44話 それって、嫉妬?
※各話のタイトルについて
各話のタイトルを【◯◯話】として投稿していましたが、読み返す際や目次一覧での分かりやすさを考慮し、今後は内容に応じたサブタイトルを付与していくことにします。
個人的には数字だけの方が無骨な魅力があると考えていましたが、さすがに読者の方々に寄り添ってなさすぎるなーと思い直しました。
既に投稿済みの話についても、追って順次タイトルを追加していく可能性がありますが、見守っていてください。
最後の講義が終わると、玲奈は鞄に教科書をしまいこむ僕の横顔を、じっと覗き込むように待っていた。
「帰ろうか」
「うん。……どこに?」
「僕の部屋」
「ほんとに、今日も連れてってくれるんだ」
「朝、そう言ったでしょ」
講義室の扉を出たところで、前を歩いていた女子学生がふいに足を止め、玲奈を振り返った。
「玲奈、このあと図書館寄らない?」
「ごめん、今日は和希と帰るから。また明日ね」
「そっか。じゃあね、佐村君もまた明日」
「うん、お疲れ様」
ひらひらと手を振る友人の背中を見送った直後、袖口をきゅっと引っ張られた。
玲奈が少し不安そうな目で僕を見上げている。
「ねえ、今の……変じゃなかった?」
「何が?」
「大学で和希って呼んだの、初めてだったから」
「僕はまったく気にならなかったけど」
「周りに聞かれたら、急に距離詰まったなーって思われるよ」
「実際、詰まったんだからいいんじゃない?」
「そうだけどさ……」
玲奈は照れくさそうに視線を落としたが、僕の袖を掴む手を緩めようとはしなかった。
放課後のキャンパスを抜け、いつもの夕暮れ道を二人並んで歩く。
「朝も一緒で、帰りも一緒だね」
「そうだね。どんな気分?」
「……すごく、嬉しい」
「そっか」
ポツリと呟いた玲奈は、自ら僕の腕に自分の腕を絡めてきた。
僕たちは交際しているわけじゃない。
どれだけ一途に「好き」だと伝えられても、僕はまだ何の返事も返していないのだ。
それでも、この肌の温もりや、玲奈が隣を歩く気配を僕の心がひどく心地いいと感じているのも事実だった。
玲奈に名前を呼ばれるたび、あの夜の震える声を思い出す。
そのたびに胸の奥で波打つ感情の正体は、間違いなく僕にとっても喜びだった。
部屋に辿り着いても、すぐにベッドへ向かうことはしなかった。
低いローテーブルの上にノートと資料を広げ、期末試験の範囲を淡々と確認し始める。
玲奈もその向かい側にちょこんと腰を下ろし、自分のプリントを取り出した。
「まずは、お勉強なんだ」
「試験前だからね」
「別のことされるのかと思ってた」
「後でたっぷりしてもらうつもりだけど?」
「やっぱりするんだ」
「気が乗らないなら、今日は勉強だけで終わらせてもいいよ」
「……嫌じゃない」
玲奈は僕から目を逸らし、逃げるようにノートへ顔を近づけた。
白くて華奢な耳が朱に染まっていく。
「でも、ちゃんと先に勉強する」
照れ隠しに小さく笑うと、玲奈はペンを動かし始めた。
同じ空間に身を置いていても、絶え間なく言葉を交わす必要はなかった。
解き方が分からない問題があれば教え合い、喉が渇けば僕がお茶を淹れる。
それ以外の時間は、互いの机上の課題だけに集中した。
二時間ほどが過ぎた頃、僕は教科書をゆっくりと閉じた。
「よし、今日はここまで」
「もう終わりにするの?」
「予定していた範囲は終わったからね」
「じゃあ、わたしもやめようっと」
玲奈がパタパタと勉強道具を片付け始める。
「玲奈」
僕がさっそく名前を呼ぶと、彼女の動きがぴたりと止まった。
声のトーンだけで、僕が何を求めているのか完全に察したのだろう。
玲奈はどこか嬉しそうな笑みを浮かべ、素直に床へ膝をついた。
そして、僕に自ら頭を差し出してきたのだった。
翌日も、僕は玲奈を自分の部屋へと連れ帰った。
二日続けて夕飯を囲み、並んで試験勉強をし、そして僕の欲に付き合わせる。
玲奈を呼び出す理由には、当然のように僕の性欲を処理させるという側面が含まれていた。
玲奈だって、それを痛いほど理解している。
理解した上で、僕が名前を呼ぶと、以前よりもずっと蕩けた表情で応じるようになった。
夜はそのまま同じベッドで眠り、翌朝は爽やかな光の中で僕を落ち着かせてから、一緒に部屋を出て大学へ向かう。
僕に予定がなければ声をかけ、玲奈に先約がなければ二人で僕の部屋へと向かう。
これから先、僕たちの日常はきっとこんな風に塗り替えられていくのだろう——そんな予感がしていた。
期末試験が本格的に始まった。
試験の最中、僕はジンに対して、解答の示唆を一切禁じていた。
『視覚情報の共有も停止しますか?』
『いや、そこまでする必要はないよ。終わったあとに、僕の回答の答え合わせをしてほしい』
『承知しました。試験終了まで、問題に関する助言は行いません』
僕の頭の中にいる以上、試験問題を見せないことは難しい。
だからこそ、答えを聞かずに解くと自分で決める必要があった。
答案用紙が回収され、静まり返った講義室を後にしたところで、僕は脳内のジンに問いかけた。
『どうだった?』
『すべての設問に正答しています。ただし、第三問では途中の説明が一部省略されています』
『減点対象かな?』
『採点者の裁量によります』
『でも、最終的な答え自体は合ってるんだよね?』
『はい』
『なら、教授の機嫌が良いことを祈るしかないか』
『試験終了後の神頼みによって、採点結果が変化する可能性は——』
『ゼロでしょ。分かってるよ』
翌日の試験でも、単位を落とすようなミスはなかった。
試験勉強の合間に、十万ドルの報奨金が懸けられたシステム脆弱性の調査も、自分で定めた時間内だけで着実に進めていく。
僕たちが最初に確認したのは、法人向け機能に組み込まれた認証プロセスだった。
権限を変更した直後、特定の処理において旧権限の情報がメモリ上に残留している可能性があった。
だが、これ単体では危険な問題とは言えない。
残留する時間はごくわずかであり、重要度の高い操作を実行しようとすれば、別の再認証が必要になる。
『今日のところはハズレか』
『単独では、報奨金の対象にならない可能性があります』
『単独では……ってことは、複合できるの?』
『別のエンドポイントを経由させることで、その古い認証状態から新たな高権限トークンを再発行させられる可能性があります』
『それを検証するのに、どれくらいかかりそう?』
『最低でも二時間以上を要すると推定します
確認すると、調査を始めてからすでに一時間半が経過していた。
『よし、今日は終わり』
『承知しました』
続きをやりたい衝動を抑え込み、僕は検証用の画面を閉じて試験の復習テキストへと切り替えた。
十万ドルの報酬も欲しい。
大学の単位も落としたくない。
そして、玲奈と過ごす時間も欲しい。
全部を手に入れたいのなら、限られた時間をしっかり切り分けるしかなかった。
最後の試験を終え、開放感に包まれたのは午後三時を少し過ぎた頃だった。
答案を提出して、廊下へ出る。
『これで、今学期は全部終わりか……』
『今学期に予定されていた試験は、すべて終了しました』
『単位、ちゃんと取れそうだね』
『回答内容のみで判断すれば、全科目で単位取得に必要な点数を上回っています』
『満点は狙えそう?』
『少なくとも二科目において、減点の可能性があります』
『うーん、厳しいなぁ』
『和希が尋ねたため回答しました』
『まあ留年しないなら充分だよ』
正式な成績が貼り出されるのはまだ先のことだ。
だが明日からは試験に縛られていた時間を、すべて別の目的のために使える。
今日は玲奈と、大学近くの店で夕飯を食べる約束をしていた。
一昨日、昨日と二日続けて僕の部屋に連れ帰っていたから、今日は食事だけ済ませて駅の改札で別れるつもりだった。
玲奈にもそう伝えてある。
約束の待ち合わせ場所へと向かう途中、廊下の窓際に立つ玲奈の姿が目に入った。
その隣には、見覚えのない男子学生が立っていた。
彼が手にしていた資料には、僕がたった今受けてきた講義と同じタイトルが印刷されている。
試験の出来について話しているのだろう。
男が何かを口にした瞬間、玲奈がふっと口元を緩めて笑った。
それは、僕の前で見せるのとなんら変わらない、柔らかくて無防備な笑顔だった。
——ただそれを見た瞬間、胸の奥に小さな苛立ちが生まれた。
「玲奈」
自分でも驚くほど、冷たく低い声が口をついて出た。
玲奈がハッとしたように振り返る。
「あ、和希。終わったの?」
「終わった。帰るよ」
「うん、ちょっと待ってね」
玲奈は慌てて男の方へと向き直った。
「ごめんね、じゃあ続きはまた今度」
「うん、了解。また連絡するわ」
その男の親しげな言葉も気に入らなかった。
玲奈が僕のところへ来るのを待ち、そのまま廊下を歩き出す。
「今の人、同じ講義取ってる人?」
「うん、そうだよ」
「……なんか、機嫌悪くない?」
「別に」
「別にって顔じゃないじゃん」
玲奈が不安そうに、横から僕の顔を覗き込んできた。
僕は視線を合わせないまま、大学の自動ドアをくぐり抜けた。
「ご飯、どこに行く……?」
「その前に、僕の部屋に行く」
「えっ……?」
「いいでしょ?」
「だって、昨日も一昨日も行ったよ? 今日はご飯だけって言ってたから、着替えの準備とか……」
「いいから。今日は泊まっていって」
玲奈の言葉がピタリと止まった。
部屋までは歩いて十五分もかからない。
並んで歩く道中、玲奈は何度も探るような視線を僕に向けた。
「もしかして……さっき、わたしが男の人と話してたから?」
「さあね。どうだろう」
「……それって、嫉妬?」
「わかんない」
僕たちは付き合っているわけではない。
玲奈からどれだけ好きだと告げられても、何も答えていない。
玲奈が大学で誰と笑い合っていようが、僕が口を挟む筋合いなんてどこにもなかった。
なのに僕は、玲奈が自分以外の男に向けて笑顔を向けたという事実だけで、玲奈を今すぐ自分だけのものにしてしまいたくて堪らなくなっていた。
二日続けて、好きなだけ玲奈で発散したばかりだというのに、「今日は帰す」という予定なんて、跡形もなく吹き飛んでいた。
ふと隣を見ると、玲奈が噛み殺すようにして、嬉しそうな笑みを唇に浮かべていた。
その表情すらも、今の僕にはどこか癪に障った。
「……なんか、嬉しそうだね」
「だって……和希が、嫉妬してくれてるんでしょ?」
「わかんないって言ったろ」
「……わたしのこと、好きなの?」
「そこまでは言ってない」
「……ほんと、ずるいよ」
「言わなくたって、玲奈はついてくるって分かってるから」
「……そこまで言われても、わたしが帰るって言わないと思ってるの?」
「思ってる。でも、もし『帰る』と言っても、力尽くで連れて帰るよ」
玲奈は、もう何も言い返さなかった。
俯いたその横顔は、今にも泣き出しそうに見えた。
だがその小さく震える唇の端は、やっぱり嬉しそうだった。




