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頭の中の最強AI ──金も女も、そして世界も手に入れる──  作者: 橙色
東京大学一年生編

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46話 大きなプールに行ってみたいんです



 十万ドルの案件を報告してから二日後、企業から最初の返信が届いた。


 内容を確認した担当者が、報告と同じ手順で問題を再現できたらしい。


 既存の報告とも重複しておらず、専門の部署へ引き継いで詳しい影響を調べると書かれている。


『受理されたと考えていい?』


『少なくとも、現時点で無効な報告とは判断されていません』


『十万ドルへ近づいたな』


『最高額が支払われる保証はありません』


『少しくらい期待してもいいだろ』


『期待することは自由です。ただし、受取予定の資産には含めないでください』


『分かってるよ』


 報告した問題は、特定の条件を揃えた状態で二つの機能を続けて使うと、本来は権限を持たない利用者の操作が通る可能性があるというものだった。


 最初から簡単に再現できたわけではない。


 成功する条件を絞り込むまで何度も失敗し、ジンが示した候補を僕自身の検証用アカウントで一つずつ確かめた。


 企業側が確認できたなら、少なくとも僕たちだけの環境で起きる問題ではない。


 返信には、追加の操作を行わず、連絡を待つようにも記載されていた。


『しばらく何もしなくていいんだね』


『はい。企業から求められない限り、これ以上の検証は控えるべきです』


『十万ドルを待つだけか』


『報奨金が支払われない可能性もあります』


『一年経っても、喜ばせるのが下手だな』


『事実を伝えています』


 画面を閉じた。


 結果が出るまでに数週間以上かかる可能性もある。気にしても、企業の調査が早く進むわけではない。


 時間ができたので、僕はいつものように玲奈を部屋に呼んだ。


 大学の試験も終わり、自由に使える時間が増えていた。



 二月九日の日曜日。


 鍋田千尋と会うため、都内にある日本料理店へ向かった。


 前回とは違う店だが、今回も通りから店内が見えない造りになっている。入口で名前を伝えると、ほかの客席を通らず、奥にある個室へ案内された。


 千尋はすでに到着していた。


 薄い灰色のニットに、細い銀色のネックレスを合わせている。髪は後ろで緩くまとめられ、撮影現場や広告の中にいるときよりも少し幼く見えた。


「こんばんは。試験、お疲れさまでした」


「ありがとうございます。結果が出るまでは安心できませんけど」


「自信がないんですか?」


「単位は取れると思います。ただ、思っていた点数より低ければ、終わってからでも少し落ち込みます」


「和希さんでも、試験の点数を気にするんですね」


「真面目な大学生ですから」


 千尋の向かいへ座る。


 温かい茶が運ばれ、店員が料理の説明を終えて個室を出た。


 扉が閉じると、外の音はほとんど聞こえなくなった。


「その後、後悔はしていませんか?」


「二百四十万円のことなら、ときどき考えます」


「私が出演していたかもしれないことは?」


「そっちも考えますよ」


「どちらが多いのでしょうか?」


「答えによって、今日の食事代を払う方が決まりますか?」


「その可能性はあるかもしれませんね」


「もちろん、千尋さんのことばかり考えてました」


「素直でよろしい」


 満足したように頷いてから、千尋が茶に口をつける。


「でも、次は僕に払わせてくださいね」


「次もあるんですか?」


「一人では行きにくい場所に付き合う約束が残ってます」


「覚えていたんですね」


「忘れませんよ。どこへ行きたいかは、まだ聞いてませんけど」


 千尋はすぐに答えなかった。


 料理が来るのを待っているのかと思ったが、視線が僅かに泳いでいる。


「そんなに言いづらい場所なんですか?」


「笑わないでくださいね」


「内容を聞いてから決めます」


「先に約束してください」


「笑ってしまうような場所なんですね」


「もういいです」


「冗談です。笑いません」


 千尋は僕の返事を確かめてから、少し声を落とした。


「大きなプールに行ってみたいんです」


「プール?」


「ホテルにあるような、泳ぐためだけのものではなくて……ウォータースライダーや、波の出るプールがある場所です」


 予想していたものとは違った。


 買い物や遊園地、あるいは人の多い飲食店を考えていた。


「千尋さん、ウォータースライダーに乗りたいんですか?」


「だから笑わないでと言ったんです」


「笑ってません。ただ意外だっただけです」


「子供っぽいとは思っています」


「いいんじゃないですか。僕も嫌いではないですよ」


「本当ですか?」


「最後に行ったのは随分前ですけど」


 千尋の表情が少し明るくなった。


「私も、子供の頃に一度行ったきりです。最近、撮影で近くまで行くことがあって、楽しそうだなと思ったんです」


「そのときに寄ればよかったのでは?」


「スタッフや共演者が大勢いましたし、仕事の途中ですよ」


「確かに。休みの日に、一人で行くのも難しそうですしね」


「一人で行けたとしても、楽しくないと思います」


「それで僕なんですね」


「付き合ってくださると言ったでしょう」


 言われたときは、もう少し簡単な場所を想像していた。


 プールであれば、やはり水着姿にもなるだろうし、抵抗感はないのだろうか。


 国民的女優とも言える鍋田千尋ならば、それくらい慣れていてもおかしくないか。


 僕はもちろん、千尋と大きなプールへ行くこと自体に抵抗はない。


「貸し切りにできる施設なら、探せると思いますけど」


「貸し切りは少し違うんです」


「どう違うんですか?」


「誰もいない場所で遊ぶと、撮影と変わらない気がします」


「ほかの客に混じりたい?」


「普通に並んで、普通に遊んでみたいんです」


 千尋が求めているのは、設備だけではないようだ。


 有名人として特別に用意された場所ではなく、ほかの人間と同じように遊びたい。


 気持ちは分からなくもない。


 ただ、それを国内で実現するのは難しそうだった。


『条件に合う場所はある?』


『どの施設であっても、通常営業中に千尋が長時間滞在した場合、ほかの利用者に気づかれる可能性があります』


『変装は難しいだろうしね』


『衣服、帽子、眼鏡によって顔の認識率を下げることはできます。水着で遊ぶ際には、使用できるものが限定されます』


 プールに帽子とマスクを着けたまま入るわけにもいかない。


 入場までは隠せても、一日中誰にも気づかれない保証はなかった。


「国内だと、難しいかもしれませんね」


「やっぱりそうですよね」


「人が少ない時期を選ぶ方法はあります。ただ、千尋さんが遊んでいるところを撮られれば、少ない人数でもすぐに広がると思います」


「水着ですしね」


「それもあります」


 千尋自身、最初から分かっていたのだろう。


 残念そうではあったが、驚いた様子はなかった。


『国外であれば、千尋の認知率は大きく低下します』


『海外か』


『大規模な施設も複数存在します』


『でも、それだと僕が付き合う話ではなくなるよ』


『和希が同行する必要はありません』


『まあ、それもそうか』


 国内で一日出かけることと、二人で海外へ行くことは違う。


 大学は休みに入るとしても、千尋の予定や事務所の判断もある。僕たちは、仕事以外で食事をするのも今日が二度目だ。


「人目を気にせず遊ぶなら、海外のほうが現実的かもしれません」


「海外ですか?」


「日本ほど顔を知られていない国なら、普通の客に混じっても気づかれにくいでしょう。仕事で行く機会に一日空けるか、マネージャーさんや友人に付き合ってもらうとか」


 千尋が目を伏せた。


「……そうですよね」


 短い返事の前に、僅かな間があった。


 海外という言葉を出すまでは、僕が付き合う話をしていた。その先に僕がいないことを、少し意外に思ったのかもしれない。


『僕と行くことも考えた?』


『その可能性はあります。ただし、表情と発話の間だけでは断定できません』


『だよね。海外は流石にめんどくさいと思っただけかもしれないし』


 僕の予想が合っていたとしても、千尋自身が口にしなかったものを先回りして拾う必要はない。


「まずは国内で探してみましょうか」


「いいんですか?」


「まだ無理だと決まったわけではありません。時期や場所を選べば、方法はあるかもしれない」


「国内なら、和希さんが来てくださるんですよね?」


「その約束でしたから」


「じゃあ海外は置いといて、まずは国内の候補から探してみましょう」


 千尋が僅かに笑った。


 最初の料理が運ばれてくる。


 それからは、食事をしながら行ってみたい場所の条件を聞いた。


 千尋は泳ぎたいわけではない。


 大きな滑り台を一度は試したい。波の出るプールにも入りたい。浮き輪へ乗って流されるだけの場所もいいらしい。


 大きなプールへ行くなら、時期は夏になるだろう。


 水着になれば、普段は服で隠れているところまで見られる。


 千尋は撮影のために体形を維持しているのに、僕だけ何もしていない身体で隣へ立つのは少し格好が悪い。


『夏までに、身体を作れる?』


『具体的な目標を設定してください』


『腹筋が割れてて、胸や肩にも筋肉がある。腕だけ太いとかじゃなくて、全身のバランスがいい身体』


『背部と下半身も含めて鍛える必要があります』


『もちろん。見えるところだけ鍛えても格好悪いだろ』


『現在の体脂肪率と筋肉量であれば、夏までに外見上明確な変化を得ることは可能です。ただし、筋力トレーニングだけでなく、食事と睡眠も管理する必要があります』


『どのくらいで変わる?』


『三か月で周囲から認識できる変化が生じ、五か月から六か月継続すれば、腹部、胸部、肩、腕、背部に明確な筋肉が現れると予測します』


『なら間に合うね。今日から始めよう』


『プールへ行く時期も、千尋との同行も決まっていません』


『決まってから始めたら遅いだろ』


『先ほど、運動時間が平均を下回っているという指摘を遮りました』


『だから今から変えるんだよ』


『承知しました。帰宅後に全身の運動計画を提示します』


 夏までに腹筋を割るだけではない。


 胸も、肩も、腕も、背中も、脚も鍛える。服を着ているときの印象は変えず、脱いだときだけ想像より筋肉がある身体にする。


 まだ千尋とプールへ行けるかも分からないのに、今年の目標が一つ増えた。



 料理を食べ終える頃には、候補を見つけたら連絡する約束をしていた。


「今日は、仕事の話をしませんでした」


 店を出る前、千尋が言った。


「ほとんどプールの話でしたね」


「秘密にしてくださいね?」


「千尋さんと話せることが一つ増えました」


「一つだけですか?」


「今は増やしている途中です」


 千尋は少しだけ目を細めた。


「では、次も期待しています」


「次は僕が誘ってもいいですか?」


「場所を見つけた方が誘うことにしましょう」


「それ、きっと僕ですよね」


「私は忙しいので」


「もちろん、よく知ってます」


 店の外まで一緒に出る。


 迎えの車が到着すると、千尋は後部座席へ乗り込んだ。


「今日はありがとうございました」


「こちらこそ。ご馳走さまでした」


「候補、待っていますね」


「あまり期待しすぎないでください」


「和希さんなら見つけられると思っています」


 扉が閉まり、車が走り去る。


『国内で条件を満たせる可能性は?』


『千尋が求める規模と匿名性を同時に満たすことは困難です』


『だよね』


『国外であれば、条件に近い施設があります』


『場所だけ探しておいて。僕が行くかどうかは別だから』


『承知しました』


 駅へ向かいながらスマートフォンを確認すると、日菜からメッセージが届いていた。


《前に話してた曲、少しだけできた》


 音声ファイルが一つ添えられている。


 再生すると、楽器はまだ入っておらず、日菜の声とギターだけが流れた。


 途中で何度か音が止まり、歌詞のない部分を鼻歌でつないでいる。それでも、以前聞いた曲とは違う映像が浮かんだ。


《まだ誰にも聞かせてないからね》


《僕が最初?》


《そう》


《直接聞きたい》


 返信はすぐに来た。


《いつ来る?》


 予定を確認する。


 試験は終わり、十万ドルの案件も企業から連絡が来るまでは動かせない。


《日菜が空いてる日に行くよ》


《明日》


《わかった》


《決まりね》


 続けて、練習場所と時間が送られてきた。


『明日の予定へ追加しますか?』


『お願い』


『日菜へ海外旅行の相談も行いますか?』


 以前、次の旅行には連れていくと約束している。


 行き先も時期も、まだ決めていなかった。


『曲を聞いてからにするよ』


『旅行と楽曲に関係がありますか?』


『話す順番の問題』


『承知しました』


 千尋とは、行けるかどうかも分からないプールを探す。


 日菜とは、まだ行き先も決まっていない旅行の話をする。


 どちらも急ぐ必要はない。


 今年はまだ始まったばかりだ。




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