43話 最高報奨金は十万ドル
試験範囲を確認するために開いたパソコンで、僕は別の資料を読んでいた。
海外の大手ソフトウェア会社が公開している、脆弱性報奨金制度の規約だ。
最高報奨金は十万ドル。
対象には、企業向けの情報共有サービスが含まれている。個人で利用する人は少ないが、世界中の企業が社内の資料や顧客情報を扱うために使っていた。
『まず、何が気になったの?』
『利用者の権限を確認する処理が、二種類存在しています。通常の操作では同じ結果になりますが、組織から削除された利用者を復帰させた場合、一部の機能だけが古い権限を参照する可能性があります』
『それだけで十万ドルか』
『現時点では軽微な表示上の不具合に留まる可能性もあります。別の操作と組み合わせた場合に、影響が拡大するかを確認する必要があります』
以前なら、すぐに検証用のアカウントを作っていた。
十万ドルと聞いた直後なら、なおさらだ。
しかし月末には大学の試験がある。合格できるかではなく、どこまで良い成績を取れるかを気にする程度には勉強も進んでいるが、何もしなくていいわけではない。
『今日は規約と公開資料だけにする』
『適切です』
『一時間半経ったら止めて』
『承知しました』
サービスの仕様、禁止されている検証、過去に修正された問題へ目を通す。
ジンは数秒で把握できる内容でも、企業へ報告するのは僕だ。何を確認したのか自分で説明できなければ、追加の質問が届いたときに答えられない。
一時間半後、画面の隅に時刻が表示された。
『予定していた時間です』
『あと一つだけ読んでいい?』
『一つの範囲を指定してください』
『今開いてる資料』
『十二ページあります』
『じゃあ、このページだけ』
『承知しました』
読み終えたところで、今度こそ資料を閉じる。
一年付き合っているだけあって、ジンも僕の「あと少し」を信用しなくなったのかもしれない。
それから一週間、授業と試験勉強の合間に調査を進めた。
一日に使うのは一時間か、長くても二時間。
公開されている仕様を比べ、問題が起きそうな操作を洗い出していく。ジンが見つけた可能性を、僕が理解できる言葉へ置き換え、検証の順番を決めた。
大学でパソコンを開いていると、隣から玲奈が画面を覗き込んできた。
「何してるの?」
「海外企業の資料を読んでる」
「また投資?」
「今度は、サービスの問題を探す仕事」
「佐村君、そんなこともできるの?」
「できるか試してるところ」
画面には英語の文書と、権限の違いをまとめた表が並んでいる。
玲奈はしばらく見ていたが、内容までは分からなかったらしい。
「試験勉強は?」
「そっちもしてるよ」
「本当に?」
「玲奈よりは進んでると思う」
「どうしてわたしと比べるの?」
「昨日、授業中に試験範囲を聞いてたでしょ?」
「聞いてない。確認しただけ」
「同じじゃない?」
「違う」
玲奈は不満そうに言いながら、自分のノートを開いた。
書き込まれている量は多い。勉強していないわけではなく、講義ごとに何を覚えればいいのか整理しきれていないようだった。
「今度、一緒に勉強する?」
僕が言うと、玲奈の手が止まった。
「佐村君から?」
「嫌なら一人でやるけど」
「嫌とは言ってない。いつ?」
「土曜日。図書館へ行って、その後に飯でも食べよう」
「それって、勉強するため?」
「勉強もするため」
「ほかには?」
「玲奈と飯を食べるため」
玲奈が僕を見る。
「ホテルは?」
「まだ決めてない」
「そこは決めてないんだ」
「先に決めるものでもなくない?」
「佐村君の場合は、先に決めてることのほうが多かったけど」
「なら今回は違うってことで」
玲奈は一度ノートへ目を落とした。
口元が緩んでいる。
「土曜日、空けておく」
土曜日は、昼過ぎから大学の図書館で勉強した。
玲奈が持ってきたノートを科目ごとに並べ、試験へ出る範囲と、レポートだけで評価される範囲を分ける。
「ここは覚えなくていいの?」
「用語をそのまま書かせる問題には出ないと思う。考え方だけ理解しておけばいいよ」
「どう違うの?」
「この先生、授業でも答えより理由を聞いてただろ。用語を正確に書けるかより、別の事例へ当てはめられるかを見たいんだと思う」
「そんなところまで見てるんだ」
「講義を聞いてたとき、そんな感じがした」
「わたしには分からなかったなぁ」
玲奈が僕のノートを引き寄せる。
僕が要点だけを書いたページと、自分のものを交互に見比べた。
「佐村君のノート、少なすぎない?」
「必要なことは書いてるはず」
「わたしの半分もないよ」
「玲奈のは先生の雑談まで入ってるから」
「どれが雑談か分からなかったの」
「じゃあ今分けよう」
玲奈のノートへ直接印をつける。
重要な場所には線を引き、試験に関係しない話には小さな丸をつけた。
途中で玲奈が僕の肩へ寄りかかってくる。
「なんか近くない?」
「ノートを見てるの。佐村君が書いてる途中だから、私が寄るしかないでしょ」
「なら仕方ないか」
「うん。仕方ない」
そう答えた玲奈は、印をつけ終えても少しの間、肩を離れなかった。
夕方まで勉強し、駅の近くにある店へ入った。
試験の話は料理が届くまでに終わり、最近見た映画や、春休みに何をするかといった話へ移っていく。
「佐村君は、また海外へ行くの?」
「まだ決めてないよ」
「急に行きそう」
「行くときは玲奈にも言う」
「帰ってきた後じゃなくて?」
「前にお土産は渡しただろ」
「小さな画集ね。嬉しかったよ」
「ならよかった」
「今度は一緒に連れていって、とは言わないけど」
玲奈はグラスへ口をつけながら、僕の反応を見ている。
「言わないの?」
「言ったら連れていってくれるの?」
「予定が合えばね」
「簡単に言うよね、佐村君は」
「行きたいなら、最初からそう言えばいいのに」
「今すぐじゃなくていいから……いつか連れていって欲しい」
「覚えておく」
「忘れないでよ?」
「そのときは玲奈から言って」
「仕方ないなあ」
玲奈は困ったように笑った。
食事を終えて外へ出ると、すでに暗くなっていた。
駅へ向かって歩き始めたところで、玲奈が僕の隣から尋ねる。
「ねえ、ホテル行く?」
「行かないよ」
「じゃあこのまま帰るの?」
「そうしようかなって思ってる」
「でも、今日は勉強しただけだよ」
「玲奈と勉強して、一緒にご飯食べたかったから誘ったんだけどね」
「えっちしなくても?」
「大事な友達なんだから、普通じゃない?」
「佐村君が言うと、少し意外」
「それ褒めてる?」
「どうだろ」
玲奈は僕の顔を見たまま、もう一度答えた。
「でも、すごく嬉しい」
声が少し震えていた。
「そんなに?」
「だって、佐村君が何もするつもりなく、わたしと会いたいと思ってくれたんでしょ」
「そうだけどさ」
二人で駅まで歩く。いつのまにか、僕たちは手を繋いでいた。
「……ねえ」
「ん?」
「わたし、ダメかも」
「なにが?」
「今日、帰りたくないよ。一緒にいたい」
「玲奈……」
玲奈は涙ぐんだ目で僕を見つめ、言った。
「佐村君は、嫌?」
それを聞いて、僕は玲奈を強く引き寄せた。
周囲に人影はなかったが、そんなことを気にする余裕もないまま、玲奈の唇を奪う。
長く深い口付けをした後、玲奈を駅まで送るのをやめ、方向を変えた。
玲奈の手を引いて歩き出す。
「僕の家に行くから」
「……家行ってもいいの?」
「ダメな訳ないじゃん。というより、何度か来てるでしょ」
「家は最初だけで、それからはずっとホテルだったよ?」
「玲奈と家でするようになったら、毎日連れて帰ってたかもね」
「そうなったらわたし、絶対断れずに毎日行ってたと思う」
そう言いながら、玲奈は笑顔で着いてくる。
「今日は、佐村君のして欲しいことなんでもしてあげる」
「……それ、いつも通りじゃない?」
「わたしから、ってこと!」
部屋へ入ると、玲奈は鞄を床へ置き、コートを脱いだ。
僕も同じように脱ぎながら、電気をつけ、最小の明るさにした。
すると、いつもは僕の指示を待つのに、今日は自分から近づいてくる。
「和希」
「急に名前?」
「今からそう呼ぶことにしたの」
僕の胸へ手を置き、少し背伸びをして口づける。
触れるだけで離れ、今度は耳元へ顔を寄せた。
「座って」
「積極的だね」
「嫌?」
「嬉しい」
言われたとおりソファに座る。
玲奈は僕の前へ膝をつき、見上げてきた。
恥ずかしそうにしているのに、目は逸らさない。
「会ってくれたお礼だよ」
「身体目当てじゃなく、ってこと?」
「うん」
「それだと身体で返すのは変じゃない?」
「今日は和希の性欲処理じゃないもん。わたしがしたいからするの」
「いつも最初は文句言うけど、結局喜んでしてくれてるよね?」
「それ以上は黙ってて」
玲奈の髪に手を入れる。
指を通すと、目を細めながら僕の掌へ頭を預けた。
「わかった。そういうことなら、お願いしようかな」
「うん!」
最初は玲奈の好きなようにさせた。
こちらの表情を何度も確かめ、少しでも僕が良い反応をすれば、嬉しそうに同じことを繰り返す。
やがて僕も我慢できなくなり、玲奈の髪へ両手を差し入れた。
それでも玲奈は離れようとせず、僕が満足するまで、すべてを受け入れた。
しばらくして、玲奈は僕の膝へ頬を預けたまま動けなくなっていた。
乱れた髪を撫でる。
「大丈夫?」
「うん……」
「今日はいつもより無茶しちゃったけど、頑張ったね」
「和希が嬉しそうだったから」
「それだけ?」
「ほかに理由なんてないよ」
玲奈が顔を上げる。
目元には少し涙が残っていたが、笑っていた。
玲奈はまだ力の戻りきらない足で立ち上がり、僕に抱きついてきた。
「和希……」
「なに?」
「好き……」
僕はすぐに言葉を返せなかった。
だが玲奈は気にせず、何度も繰り返し囁く。
「好き……好き……大好き」
僕はただ、強く玲奈を抱きしめる。
玲奈は少し苦しそうにしながらも、止まらなかった。
「わたしのこと、好きじゃなくてもいいよ。都合の良い女でいい。わたしの身体、どんなふうに使ったっていい。何でもしてあげる。だから……」
言い終える前に、僕は玲奈を抱え、そのままベッドへ連れていった。
仰向けに寝かせると、玲奈は僕を見上げたまま、自分から両腕を伸ばしてくる。
僕はその身体へ覆い被さり、告白の続きを塞ぐように唇を重ねた。
そこからの玲奈は、いつにもまして従順だった。
僕がどれほど強く求めても、普段なら一言二言は出る文句すら言わない。
ただ僕が喜んでいることを確かめるたび、嬉しそうに受け入れていた。
僕も遠慮を忘れ、玲奈が動けなくなるまで何度もその身体を求めた。
深夜、洗面台の鏡の前で深く口付けを交わす。
水音が響く中、玲奈を鏡の方へ向かせて後ろから抱きしめると、力なく僕の腕に体重を預けてきた。
「……本当に、今日は何しても受け入れてくれたね。大丈夫だった?」
「うん、全然平気。和希が気持ち良さそうにしてるだけで、すごく幸せだったし……幸せ過ぎて、半分くらい意識飛んじゃってたと思う」
潤んだ瞳で振り返る玲奈の首筋から背中にかけて、僕がつけた痕が数えきれないほど残っている。
その一つへ唇を重ねると、玲奈は小さく身体を震わせた。
それでも僕の腕から離れようとはせず、振り返ったまま、もう一度自分から唇を寄せてきた。
翌朝目を覚ますと、玲奈は僕の隣でスマートフォンを見ていた。
「おはよう」
「おはよう和希。起きられる?」
「何時?」
「七時十二分」
「まだ余裕あるか」
「朝ご飯どうする?」
「大学に行く途中でなんか食べない?」
「え、一緒に行くの?」
「僕ら同じ大学じゃなかったっけ?」
「いや、そりゃそうだけど……」
そう言いながら、玲奈が布団の中で僕に近づく。
「どしたの?」
「嬉しいだけ」
「そっか」
「和希のこと好きだからね」
「知ってる」
「知ってても言う。好き」
「やめて。朝からまた我慢できなくなる」
「そうなの?」
玲奈は驚いたような顔をしてから、僕の耳元に口を寄せた。
「大好き」
僕は寝起きであることも気にせず唇を奪うと、玲奈を抱き寄せながら上に覆い被さった。
「玲奈が誘ったんだから、ちゃんと責任取ってもらうよ」
「大学遅れちゃう」
玲奈が笑いながら言う。
「大丈夫。玲奈が我慢してくれたらすぐに終わるから」
その言葉どおり、遅れないだけの時間は残した。
玲奈も文句を言いながら僕を拒まず、身支度を始める頃には、昨夜よりさらに機嫌がよくなっていた。
遅れることなく二人で部屋を出て、大学に向かう。
玲奈は昨夜より機嫌がよく、大学に着いても僕の隣を離れなかった。
『昨日から、調査対象のサービスに更新はありません』
『急に現実へ戻すね』
『試験までの予定を確認しますか?』
『今日の分が終わってからでいいよ』
『脆弱性の検証は?』
十万ドルは欲しい。
再現できるかどうかも気になっている。
今すぐ部屋へ戻り、続きを始めたい気持ちはあった。
『試験が終わるまでは、決めた時間だけにする』
『承知しました』
「和希、何か嬉しいことあった?」
玲奈が僕の顔を覗き込む。
「どうして?」
「少し笑ってたから」
「我慢できるようになった自分に感心してた」
「何を我慢してるの?」
「十万ドル」
「全然分からない」
「試験が終わったら教えるよ」
それからお互いに少し無言の時間が続いた。
「……和希のこと、好きって言っちゃったけどさ。また会ってくれる?」
玲奈が不安そうに言う。
あの時僕の中にあった感情は、間違いなく喜びだった。
面倒だとか、そういう気持ちが一切なかったことに僕は安心している。
「返事はできないけど、すごく嬉しかった。毎日でもいいんだよね?」
玲奈は僕の腕へ肩を寄せると、甘えた声を出す。
「いいよ…」
「分かった。なら今日も連れて帰るから」
玲奈は、大学に着くまでずっと嬉しそうだった。




