48話 帰っていいなんて、一言も言ってないでしょ
春休みに入ってからも、部屋で一人になる時間は思っていたほど増えなかった。
日菜とは、旅行の日程や行き先について毎日のように連絡を取っている。
パスポートの申請にも付き合った。
戸籍謄本や写真を用意し、窓口で申請を終える。受取日が記載された紙を渡されると、日菜はそれだけで旅行が決まったように喜んでいた。
送られてくる旅行先の条件は、日々増え続けていた。
ジンが候補を絞っても、その中から日菜が新しい場所を見つけてくる。
『五日から一週間ですべて回ることは困難です』
『いいよ。日菜も選んでる時間が楽しいんだと思う』
『決定を先延ばしにしている可能性もあります』
『それも含めて楽しんでるんだよ』
玲奈とは、どんなに間が空いても三日以上会わないことはなかった。
夏休みに入り大学へ通う必要がなくなったため、以前のように講義が終わった足でそのまま連れ出すようなことはできない。
それでも、僕がひとこと連絡を入れさえすれば、玲奈が断ることは一度としてなかった。
ある日は、駅の近くで待ち合わせて遅めの昼食を取り、そのまま本屋や雑貨店をあてもなく巡った。
そして夕暮れ時になると、言葉を交わさずとも当然のような顔で僕の部屋についてきて、僕が満足するまでその身を委ねてくれる。
またある日は、最初から部屋に呼び出した。
ソファに腰を下ろしてすぐに僕が求めると、玲奈は呆れたように息を漏らしながらも、すっかり慣れた手つきで僕の前に膝をつく。
それが終わり、僕の隣に腰掛けようと身体を起こした玲奈を、僕は手で制した。
彼女は不思議そうに瞬きをしたが、決して反抗することはなく、そのままカーペットの上に直接腰を下ろした。
そして、ソファに座る僕の足元に背中を預ける。
そこから始まったのは、大学の友人たちの噂話や最近聴いている音楽など、他愛のない会話だった。
だが話がふっと途切れ静寂が落ちてくると、僕は背後から玲奈の頬に手を添え、指先でその唇を優しく撫でて次を催促する。
結局その日は玲奈を抱くことはなく、どこまでも一方的に、玲奈が僕に支配され続け、僕を満たし続ける時間となった。
あの日玲奈が僕に放った「好き」という言葉に、僕は答えを出していない。
だが告白されて以降、僕たちの間にはこんな歪で、甘やかな日常が増えていた。
理央からも、数日おきにメッセージが届く。
《撮影終わった》
《お疲れさま》
《それだけ?》
《え? 他に何か言うことあった?》
《お腹空いたんだけど》
《何か食べて帰れば?》
《馬鹿なの? 今すぐ迎えに来て》
特に予定もなかったので、断る理由はなかった。
撮影現場の近くまで行き、夜遅くまで開いている静かな店を探して連れて行く。
理央は撮影期間中で、体型維持のために食事量を極限まで抑えているそうだ。
メニューを開いたまま、もう10分近くも眉間にシワを寄せて悩んでいた。
「本当に食べたいものを頼めばいいんじゃない?」
「明日も朝から撮影なの」
「食べきれなくて残したら、僕が食べるよ」
「……目の前で美味しそうに食べられるほうが余計に腹立つ」
「ねえ、なんで僕を呼んだの?」
「一人で我慢してたら挫けそうだけど、和希君にダメって止められたほうが、諦めがつくと思ったから」
「でも僕は、食べちゃえばいいと思ってるよ」
「は? 責任取ってくれるの?」
「体重が増えたら?」
「仕事が減ったら」
「それはさすがにまだ重すぎるな」
結局、理央は一番食べたかった料理を一つだけ注文し、その半分を僕の皿へ容赦なく移してきた。
その日は本当に食事だけで別れた。
理央はどこか物足りなさそうに不満を撒き散らしていたが、その二日後、今度は自分の部屋に来るよう連絡が来た。
理央のマンションに辿り着いたのは、夜の九時を過ぎた頃だった。
オートロックを抜けて部屋の呼び鈴を押すと、ほとんど間を置かずにドアが開く。
「遅い。呼ばれたらすぐに来てよ」
「こっちだっていろいろ予定があったんだよ」
理央はプイッと顔を背けたまま、僕を部屋の中へと押し入れた。
玄関のドアがカチリと閉まった瞬間、僕は逃げようとする彼女の細い身体を、背後から引き寄せるように抱きしめた。
「遅くなってごめんね、理央」
「……今さら来たって、遅いんだから」
「そっか。じゃあ、帰ろうかな」
回していた腕の力をすっと緩めると、理央は慌てたように僕の手首をギュッと掴んできた。
「……っ、帰っていいなんて、一言も言ってないでしょ」
口答えをする暇を与えないよう、振り返った理央の不機嫌そうな唇を、そのまま僕の唇で塞ぐ。
最初は僕の胸を押し返すように添えられていた彼女の小さな手が、息が重なるにつれて、すがりつくように僕の服を強く掴み始めていた。
『ジン。共有を切って』
『承知しました』
理央は、最後まで口では絶対に素直になろうとしない。
強引に寝室へと連れ込めば文句を並べ立て、後ろから組み伏せるようにベッドに身体を押さえつければ、低く唸り声を漏らしながらこちらを睨みつけてくる。
だが、僕を拒絶することはない。
ベッドに沈んだ理央の前髪をぐっと掴み、軽く後ろへと引き寄せる。
するとそれまでの強気な態度が、息を呑む音とともに途切れた。
その瞬間、反らされた理央の顔を容赦なくシーツに押し付け、背後から覆いかぶさる。
それから理央の全身から力が抜けるまで、僕は何度も欲望を叩きつけていった。
ジムには週三回通っている。
始めてから二週間も経っていないため、鏡に映る身体が急に変わったわけではない。
最初は余裕があると思っていた重量も、正しい姿勢を崩さずに動かすと簡単ではなかった。
胸、背中、肩、腕、脚。
同じ場所だけを続けて鍛えず、ジンが決めた順番に従う。
『前回より重くしてもいい?』
『同じ回数と動作を維持できる範囲であれば、増加させても構いません』
『どのくらい?』
『五キログラム増やしてください』
『もっといけそうだけど』
『筋力の向上速度より、結果を早く得たいと感じる速度のほうが上回っています』
『焦ってるってこと?』
『はい』
否定はできない。身体は少しずつしか変わらないからだ。
株価が動くのを待つことや、企業から報告の返事が来るのを待つことには慣れ始めたが、頑張っていても結果がすぐ現れないことには、まだ慣れていない。
『本当に夏までに間に合うの?』
『現在の頻度を維持すれば可能です』
『なら、これで続けよう』
同じ動作を繰り返した。
十万ドルの案件にも動きがあった。
企業から追加で届いたのは、攻撃を行う側に必要な権限と、変更できる情報の範囲についての質問だった。
新しい操作を試すのではなく、すでに保存してある記録から答えを整理する。
実際に確認できたことと、条件が揃えば起こり得ることを分けて書いた。
『最高額に近づいたかな』
『企業側が重大な問題として調査していることは確認できます。ただし、危険度と報奨金は決定していません』
『前の一万五千ドルよりは高そう?』
『影響範囲は前回より広いと推定します』
『期待しておこう』
『資産には含めないでください』
『分かってるよ』
回答を送り、その日はそれ以上触れなかった。
二月十四日には、日菜と玲奈からチョコレートをもらった。
日菜がくれたのは、旅行先を調べている途中で見つけたという小さな店のものだった。用事があったようで、その日はキスしか出来なかった。
玲奈は、夜に僕の部屋へ来て、手作りのチョコをくれた。
嬉しくなって一度だけお願いしたが、その後は朝まで恋人のような時間を過ごした。
理央から渡されたのは、その翌日だ。
「撮影現場でもらったから、一つあげる」
「現場でもらったものにしては、包装が綺麗だね」
「いらないなら返して」
理央はしばらく自分で買ったとは認めなかったが、激しく責め立てると、最後には口を割った。




