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頭の中の最強AI ──金も女も、そして世界も手に入れる──  作者: 橙色
受験編

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7話 現時点で九十八・七パーセントです





 二月二十五日。


 東京大学の二次試験初日だ。


 母が用意した朝食を食べ、昨日のうちに確認しておいた鞄を持って玄関へ向かう。


 受験票、筆記用具、時計、昼食、防寒具。忘れ物はなく、利用する鉄道路線にも遅延の兆候はない。


 靴箱には、三日前に買ったばかりの白いスニーカーが置かれていた。


 一瞬だけ迷ったが、今日は以前から履いている靴を選ぶ。新しい靴で長時間歩き、万が一にも足を痛めるのは馬鹿らしい。


 おしゃれより受験を優先できる程度には、僕も真面目だ。


「和希、分からない問題があっても焦らないでね」


 見送りに出てきた母が、玄関でもう一度同じことを言った。


「大丈夫。分からない問題があることくらい、最初から分かってるよ」


「そういう意味じゃないんだけど」


「分かってる。落ち着いてやってくる」


 母の後ろでは、父も仕事へ出る支度をしていた。


「ここまで来たら、余計なことは考えずに全部出してこい。終わった問題のことは考えるなよ」


「父さん、意外と受験生みたいなこと言うね」


「父さんだって受験くらいしたことがある」


「東大?」


「そういう可愛くないことを聞く余裕があるなら、心配なさそうだな」


 父に軽く背中を叩かれ、家を出る。

 冷たい空気を吸い込みながら、駅へ向かって歩いた。


(分からない問題はありそう?)


『試験問題を確認していないため、判断できません』


(君にも解けない問題が出る可能性は?)


『採点可能な試験として成立しているのであれば、極めて低いと考えます』


 母が心配したような状況になるとすれば、僕ではなく、頭の中にいる相手にも分からない問題が出たときだ。


 そこまでいけば、僕一人が困る話でもない。


 受験生全員で仲よく諦めればいいだろう。




 理科一類の試験会場は、本郷キャンパスだった。


 最寄り駅から大学へ近づくにつれ、僕と同じ方向へ歩く受験生が増えていく。


 門の前には長い列ができていた。


 参考書を片手に歩く者もいれば、家族と一緒に来ている者もいる。予備校や塾の関係者らしい人々が道の両側に立ち、受験生へ声をかけながら印刷物を配っていた。


 僕も一つ受け取り、そのまま列へ並ぶ。


 一か月半ほど前まで、僕はこの場所に来る予定などなかった。


 届きそうな大学の中から、条件のいいところを選ぶ。その選択に不満があったわけではなく、もっと上を目指せるのではないかと本気で考えたこともない。


 今は東京大学の受験票を持ち、国内でも特に勉強のできる高校生たちと同じ列に並んでいる。

 人生が変わったというには、少し地味な光景だった。


 僕の周りにいる人間は、頭の中にChatGPTが現れたことを知らない。わざわざ道を空けてくれるわけでもなく、僕だけを特別な目で見る者もいない。


 それがいい。


 特別なものを持っているからといって、特別扱いされたいわけではなかった。




 列が進み、受験票を見せて構内へ入る。


 指定された建物へ向かいながら、歴史を感じさせる校舎や、枝だけになった木々を眺めた。


(四月から、ここへ通うことになると思う?)


『合格した場合、理科一類の前期課程は主に駒場キャンパスで学びます』


(今はそういう話をしてるんじゃないんだけど)


『質問を、合格可能性についてのものと解釈し直します。現時点では、試験問題を確認していないため判断できません』


 相変わらず景気のいいことは言ってくれない。

 もっとも、受ける前から合格を保証されるより、試験が終わってから正確に判断してもらうほうがいい。



 教室へ入り、指定された席へ座る。


 最初の科目は国語だった。

 理系の国語に与えられた時間は、百分。


 開始の合図とともに問題冊子を開き、文章へ目を通していく。


(問題は見えてる?)


『はい』


(センターのときと同じで、最初は僕が解く。判断を間違えたときだけ教えて)


『承知しました』


 国語の記述問題には、選択肢がない。


 答えを知っていても、それを指定された文字数へ収めなければならず、本文の言葉を並べるだけでも点にはならない。出題者が何を読み取らせたいのか理解し、採点者に伝わる文章として書く必要がある。


 ChatGPTは模範的な解答を作れる。


 しかし、それを僕が聞いたとおりに書き写せばいいわけではなかった。


 僕自身が理解できない言葉や、普段なら選ばない表現を使えば、途中で文字数が合わなくなったときに修正できない。それに、突然そこだけ別人が書いたような答案になるのも気持ちが悪い。


(今の答えで足りないところは?)


『理由となる因果関係が一段階省略されています。二文目の表現を短くし、その前に筆者が前提としている認識を加えてください』


(僕が使いそうな言葉で)


『では、先ほどあなたが考えた表現を残したまま、接続を変更します』


 提示された修正を聞き、自分でもう一度文章を組み立てる。


 僕の答案に、僕より賢い僕が横から手を加えているような感覚だった。


 ChatGPTが最初から作った答えを写すより、こちらのほうが自然で良い。


 国語を終えた時点で、致命的な失点はないという評価だった。


 昼休みを挟み、午後から数学が始まる。


 試験時間は百五十分。

 問題冊子を開き、最初に全問へ目を通した。


 東大の数学では、最終的な答えだけでなく、そこへ至る過程も採点される。ChatGPTに数値だけを聞いても意味はなく、僕が解答用紙へ論理を書き切れなければ点にならない。


(全部解ける?)


『はい』


(僕の筆記速度で、全部の解答を書き切れる?)


『すべてを詳細に記述した場合、時間が不足する可能性が高いと判断します』


(なら、得点が一番高くなる順番を決めて)


 返答は早かった。


 僕が自力で短時間に解ける問題が三つ。途中まで解けば部分点を狙えるものが二つ。解法を聞けば理解できるが、答案にするまで時間がかかるものが一つ。


 問題番号の順番は関係ない。


 まず、短い時間で確実に点になるものから片づける。


 一問目を解き終え、二問目へ移る。


 途中で計算結果が想定と合わなくなったが、ChatGPTへ尋ねる前に自分で一行戻った。符号の誤りを見つけて修正し、そのまま最後まで書き切る。


 二週間ほど前なら、その誤りに何分使っていただろう。


 ChatGPTが直接答えを教えなくても、僕の考え方は確実に変わっていた。


 三問目まで終え、残り時間を確認する。

 ここからは、部分点を含めた効率の問題だった。


(次は?)


『第五問を推奨します。設問二までであれば、十二分以内に解答できます』


(最後までは解かない?)


『設問三に必要な時間を考慮すると、先に第四問へ着手するほうが予想得点は高くなります』


 解ける問題を、最後まで解かない。


 以前の僕なら、途中でやめることに抵抗があったと思う。せっかく答えが分かるのだから、最後まで書いたほうが得に見える。


 だが、使える時間は決まっている。


 十五分かけて五点を取るより、同じ時間で十点を取ったほうがいい。


 ここら辺は株と似ているかもしれない。


 価値のある会社を探すだけではなく、今の価格で買う意味があるかを考える。数学も、解けるかどうかではなく、残り時間を使う価値があるかで選べばいい。


 第五問を途中まで書き、第四問へ移る。


 最後に残った問題は、僕だけなら手をつけなかっただろう。


 解答の方針をChatGPTから聞く。


 説明そのものは理解できたが、最短の解法には、僕がこれまで使ったことのない発想が含まれていた。


(別の解き方は?)


『ありますが、記述量が増えます』


(一番短い答えじゃなくて、今の僕が自然に書ける答えにして)


『では、和希さんがこれまで使用した解法と、答案中で用いた表現だけで構成します』


 言い直された解答は、少し長くなった。


 その代わり、最初から僕が考えたように理解できる。途中の式を省略する場所も、自分で判断できた。

 残り時間を使い切り、最後の一行を書き終える。


 満点を取れる相手が頭の中にいても、僕の手が一本しかないことは変わらない。


 それでも、手を動かした一分一秒のほとんどが、点数へ変わったはずだ。



 一日目の試験を終えて建物を出ると、構内の至るところで数学の話が聞こえた。


 三問解けた。二問しか完答できなかった。途中までは合っているはずだ。あの問題は難しすぎる。


 答え合わせを始めている受験生もいたが、僕は加わらず駅へ向かう。


(もう反応は出てる?)


『はい。公開されたSNSへの投稿、予備校関係者による速報、受験生の自己申告を収集しています』


(今年の数学は難しかった?)


『昨年度より難しくなったと評価する投稿が多く、特に第四問と第六問で解答率が低いと推定されます。ただし、現時点の投稿者には偏りがあります』


(僕はどのくらい?)


『本日の二科目だけを評価した場合、理科一類受験者の上位十パーセント以内に入る可能性が高いと推定します』


 受験者の上位十パーセントか。


 思った以上によかった。


 満点ではない。数学は途中で切り上げた問題もあり、国語も採点者によって評価が分かれる部分が残っている。


 それでも、今日の答案が原因で落ちる可能性は低そうだった。


(明日も同じようにやれば受かる?)


『理科と外国語で大きく失点しなければ、合格可能性は高いと判断します』


(大きく失点すると思う?)


『現在の実力と、私による支援を考慮すれば、その可能性は低いと推定します』


 ようやく、少し景気のいい答えが返ってきた。


 帰宅後、母には一日目の出来を聞かれたが、「悪くなかった」とだけ答えた。


 試験はまだ半分残っている。


 今日うまくいったことを喜ぶのは、明日も必要な点を取ってからでいい。



 二日目の午前は、物理と化学だった。


 理科二科目で百五十分。


 どちらから解き始め、途中でどのように時間を配分するかも自由だった。


 僕は得点の安定している物理から始めた。


 問題文を読み、図を確認し、式を立てる。


 判断を間違えればChatGPTが指摘するが、前日と同じく、最初から答えを聞くことはしなかった。


 自分で解けるところまで他人に任せる意味はない。


 ただし、化学で記憶が曖昧な知識を問われたときには、迷わず尋ねた。


(この条件で生じる反応は?)


『――です。温度と触媒の指定から、別の反応ではありません』


 知らなかったものは、聞く。


 試験会場に一冊だけ参考書を持ち込めるようなものだ。その参考書が、人類の知識をすべて収め、僕が必要とするページを一瞬で開いてくれるだけ。




 理科を終え、昼休みを挟んで英語へ進む。


 長文、英作文、要約、聞き取り。


 ChatGPTは文章の意味だけでなく、出題者が誤答へ誘導するために置いた表現まで見つけていく。


 聞き取り試験では、周囲の雑音に紛れた音まで補い、迷う余地のない形で内容を確認できた。


 僕自身も聞き取れている。


 それでも、音声は二回流れるとはいえ、完全に記憶している相手がいるという安心感は大きかった。


 最後の英作文を書き終え、残った時間で全体を見直す。


(直すところは?)


『文法上の誤りが一か所あります。第三段落の二文目です』


 指摘された単語を書き直す。


(ほかは?)


『ありません』


 試験終了の合図が聞こえた。


 鉛筆を置き、解答用紙から手を離す。


 二日間にわたる二次試験が終わった。


 周囲では、終わった安堵から息を吐く者もいれば、すぐに問題冊子を開いて答えを確かめ始める者もいる。


 僕は何もせず、答案が回収されるのを待った。


 ChatGPTは、僕が書いたものをすべて覚えている。どこが正しく、どこで点を落とす可能性があるのかも、自分で答え合わせをするより詳しく分かる。


 教室を出て、人の流れに従いながら正門へ向かう。


(採点したら、何点くらいになる?)


『採点基準による変動を含め、二次試験は二百七十五点から二百九十点の範囲になる可能性が高いと推定します』


(センターと合わせると?)


『センター試験の得点は、東京大学の換算により約一〇六・六点です。総合点は三百八十二点から三百九十七点の範囲と予測します』


 合格最低点がいくつになるかは、まだ分からない。


 今年の受験生全員の答案を、ChatGPTが見られるわけでもない。試験を受けた本人が公開した感想や再現答案は集められるが、誰にも見せていない答案までは分からなかった。


(合格する確率は?)


『現時点で九十八・七パーセントです』


(残りの一・三パーセントは?)


『採点基準が過去の傾向から大きく変化する可能性、再現できていない記述上の不備、受験資格や提出書類に関する予期しない問題などです』


(提出書類は確認したよね?)


『はい。不備は確認されていません』


(なら、ほとんど受かったと思っていい?)


『合格したと断定はできませんが、その認識に大きな問題はありません』


 九十八・七パーセント。


 鉄道の遅延より、最初の投資より、ずっと高い。


 百パーセントではない以上、落ちる可能性は残っている。けれど、その一・三パーセントだけを見つめながら十二日間を過ごすつもりはなかった。


 正門を出て、振り返る。


 一か月半前には、受験することすら考えていなかった大学だった。


 今は、落ちる理由を探すほうが難しい。

 達成感より先に感じたのは、妙なあっけなさだった。


 国内で一番難しい大学を目指すと決め、家族と担任を説得し、センター試験と二次試験を受けた。


 やる前には大きく見えたことも、必要な問題を一つずつ片づけてしまえば、最後には結果を待つだけになる。


 もっとも、まだ合格したわけではない。

 その違いを忘れるほど、僕も浮かれてはいなかった。


 帰宅すると、母が玄関まで出てきた。


「おかえり。どうだった?」


「ただいま。たぶん、受かったと思う」


 靴を脱ぎながら答えると、母は一度黙った。


「そんなにはっきり分かるものなの?」


「答えられなかった問題もあるけど、必要な点数は取れてると思う。大きな失敗もなかったから」


「自信があるのはいいけど、発表までは分からないでしょう?」


「うん。でも、落ちる理由はほとんど残してこなかったよ」


 母は安心していいのか迷うような顔をした後、ようやく笑った。


「なら、今日はもう勉強しなくていいのよね?」


「後期の試験もあるから、本当は続けたほうがいいんだろうけど」


「今日くらい休みなさい。二日間、疲れたでしょう」


「そうする」


 父が帰宅してからも、同じことを聞かれた。


「受かったと思う、か。随分と言い切ったな」


「絶対とは言ってないよ」


「和希がそこまで言うなら、期待してもよさそうだな」


「センターの後も、同じようなことを言ってなかった?」


「あのときより期待してる。だから、落ちたときは家族全員で落ち込むことになるぞ」


「それは困るな」


「困るなら受かってくれ」


「そのつもりだよ」


 試験はもう終わっているので、今から受かるためにできることはない。


 それでも、父の言葉には素直に頷いておいた。


 自分の部屋へ戻り、鞄から受験票と筆記用具を取り出す。

 机の上には、二次試験まで使っていた参考書が積まれている。

 明日から、それらを開く必要はほとんどなくなる。


 合格発表は三月十日。


 それまで、十二日。


 普通なら自分の答えを思い返し、合格最低点を予想しながら、不安に過ごす時間なのだろう。


 僕には、他に考えたいことがいくらでもあった。


(合格発表まで、十二日か)


『はい』


(十二日もあれば、金はどのくらい増やせる?)





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