49話 判定基準を指定してください
活動報告でお知らせがあります。
二月二十二日。
千尋と顔を合わせるのは、これで三度目だった。
指定された場所は、都内の高級ホテル内にある落ち着いたフレンチレストラン。
案内された個室は、食事用のテーブルだけでなく、夜景を見下ろす窓際に二人掛けのゆったりとしたソファが据えられていた。
「すごく高そうなところですね」
千尋は慣れた様子でメニューを閉じた。
「ええ。……そういえば、次は僕が払うとお仰っていましたよね」
「言いましたけど、遠慮がないですね、千尋さん」
「お気に召しませんでしたか?」
「いえ、とても雰囲気の良いお店だと思います。払えないこともないですし」
「ええ、知っています。一万五千ドルもの報奨金をお受け取りになったのですものね」
日菜に打ち明けたのと同じ程度の事情は、千尋にも話してあった。
ほどなくして、美しく盛り付けられた料理が運び込まれてくる。
前回同様、仕事関係の会話はほとんどなかった。
千尋が最近撮影を終えたという作品についても、話の内容は「せっかく地方ロケに行ったのに、ホテルと現場の往復だけで終わってしまった」という、少し寂しげな愚痴だった。
「せっかくの遠出なのに、観光する時間はなかったんですか?」
「半日だけ空きました。でも……一人で街を出歩くわけにもいきませんから」
「マネージャーさんは?」
「別の仕事でも動いていらっしゃいましたし、私の個人的な気晴らしにわざわざお付き合いいただくのも申し訳なくて」
食事が一段落した頃、千尋がハンドバッグから小さなリボンのついた箱を取り出した。
「今更ですが……こちらを」
「チョコレート……ですか?」
「お会いできる機会が、今日までありませんでしたから」
「……これ、お仕事でお会いする方全員に配っていらっしゃるんですか?」
千尋はほんの少しだけ視線を泳がせ、悪戯っぽく微笑んだ。
「……そういうことにしておいていただけますか?」
「今日は、お仕事としてお会いしているわけではありませんけどね」
千尋はそれ以上何も答えず、澄ました顔でその箱を僕の目の前から遠ざけた。
「いりませんか?」
「いただきます。ありがとうございます」
「最初から、そう言ってくださればいいのに」
食後の珈琲が運ばれてくると、僕たちは持参したタブレットを開き、示し合わせたように窓際のソファへと場所を移した。
この二週間、僕が独自に調べ上げた国内のレジャープール施設を、ひとつずつ千尋に見せていく。
「まずここですが、かなり規模が大きいです。波の出る大型プールもあります」
「……ですが、ウォータースライダーが少し小さくありませんか?」
「充分すぎるほど大きいと思いますけど……」
「お子様向けと記載されています」
「千尋さんが最後に行かれたのも、お子様の頃でしょう?」
「今は大人です」
「大人向けのスライダーとなると、かなり高い位置から垂直に近い角度で滑り落ちることになりますよ?」
「それがやりたいのです」
次の候補画面をタップする。
「……ではこちらです。滑り台が七種類揃っています」
「まあ。……ですが、流れるプールが屋外にございますね」
「夏場に行けば、開放感があって気持ちいいですよ」
「人が多すぎませんか?」
「真夏の週末となれば、かなりの混雑が予想されますね」
「では、和希さんが平日にスケジュールを空けてください」
「僕の予定より、千尋さんのスケジュール調整の方が遥かに難しいと思いますが」
「だからこそ、こうして今から入念に探しているのです」
想像以上に注文が多く、こだわりが強い。
だが、画面上の施設をひとつひとつ吟味している千尋の横顔は、心底楽しそうだった。
「千尋さん、かなり本気ですね」
「和希さんが探すと言ってくださったので、妥協しないことにしました」
「探す側の苦労も少しは考慮してください」
「でも、和希さんも楽しそうですよ?」
「……まあ正直、少し楽しくなってきました。真面目にプールを探すなんて初めてですから。意外と色々あるんですね」
僕が素直に認めると、千尋はまるで子供のように無邪気で美しい笑顔を見せた。
「でしたら、何の問題もありませんね」
だが結局のところ、国内で千尋の提示するすべての条件を完璧に満たす場所は見つからなかった。
施設の規模や設備のスリルだけなら合格点は出せる。
しかし、どうしても人の目が多すぎる。
逆に人が少ない穴場や時期を選ぼうとすれば、今度はスライダーなどの規模が物足りない。
そして何より、どれほど空いている時期であっても「一般の利用客に混じりながら、一日中誰にも正体がバレない」という条件だけは、絶対に保障できなかった。
「……やはり、難しいでしょうか」
「絶対に不可能、とまでは断言できません。ですが……途中で気づかれた瞬間、そこから先は楽しむどころではなくなってしまうと思います」
千尋は画面の中に映る、青々と光る広大なプールをじっと見つめていた。
「海外でしたら……もう少し簡単なのでしょうか」
「日本国内よりは、千尋さんの顔に気づく人が圧倒的に少ないのは確かです」
「海外へは、お仕事で何度も行きました。ですが……旅行をしたという実感が、一度もないのです」
「自由な時間が持てないからですか?」
「行く場所も、滞在する時間も、すべて最初からあらかじめ決められています。たとえ僅かな空き時間ができたとしても、常にスタッフやマネージャーが同行しておりますし……」
「なら、これから行けばいいじゃないですか。プライベートで」
「簡単に仰いますね」
「行くと先に決めてから、実現する方法を後から考える——前にもそうお話ししましたよね」
「ええ。そしてその方法を、今まさに和希さんが探してくださっているのですよね?」
「今回は、なかなか難航していますけど」
「国内では……そうですね」
千尋はどこか遠くを見るような目で、小さく微笑んだ。
最後の候補データを閉じても、千尋はソファから立ち上がろうとしなかった。
迎えの車がホテルに到着するまで、まだ時間があるらしい。
静かな個室の中に、ガラス越しに見下ろす都市のノイズのような音だけがかすかに響いている。
「今日は……目的地が決まりませんでしたね」
「千尋さんの条件が多すぎるんですよ」
「少しくらいは、妥協した方がよろしいですか?」
「うーん……それも少し勿体ない気がします。千尋さんが一番やりたいことなんでしょう?」
「……今、一番かは分かりません」
ふいに落ちてきた低いトーンに、思わず首を傾げる。
「ほかにも、やりたいことが増えたんですか?」
千尋が、ゆっくりとこちらへ視線を向けた。
「増えている途中、かもしれません」
何か気の利いた言葉を返そうとして、声が出なかった。
千尋もまた、次の言葉を探しているように見えた。
呼吸が触れ合いそうなほど近い距離で、視線と視線が静かに絡み合う。
千尋の瞳が揺れ、一瞬だけ僕の口元へと落ちたのが分かった。
……そしてきっと、僕自身も同じように、千尋の柔らかそうな唇を見つめてしまっていたはずだ。
どちらからともなく、身体が動いていた。
吸い寄せられるように互いの距離が少しずつ、確実に縮まっていく。
示し合わせたかのように、互いに顔をわずかに逆方向へと傾けた。
気配が重なった時には、すでに唇と唇が触れ合っていた。
ほんの僅かな時間。
肌の熱が離れても、僕も千尋も、元の位置へ身体を戻そうとはしなかった。
僕たちのあいだには、もう一センチメートルの空間すら残されていなかった。
「……今のは」
かろうじて千尋が声を出すと、その瞳が揺れた。
「僕にも、分かりません」
「まだ……何も言ってませんけど」
「たぶん……僕も千尋さんと同じことを考えたと思うから」
千尋の唇が、楽しそうに小さく弧を描いた。
「では……私は何を聞こうとしたと思いますか?」
「……僕からなのか、それとも千尋さんからだったのか……でしょう?」
「正解です」
今度は、どちらも瞳を逸らさなかった。
二度目に重なった口づけは、最初よりもずっと深く、そして長かった。
千尋の華奢な指先が、すがるように僕の服を掴む。
その手の上に自分の手を重ねると、千尋は指をきつく絡めてきた。
それ以上のことは何もなかった。
ただ、迎えの車が到着を告げるまでのあいだ、僕たちは夜景の光に包まれながら、何度も、何度も、互いの熱を確かめ合っていた。
テーブルの上に置かれた千尋のスマートフォンが短く震え、迎えの到着を知らせた。
僕たちは名残惜しさを引きずるように、ゆっくりと唇を離す。
「……行かないと」
「そうですね」
掠れた声で呟く千尋にうなずきながら、僕は画面の明かりを伏せた。
「次も……また、一緒に探してくださいますか?」
「まだ、諦めてないんでしょう?」
「ふふ、それは和希さんもでしょう?」
「……またいくつか探しておきます」
二人で静かに個室を後にした。
エレベーターで地下まで送り、待機していた黒塗りの高級車に彼女が乗り込むところを見届ける。
後部座席のドアが閉まる前に、千尋が振り返り、窓越しにこちらを見つめた。
「今日は……本当にありがとうございました」
「こちらこそ。素敵な時間をありがとうございました」
「次は……私が決めさせていただきますね」
「何をですか?」
「お会いする場所です」
悪戯っぽく微笑む彼女を残したまま、静かにドアが閉まった。
ゆっくりと走り去る車を、僕はただじっと見送っていた。
一人になってから、ジンとの会話を意識する。
『最初のキス、どっちからだった?』
『身体の移動を開始した時刻は、和希が千尋より〇・〇八秒早いです』
『なら僕からか?』
『接触までに移動した距離は千尋のほうが長く、平均速度も上回っています』
『結局どっちだよ』
『判定基準を指定してください』
『もういいか、どっちでも』
ホテルを出たところで、千尋からメッセージが届いた。
《次は、私から連絡します》
《待ってます》
既読がついても、返事は来なかった。
代わりに、少ししてから笑っている顔の絵文字が一つだけ送られてきた。




