6話 合格に満点は必要ありません
東京大学の第一段階選抜の結果が発表された。
第一段階選抜という名前はついているが、実質的にはセンター試験の点数による足切りだ。志願者が一定の倍率を超えた場合、二次試験を受けられる人数まで絞り込まれる。
理科一類の最低点は、九百点満点中六百九十八点。
自己採点で八百七十二点を取っている僕が落ちる可能性は、最初から考えていなかった。
それでも、学校で自分の受験番号を見つけた瞬間には、僅かに胸が軽くなった。
「佐村、あったか?」
隣から画面を覗き込んでいた担任へ、番号を指で示す。
「ありました」
「まあ、お前の点数でなかったら、採点を間違えていた可能性を疑うところだが」
「僕も、そっちを疑います」
「分かってはいたが、これで正式に二次試験を受けられるな」
センター試験の十一日前まで、僕は東京大学を受けるつもりすらなかった。
今は、大学側から二次試験を受ける資格を認められている。
まだ合格へ近づいたとは言えない。センター試験の得点は圧縮され、二次試験の結果次第では簡単に追い抜かれる。
それでも、受験番号が載っているという事実には、点数とは別の重さがあった。
「先生」
「なんだ?」
「受けるだけで満足はしませんよ」
「それを今から言うのか」
「願書を確認したときに言われたので」
「覚えていたなら、勉強に戻れ。二次試験まで十二日しかないぞ」
追い払うように言われ、僕は進路指導室を出た。
(十二日で、合格できるところまで行ける?)
『現在の習熟状況を維持できれば、可能です。ただし、記述答案の完成度には依然として改善の余地があります』
(満点とは言わないんだね)
『東京大学の二次試験で、合格に満点は必要ありません』
必要なものだけ取ればいいという点では、センター試験と変わらないらしい。
二次試験は二月二十五日と二十六日。
まずは、その二日間を片づける。
そう考えながら教室へ戻ったものの、翌日には、受験とは別の結果も確定する予定だった。
二月十四日。
東央計測を売却した代金が受け渡され、証券口座の資産は十万円を少し超えた。
夕食後、父にも取引の結果を見せる。
「六万四千円で買って、八万八千円で売ったのか?」
「正確には、そこから手数料が引かれてるけどね」
「数日で二万円以上増えてるじゃないか」
「うん。最初としては、かなりうまくいったと思う」
父はスマートフォンの画面を見たまま、すぐには喜ばなかった。
投資経験が多少あるだけに、数日で三割近く増えることが、普通ではないと分かっているのだろう。
「和希。利益が出たこと自体はよかったが、これを毎回できるとは思わないほうがいいぞ」
「分かってる。今回だって、悪い結果になる可能性はあったから」
「本当に分かってるならいいが、最初に勝つと、自分には才能があると思いやすいらしいからな」
才能があるのは僕ではなく、頭の中にいるChatGPTだ。
もっとも、父から見れば、どちらでも同じように危なっかしく見えるだろう。
「借金もしないし、損を取り返すために無理な取引もしない。最初に決めた条件は守るよ」
「なら、続けることには反対しない。ただ、受験を疎かにするなよ」
「投資に使った時間より、この話をしてる時間のほうが長いくらいだよ」
「それは俺が悪いみたいじゃないか」
「父さんが確認できるようにするって約束だったから、見せたんだろ」
「そうだったな」
父は画面を返しながら、ようやく少し笑った。
「まあ、初利益おめでとう。増えたからといって、全部使うなよ」
「考えておく」
「そこは使わないと言ってほしかったんだが」
全部使うつもりはない。
ただ、使わないと約束するつもりもなかった。
金は増やすためだけにあるわけではない。欲しいものを手に入れるためにも使えるから、増やすことに意味がある。
とはいえ、十万円で人生が変わるわけでもない。
今すぐ何かを買うより、もう少し増やしてから使ったほうが楽しそうだった。
(次の候補は?)
自分の部屋へ戻ってから尋ねると、すぐに会社名が返ってきた。
今度は、業務用の冷却装置を製造している企業だった。
一株九百十二円。
東央計測で得た利益を含めれば、百株購入できる。
(上がる確率は?)
『今後五営業日以内に、現在価格を上回る可能性は七十一パーセントです』
(前より随分低いね)
『東央計測と同等の条件が、常に存在するわけではありません』
(もっと確率が上がるまで待ったほうがいい?)
『待つことも選択肢です。ただし、予測される上昇幅と下落幅を含めた期待値はプラスです』
買わなければ、損はしない。
同時に、利益も出ない。
八十四パーセントだった前回より危険は大きいが、それでも七十一パーセントある。それに、失敗したところで元手をすべて失うような取引ではない。
(買おう。ただし、状況が変わったらすぐに教えて)
『承知しました』
九百十二円で百株。
二度目の購入には、最初ほどの緊張はなかった。
一度経験しているからでもあるが、今度失う可能性がある金の一部は、投資によって得た利益だ。元から持っていた八万円を出したときとは、同じ一万円でも重さが少し違って感じられる。
その感覚が危険なのかもしれない。
利益も、一度自分のものになれば同じ金だ。それを軽く扱い始めれば、父が心配していたとおりになる。
注文を出した後は値動きを頻繁に確認しなかった。
僕が画面を見たところで、株価が上がるわけではない。新しい情報が出ればChatGPTが教えてくれるのだから、二次試験の勉強へ戻るほうがいい。
二月十五日の取引終了後、そのChatGPTから報告があった。
『投資判断を変更する情報が公開されました』
(何があった?)
『主要な納入先の一社が、生産設備の更新時期を延期しました。同社が本日公開した事業計画と、建設予定地を管轄する自治体の審議資料から確認できます』
(僕が買った会社には、どのくらい影響する?)
『受注の消失ではなく先送りと推定しますが、短期的な株価上昇を見込んだ当初の根拠は弱くなりました』
購入した株は、すでに少し下がっている。
今売れば、五千円ほどの損失になる。
(待っていれば戻る可能性は?)
『あります。ただし、その期間と確率を考慮すると、現在の資金を拘束し続ける利点は小さいと判断します』
(売った後に上がったら?)
『その可能性もあります』
都合よく、絶対に戻らないと言ってはくれないらしい。
五千円。
前回の利益より小さいとはいえ、高校生の僕にとっては簡単に捨てられる額ではない。数日待つだけで戻るかもしれないなら、今売るのは損を確定させる行為でもある。
けれど、買った理由がなくなったのに、損をしたくないという理由だけで持ち続けるのはおかしい。
(取引開始後、売って)
『寄り付き前の注文状況を確認し、価格を提案します』
週が明け、八百六十二円で売却した。
損失は五千円ほど。
口座の資産は十万円を割り込み、九万九千円ほどになった。
八万円から始めたことを考えれば、まだ利益は残っている。
それでも、十万円を超えた数字を一度見た後では、元へ戻されたような気分になった。
(七十一パーセントだったよね?)
『はい』
(思ったより悔しいな)
『金銭的な損失に対する感情は、同額の利益による喜びより強くなりやすい傾向があります』
(慰めてる?)
『一般的な認知傾向を説明しています』
この声に慰めを期待した僕が間違っていた。
ただ、予測が外れたわけではない。
七十一パーセントで上がるなら、二十九パーセントでは上がらない。今回はその側へ入っただけだ。
ChatGPTがいれば必ず勝てるのではない。
負ける可能性を先に知り、負けたときに被害を小さくできる。それも含めて、僕の優位性なのだ。
(次の候補はある?)
『あります。ただし、売却代金の受渡しが完了するまで、全額を次の取引へ利用しないほうが手続きは明確です』
(なら、待つよ)
損を取り返すために無理な取引はしない。
父へ話したばかりの約束を、一度負けただけで破るほど僕も単純ではなかった。
二月二十一日。
二度目の売却代金が受け渡されると、ChatGPTは新しい候補を提示した。
医療機関向けの衛生用品を製造する、小さな会社だった。
一株七百四十二円。
今度は七万四千二百円だけを投じ、残りは現金として置いておく。
(この会社は、何が起きるの?)
『明日、ある公的医療機関による物品調達の結果が公表される予定です。この企業が複数年契約を受注する可能性を、八十九パーセントと推定しています』
(入札の結果なんて、発表前に分かるものなの?)
『参加企業が公開している製品仕様、過去の納入実績、調達条件への適合状況、物流拠点の人員募集などから推測しています。入札額そのものは公開されていないため、確定はできません』
(外れたら?)
『契約への期待は現在の株価へほとんど反映されていないため、下落幅は限定的と予測します』
上がる可能性が高く、外れたときの損失は小さい。
前回より、ずっと気楽に注文を出せた。
翌日の午後、契約結果が公表された。
落札企業の欄には、僕が株を買った会社の名前があった。
契約額は市場の予想を上回り、数年間にわたって安定した売上が見込まれる内容だった。
株価は七百円台から上昇し、僕はChatGPTが提案した九百円で百株を売却した。
利益は、一万五千八百円。
二度目の損失を取り戻し、口座の資産は十一万五千円ほどになった。
最初の八万円から考えれば、三万五千円の増加。
毎回勝ったわけではない。
それでも、二度勝ち、一度負けた結果、僕の金は確実に増えている。
(この調子なら、来月には二十万円くらいになる?)
『同程度の機会が続くとは限りません。また、二次試験まで三日です』
(分かってる。少しくらい夢を見させてくれてもいいのに)
『根拠のない予測が必要ですか?』
(それは要らない)
欲しい答えだけを言われても仕方がない。
口座の数字を眺めながら、以前から欲しかったものを思い出す。
白い革を基調に、側面へ濃紺が入ったスニーカー。
店で見かけるたびに気になっていたが、普段履く靴へ二万円以上出すのは贅沢に思えて、買わずにいた。
(あの靴、まだ売ってる?)
『以前あなたが店舗で確認した商品であれば、現在も取り扱われています。近隣では二店舗に在庫があり、オンラインでも購入可能です』
(僕のサイズは?)
『同商品の形状と、視覚共有によって確認した足の大きさを考慮すると、普段より〇・五センチ大きいサイズが適切です。ただし、履き心地を確認してから購入することを推奨します』
(最安値は?)
『オンラインでは、店頭価格より千八百円安く購入できます。到着予定は四日後です』
四日後なら、二次試験の初日だ。
別に試験へ履いていきたいわけではないが、買うと決めた後に四日待つのは長く感じる。
(今日、持って帰るなら?)
『在庫がある店舗で購入する必要があります』
(それは分かってる。どっちの店が近い?)
『学校からの帰宅経路を考慮すると、駅前の店舗へ寄るほうが十二分短くなります』
十二分。
その程度なら、試験勉強への影響を心配する必要もないだろう。
僕は学校帰りに駅前の店へ寄った。
目当てのスニーカーは、以前と同じ棚に置かれていた。
白い革は手入れが必要で、黒い靴より汚れも目立つ。履き潰すだけなら、もっと安くて丈夫なものはいくらでもある。
それでも、欲しいと思うのはこれだった。
店員へサイズを伝え、試着する。
ChatGPTが提案したとおり、普段より〇・五センチ大きいものが足に合った。立ち上がって店内を少し歩くと、踵が浮くこともなく、爪先にも僅かな余裕がある。
(どう?)
『歩行時の重心移動に不自然な偏りはありません。足幅にも合っています』
(僕の服にも合わせやすい?)
『現在所持している衣類のうち、少なくとも十四通りの組み合わせに適合します』
十四通り。
僕なら、たぶんもう少し考えられる。
値札には、二万一千六百円と書かれていた。
オンラインなら千八百円安い。
その差額で昼食を二回か三回は食べられるし、待つだけで安くなるものを、わざわざ高く買うのは合理的ではない。
(オンラインで買ったほうがいいと思う?)
『金銭的な支出だけを比較すれば、そのほうが合理的です』
(でも、僕は今これを履いて帰りたい)
『その満足に千八百円以上の価値を感じるのであれば、店頭で購入することに矛盾はありません』
価値があるかどうかは、僕が決めていいらしい。
「これにします。今、履いて帰ってもいいですか?」
「もちろんです。履いてこられた靴は、こちらの箱へお入れしますね」
会計を済ませ、値札が外される。
店を出たときには、足元が少しだけ軽くなったように感じた。
靴が特別軽いわけではない。
欲しかったものを、値段だけを理由に諦めなくてよかった。その感覚のせいだろう。
歩きながら、何度か足元を見てしまう。
(見すぎかな?)
『購入直後の所有物へ注意が向くことは、珍しくありません』
(そういう分析じゃなくて、似合ってるか聞いてるんだけど)
『似合っています』
(最初からそう答えてよ)
『質問の意図が明確ではありませんでした』
頭の中に人工知能がいても、こういうところでは妙に気が利かない。
それでも、似合っていると言われれば悪い気はしなかった。
投資を始める前に持っていた金は、八万円。
欲しかった靴を買った今も、それを上回る資産が残っている。
我慢して貯めた金が減ったのではない。
増やした分の一部が、足元に形を変えた。
帰り道の景色はいつもと変わらなかったが、歩くたびに見える真新しい白だけが、昨日までとは違っている。
二万円ほどの靴で、こんなにも気分がいい。
大金を手に入れた人間が、さらに高いものを欲しがる理由が、少しだけ分かった気がした。




