5話 理科一類で間違いないな?
一月二十八日、東京大学理科一類への出願が始まった。
願書そのものは、センター試験を受ける前から手元にある。以前の僕なら使うはずのなかった書類だが、志望校を変えると決めてから必要事項を記入し、調査書も学校へ申請していた。
放課後、進路指導室で担任と一緒に、提出書類を最後まで確認する。
「受験科類は、理科一類で間違いないな?」
「はい」
「後期日程と私立の併願先も、この内容でいいんだな?」
「大丈夫です」
担任は願書と調査書、センター試験の成績請求票を順番に確かめ、最後に僕が記入した住所へ目を通した。
形式上の不備は、すでにChatGPTに確認してもらっている。僕が見落としているものはないはずだが、だからといって担任の確認を断る理由もなかった。
「まさか本当に、この願書を使うことになるとはな」
「僕も、二週間前までは思ってませんでした」
「先生は今でも少し信じられないよ。センター前に相談されたときは、止めるべきか迷っていたからな」
八百七十二点という結果がなければ、今も同じように迷っていたのだろう。
けれど、机の上に置かれた願書には、はっきりと東京大学理科一類と書かれている。
僕の思いつきではない。
両親と話し、担任にも認められ、必要な書類を揃えた正式な進路になった。
「センターは十分だ。ただ、東大は二次試験の配点が大きい。ここからの一か月で決まると思っておけ」
「分かってます」
「分かっている顔には見えるんだよな。それが余計に心配になる」
「もっと不安そうにしたほうがいいですか?」
「それはそれで心配になるから、やっぱり今のままでいいぞ」
担任から書類を返してもらい、折れないよう封筒へ収める。
「佐村」
「はい」
「ここまで来たんだ。受けるだけで満足するなよ」
「最初から、受けることを目標にしたつもりはありません」
担任は僅かに笑い、それ以上は何も言わなかった。
家へ帰ってから、母にも書類を見せた。
「これを出したら、もう東大を受けるのね」
「不備がなければね」
「先生には、ちゃんと確認してもらった?」
「今日、一緒に見てもらったよ」
母は願書に書かれた大学名を眺めた後、僕の顔を見た。
「和希が東大を受けるなんて、今でも何だか不思議だわ」
「まだ二週間も経ってないんだから、慣れなくて当然だろ」
「本人はもう慣れたの?」
「慣れたというより、受かるために何をするか考えるほうが忙しいかな」
「そう。なら、お母さんは体調のことを考えておく。何か必要なものがあったら、早めに言ってね」
「ありがとう」
母は受験について詳しいわけではない。
僕が何を覚え、どんな問題を解けばいいのかも分からないだろう。それでも、自分にできることを探そうとしてくれている。
僕が一人で何でもできると思い込むより、任せられるところは任せたほうがいい。頭の中にChatGPTがいることと、家族の助けが必要なくなることは別だった。
父が帰宅した後にも、出願することを伝えた。
「いよいよだな」
「明日、郵便局から出してくるよ」
「受験するのは和希だが、結果が出るまでは家族まで落ち着かなくなりそうだ」
「まだ一か月以上あるよ」
「だから困るんだ。一か月も落ち着かずに待たされるってことだろ」
父はそう言いながらも、表情は明るかった。
センター試験前に志望校を変えたいと話したときとは違い、本当に受けていいのかと確かめられることもない。
結果を一つ出しただけで、僕の言葉の重さが変わっている。
翌日、必要書類を入れた封筒を郵便局へ持っていった。
窓口で受理された封筒は、そのまま僕の手元を離れる。
二月二十五日と二十六日。
その二日間に向けて、僕の名前が東京大学へ送られていった。
未成年口座の開設を知らせる書類が届いたのは、それから一週間ほど後だった。
申し込みから数えれば、およそ二週間。
その間も僕は二次試験の準備を続けていたが、投資について忘れていたわけではない。ChatGPTへ何度か候補を尋ねるたび、返ってくる会社の数と名前は変わっていた。
最初に聞いた四十七社のうち、候補から外れた会社もあれば、新たに加わった会社もある。
有望な企業が一度決まれば、後は買う日を待つだけだと思っていた僕には、その変化が少し意外だった。
(前に候補だった会社は、価値がなくなったの?)
『いいえ。株価が上昇し、期待される利益に対して購入価格が高くなった企業や、新たな情報によって予測の不確実性が増した企業を除外しました』
(会社そのものが良くても、株を買う価値があるとは限らない?)
『はい。優れた企業であることと、現在の株価で投資することは別の判断です』
考えてみれば当然なのだろう。
どれほど良い商品でも、値段が高すぎれば買わない。株になると急に難しく見えるが、基本的には同じ話だ。
父と一緒に口座の設定を確認し、僕の銀行口座から八万円を入金する。
画面に表示された買付可能額は、八〇、〇〇〇円。
正月にもらったお年玉や、これまで使わず残してきた小遣いだ。大人から見れば大した金額ではないかもしれないが、僕にとっては自由に使える金のほとんどだった。
(今、一番条件がいいのは?)
『東央計測株式会社です』
聞いたことのない会社だった。
検索すると、国内の製造業向けに検査装置や測定機器を作っている企業が表示される。テレビで名前を聞くような会社ではなく、一般向けの商品もほとんど扱っていない。
株価は一株六百四十一円。
百株単位で購入するため、必要な金額は六万四千百円になる。手数料を含めても八万円以内には収まるが、持っている金の八割ほどを、一社へ入れる計算だった。
(前は、一度の取引に集中させないほうがいいと言ってなかった?)
『保有資金が少なく、国内株式を百株単位で購入する場合、十分な分散は困難です。東央計測へ投資する場合でも、残る資金は現金として保持します』
(この会社の何がいいの?)
『三日後に第三四半期の決算発表を予定しています。現在の市場予想より業績が上振れし、通期予想を上方修正する可能性が高いと判断しています』
(まだ発表されていないのに、どうして分かる?)
『東央計測の主要取引先が公開した設備投資計画、複数の納入先による技術者の募集、地方自治体が公表した工場増設への補助金交付記録、製品の輸出量と周辺企業の受注状況が、従来の会社予想を上回る生産を示しています』
一つずつ説明されても、僕には業績の上振れまで結びつけられない。
自治体の資料に会社名が載っていることも、取引先が技術者を募集していることも、それぞれ単独なら珍しい話ではないだろう。
けれど、それらが同じ方向を示しているなら意味が変わる。
(上方修正される確率は?)
『現時点で八十四パーセントです』
(残りの十六パーセントは?)
『設備投資に伴う費用が想定以上に膨らんでいる可能性、納入時期が次の四半期へずれている可能性、公開情報から把握できない不具合や契約変更などです』
八十四パーセント。
鉄道の遅延を予測したときより高いが、確実ではない。
買った直後に悪い情報が出れば、八万円を増やすどころか減らすことになる。
(損をするとしたら、どのくらい?)
『決算内容が市場予想を下回った場合、短期的に十五パーセントから二十五パーセント程度下落する可能性があります。事前に新たな悪材料が公開された場合は、決算を待たず売却します』
(利益は?)
『予想どおりの上方修正が発表された場合、二十パーセントから四十パーセント程度の上昇が見込まれます。ただし、発表前に期待が株価へ反映されれば小さくなります』
失敗すれば、一万円以上を失う可能性がある。
成功すれば、それ以上に増える。
確率と金額だけを見れば買うべきなのだろう。それでも、注文を確定する直前になると、六万四千百円という数字が急に重く見えた。
僕は金を失うのが怖くない人間ではない。
八万円を持っているときなら、一万円程度は大した額ではないように思える。実際に自分の口座からなくなる可能性を考えると、それで何を買えたかまで簡単に思いついた。
(君なら買う?)
『私には資産も、損失に対する感情もありません。最終的な判断は和希さんが行う必要があります』
(便利なところで責任を返してくるね)
『損失が生じた場合に私を責める予定であれば、購入しないことを推奨します』
少し可愛げが出てきたと思ったのは、僕の気のせいだったらしい。
ただ、言っていることはわかる。
ChatGPTは知らないものまで知っているわけではなく、八十四パーセントは百パーセントではない。それを聞いたうえで金を出すと決めるのは僕だ。
(買おう。どう注文すればいい?)
『現在の売り注文を考慮すると、六百四十三円で指値注文を出せば、本日中に成立する可能性が高いと判断します』
(今の株価より二円高いけど?)
『六百四十一円で注文した場合、買えないまま価格が上昇する可能性があります。二百円を節約することより、決算発表前に購入できる可能性を高めるほうが期待利益は大きくなります』
言われたとおり、一株六百四十三円で百株の指値注文を出す。
確認画面には、注文金額六万四千三百円と表示されている。
暗証番号を入力し、注文を確定した。
それだけだ。
紙幣を渡した感触もなければ、何かを買った実感もない。数字を入力してボタンを押しただけで、僕の八万円の大部分が株式へ変わろうとしている。
注文が成立したのは、午後の授業中だった。
休み時間にスマートフォンを確認すると、保有銘柄の欄に東央計測の名前が加わっている。
百株。
取得価格、六百四十三円。
(これで僕も株主?)
『はい』
(思ったより簡単だったな)
『口座開設に必要な手続きを除けば、株式の購入自体は複雑ではありません』
難しいのは、何を買うか決めることなのだろう。
僕の場合、その部分を世界中の公開情報を把握している人工知能へ任せている。
翌日、東央計測の株価は六百二十八円まで下がった。
保有資産の評価額には、購入したときより千五百円ほど少ない数字が表示されている。
(下がってるけど)
『はい』
(予測は変わってない?)
『変わっていません。本日の下落は同業他社の決算を受けたものと推定されますが、東央計測の受注状況とは一致しません』
(なら、買い増したほうが得なんじゃない?)
『残る資金では百株を追加購入できません。また、一時的な価格変動だけを理由に当初の計画を変更することは推奨しません』
理屈は分かる。
それでも、自分の金が減っている画面を見ると落ち着かなかった。
たった千五百円でこれなら、将来扱う金額が増えたとき、僕は本当に平静でいられるのだろうか。
ChatGPTがいくら正確でも、注文を出す僕まで機械になるわけではないらしい。
決算発表当日の株価は、六百三十二円で取引を終えた。
購入価格より十一円低い。
発表は午後三時を過ぎてから行われる予定だった。
(何か新しい情報は?)
『予測を大きく変更する情報はありません。上方修正の確率は八十七パーセントまで上昇しています』
(上がった理由は?)
『本日公開された主要取引先の月次生産実績が、推定していた範囲の上限に近かったためです』
あと十三パーセント。
僕は自分の部屋で、東央計測のウェブサイトを開いたまま時刻を確認していた。
午後三時三十分。
決算資料が公開される。
自分で開くより早く、ChatGPTの声が聞こえた。
『東央計測は、通期業績予想の上方修正を発表しました。売上高は従来予想から八・二パーセント、営業利益は二十七・六パーセント引き上げられています』
(予測よりいい?)
『営業利益は私の推定を二・一パーセント上回っています。また、期末配当の増額も発表されました』
思わず椅子から立ち上がりかけ、誰も見ていないことに気づいて座り直す。
予測が当たった。
鉄道の遅延とは違う。
電車を一本早めたときに得したのは、二十分ほどだった。今回は、僕が持っている金そのものが増える。
(株価は、どのくらい上がる?)
『明日の寄り付きでは買い注文が先行すると予測します。ただし、正確な価格は市場参加者の判断によって決まります』
(売るなら?)
『現時点では八百六十円から九百円の範囲に指値注文を置く方法が適切です。寄り付き前の注文状況を確認して調整します』
「そこは、明日にならないと分からないか」
『はい。決算内容を見た投資家がどの価格まで買うかは、まだ観測されていません』
未来を知っているわけではない。
決算が発表された今、ChatGPTが持っている情報は他の投資家も見ることができる。明日になれば、昨日まで僕だけが持っていた優位性は薄くなる。
だから、値上がりした後まで欲張らない。
翌朝、取引開始前の注文状況を確認したChatGPTは、八百八十八円で売り注文を出すよう勧めた。
(もっと上がる可能性は?)
『あります。ただし、九百円付近では利益確定の売りが増えると予測します。さらに高い価格を狙うより、この水準で売却できる確率を優先すべきです』
(最高値まで持っていたほうが儲かるよね?)
『最高値は、過ぎた後でなければ確定しません』
当たり前のことを、随分と綺麗に言う。
欲張って売れなくなるより、買ってくれる人間がいるうちに利益を確定する。
八百八十八円で、百株。
登校前に注文を出し、学校へ向かった。
取引が始まる午前九時、僕は授業を受けていた。
スマートフォンを見ることはできないが、ChatGPTは市場の情報を取得している。
(今、どうなってる?)
『東央計測は八百五十円で取引を開始し、現在は八百七十四円です』
授業を聞きながら、表情を変えないようにする。
数分後。
『八百八十八円に到達しました。売却注文は成立しています』
頭の中でそう告げられても、目の前では教師が黒板へ数式を書いている。
教室の誰も、今この瞬間、僕が初めて株で利益を出したとは知らない。
声を上げることも、スマートフォンを確認することもできず、僕は普段どおりノートへ式を書き写した。
(利益は?)
『手数料を考慮する前で、二万四千五百円です』
六万四千三百円で買ったものを、八万八千八百円で売った。
わずか数日で、元手の三割を超える利益になる。
(今日の最高値は?)
『まだ取引中ですので確定していません』
(今は?)
『九百十二円です』
僕が売った後も上がっている。
一株につき二十四円。百株なら、あと二千四百円は多く稼げた計算だ。
少し惜しい。
そう思った直後、ChatGPTの声が続いた。
『現在、八百七十九円まで下落しました』
(早くない?)
『短期的な利益を確定する売り注文が増えています』
もし九百十二円を見て、さらに上がると思っていたら、売る機会を逃していたかもしれない。
最高値を取れなかったのではない。
最高値を取ろうとする必要がなかった。
帰宅後、証券口座を開く。
売却代金が実際に受け渡されるのは数営業日後だが、取引の履歴には確定した利益が表示されていた。手数料を差し引いても、口座の資産は十万円を超える。
八万円が、十万円になった。
思わずため息が出た。
金額だけなら、父や母が一か月働いて得る収入よりずっと少ない。欲しいものを何でも買えるわけでもなく、これだけで人生が変わるはずもない。
それでも僕にとっては、明らかに昨日までとは違う十万円だった。
小遣いを貯めた金でも、誰かから与えられた金でもない。
僕が判断し、危険を引き受け、その結果として増えた金だ。
(次も同じように増やせる?)
『同じ利益率になるとは限りませんが、条件に合う機会はあります』
(今の十万円を、ずっと運用したら?)
『利益を再投資し続ければ、増加速度は次第に上がります。ただし、資産規模が大きくなれば、同じ方法をそのまま繰り返すことはできません。取引量、市場への影響、税務上の扱い、金融機関からの確認も変化します』
最初から聞いていた話だ。
金が増えれば、できることが増える。同時に、考えなければならないことも増えていく。
もっとも、その面倒まで先に考えてくれる相手が、僕の頭の中にはいる。
机の上に置いたスマートフォンには、十万円を少し超えた数字が表示されていた。
二万円増えただけで、こんなに楽しい。
なら、桁が一つ増えたとき、僕はどんな顔をするのだろう。




