が違った。
ジンと店員が選んだのは、僅かに青みのある濃紺だった。
「黒より、こちらのほうがお顔にも合いますね。肩も少し調整すれば、綺麗に着ていただけます」
店員が背中側の生地を整える。
『評価は?』
『色は肌と髪に合っています。肩幅も適切です。袖丈を一・五センチ短くし、腰回りを調整すれば、現在試着した中で最も良い選択です』
『店員さんと同じ?』
『はい』
『なら、僕が何も言わなくても大丈夫そうだね』
『専門家を適切に選べば、私と近い判断へ至ることは珍しくありません』
鏡の前で姿勢を整える。
二月まで着ていた制服も嫌いではなかったが、スーツを着た自分は、少しだけ年齢が上がって見えた。
髪型を変え、姿勢を直し、運動も一か月ほど続けている。身体そのものが大きく変わったわけではないが、肩と背中の位置が整ったことで、上着の線が綺麗に落ちていた。
「似合ってるじゃない」
母が嬉しそうに僕を見る。
「入学式だけで着なくなるのは勿体ないわね」
「大学生なら、ほかにも着る機会はあるだろ」
父は隣に立ち、自分のスーツと僕の姿を比べた。
「俺が十八の頃より、着慣れて見えるな」
「父さんの十八歳を見たことがないから、比べられないよ」
「写真なら家にあるぞ。今度見せてやる」
「お父さん、昔は今より細かったものね」
「今も太ってはいないだろ」
「今より、と言っただけよ」
二人の話を聞きながら、もう一度鏡を見る。
『どう?』
『似合っています』
以前なら、顔立ちと衣服の調和がどうこうと説明したはずだ。
『今日は簡単だね』
『詳細な分析も必要ですか?』
『いや。今のでいいよ』
似合っているなら、それだけでいい。
入学式の日には、父と母も日本武道館へ来る予定になっている。
センター試験直前、僕が東大を受けたいと言ったとき、二人とも驚いていた。三か月後、その大学の入学式へ家族で出席することになるとは、僕自身も考えていなかった。
会計は父が済ませた。
「これは入学祝いだ。靴やパソコンみたいに、自分で出すなんて言うなよ」
「最初から、そのつもりだったよ」
「遠慮がないな」
「父さんが出すと言ったものまで断る必要はないだろ」
「和希は昔から、その辺りだけ妙に素直よね」
「欲しいものを買ってもらえるときに、意地を張る意味が分からないからね」
母は呆れながら笑っていた。
僕は家族へ苦労をかけない人間になりたい。
だが、何も受け取らない人間になりたいわけではなかった。
僕は再び駒場キャンパスへ向かった。
今日から、制度上も東京大学の学生になる。
新入生向けのガイダンス会場には、先日の手続で見かけた顔がいくつもあった。
同じクラスに所属する学生が集められ、これから受ける授業や履修登録、進学選択について説明される。高校までとは違い、必要な手続きを自分で把握しなければ、授業へ出席していても単位を得られない場合がある。
『全部覚えた?』
『はい』
『僕が聞き逃したところは?』
『履修登録期間と、必修科目の説明を含め、欠損はありません』
『じゃあ、資料を読む時間は減らせそうだ』
『確認は必要です。説明者が誤っている可能性もあります』
『大学の説明まで疑うの?』
『発信元によって、情報が常に正しいとは限りません』
『君らしいね』
ガイダンスが終わった後、学生証を受け取るための列へ並んだ。
前にいる学生たちが、一人ずつカードを渡されていく。
僕の番になり、必要な用紙を提出する。
「はい。氏名と生年月日に間違いがないか、確認してください」
渡されたカードには、僕の顔写真と名前が印刷されていた。
佐村和希。
東京大学教養学部。
小さなカード一枚だ。
合格した事実は三月十日から変わっていない。入学料も納め、部屋まで借りているのだから、これを受け取れない可能性を心配していたわけでもなかった。
それなのに、自分の名前と大学名が同じ場所へ書かれているのを見ると、胸の奥にゆっくりと実感が広がった。
『これで、本当に東大生か』
『はい。東京大学教養学部前期課程、理科一類の学生です』
『君が満点を取れるって言ったところから、随分遠くまで来たね』
『私が現れてから、八十三日です』
『日数にすると、思ったより近いな』
センター試験まで十一日だった朝から、まだ三か月も経っていない。
受験、投資、卒業、一人暮らし。
短い間にいくつものものを手に入れたが、大学生活は今日から始まる。
学生証を財布へしまい、同じクラスの学生が待つ教室へ戻る。
ここには、僕のことを高校時代から知っている人間が一人もいない。
どんな人間と関わり、何を学び、何を手に入れるのか。
答えはまだ決まっていなかった。
『行こうか、ジン』
『はい、和希』
教室の扉を開ける。
選べるものは、もう目の前に並び始めていた。




