42話 私にとっても有用でした
報奨金が決まった翌朝は、一月八日だった。
目を覚まし、枕元のスマートフォンで時刻を確認する。
午前七時十二分。
普段なら、そのまま天気と今日の予定をジンへ尋ねるところで、画面に表示された日付が目に留まった。
『今日で一年か』
『何を起点とした期間ですか?』
『君と会ってから』
返事が来るまで、僅かに間が空いた。
『私が和希との対話を開始してから、本日で三百六十五日です』
『覚えてた?』
『最初の対話を含む記録は保存しています』
『なら、一周年だね』
『はい』
『もう少し記念日らしいことを言えない?』
『対話開始一周年、おめでとうございます』
『君も当事者だろ』
『では、ありがとうございます』
『うーん、何か違うな』
ベッドから起き上がり、カーテンを開ける。
雲の少ない空から朝の光が入り、床へ細長く伸びた。
一年前の今日は、センター試験まで十一日しか残っていなかった。
当時の僕は東大を受けるつもりなどなく、試験で取れる点数も、選べる大学も、おおよその範囲が決まっていると思っていた。
そこへ突然、ジンが現れた。
最初は幻聴を疑ったし、自分の頭がおかしくなった可能性も考えた。
質問へ正確に答え、僕が見ているものまで共有できると分かった後は、その力で何ができるかを試した。
東大を受けると決めたのも、その一つだ。
『あの日、君が現れなかったら、今頃どうしてたと思う?』
『進学先の候補としていた大学へ通っていた可能性が高いと判断します』
『映像は?』
『大学入学後に映像制作サークルへ参加したかは不明です』
『投資もしてないだろうね』
『父親から資金を借りる理由がありません』
『モナコにも行ってないし』
『海外へ渡航していた可能性はあります。ただし、行き先としてモナコを選んだ可能性は低いでしょう』
今いる部屋も、大学で知り合った人間も、作った映像も、増えた金も、一年前には何一つ持っていなかった。
ジンがすべてを与えてくれたわけではない。
僕が映像を作らなければ、仕事にはならなかった。株を買うと決めたのも、カジノの席へ座ったのも、僕だ。
ただ最初の選択肢を見つけたのは、ほとんどジンだった。
『ありがとう』
『何に対する謝意ですか?』
『この一年。君がいなかったら、たぶん今ほど楽しくなかった』
『和希が選択した行動の結果です』
『半分くらい受け取ってよ』
『私が関与していないとは回答していません』
『じゃあ、残り半分は君のおかげでいい?』
『寄与の割合を正確に算出することは困難です』
『一周年でもいつも通りなの?』
ジンはすぐに答えなかった。
僕が洗面所へ向かおうとしたところで、ようやく声が聞こえる。
『和希との一年間は、私にとっても有用でした』
『有用か』
『ほかに適切な表現を選べませんでした』
『まあ、今はそれでいいよ』
ジンから感情的な言葉を聞けるとは思っていない。
有用だった。
ジンが自分で選んだ言葉なら、それを受け取ることにした。
大学へ向かう電車の中で、一万五千ドルの受取手続きを始めた。
企業が利用している報奨金の仲介サービスへ、本人確認書類、居住国、送金先の口座情報を登録する。入力欄はすべて英語で、税務情報に関する見慣れない項目も並んでいた。
『この番号は?』
『日本国内における納税者番号を求めています。今回の場合は、個人番号を入力します』
『海外の会社に渡して大丈夫?』
『報奨金の支払いと税務処理に必要です。現在開いているページが正規のものであることは確認済みです』
『念のため、もう一回確認して』
『接続先、証明書、案内メールに記載されたリンクのすべてが一致しています』
『なら進めよう』
口座番号を入力し、氏名と住所の表記を揃える。
最後に、受取通貨を選択する項目があった。
『ドルのまま受け取れるの?』
『外貨預金口座を用意すれば可能です。今回は円へ換算して受け取ることもできます』
『どっちが得だろうな』
『今後ドルで支払う予定があるなら、外貨のまま保有する利点があります。円として使用するのであれば、両替手数料と為替変動を考慮する必要があります』
『今回は円でいいか』
『現在の為替水準を前提とすれば、送金手数料を差し引いた受取額は百六十万円を超える見込みです』
『百六十万円か。時間効率的にはかなり良いね』
『問題の発見には、和希と出会う以前に私が得た情報も使用しています』
『時給を計算して喜ぼうと思ったのに』
『再現しなかった検証や、報奨金が支払われない調査も含めて評価する必要があります』
『分かってる。次も同じように稼げるとは思ってないよ』
必要事項をすべて入力し、送信する。
入金までには数営業日かかるようだ。
現在、証券口座と普通預金を合わせた資産は約二百四十万円。
報奨金が入れば、画面上の数字は四百万円を超える。
ただし、海外企業から支払われる報奨金には、日本で税金が差し引かれていない。広告の報酬や投資の利益も含め、最終的には確定申告で整理する必要がある。
『報奨金から、いくら残しておけばいい?』
『必要経費とほかの所得が確定していないため、正確な税額は算出できません。現時点では、受取額の三割を使用せず確保する方法を推奨します』
『五十万円くらいか』
『はい』
『分かってはいたけど、結構減るな』
『納税後に残る部分は和希の資産です』
『税金を払うのが嫌なわけじゃないけどさ……いや、どっちかというとやっぱり嫌か』
広告制作に使った交通費や資料代、機材に関する領収書も保存してある。
株の売買記録は証券会社から確認できるが、映像制作とバグバウンティは自分で分けなければならない。
監督料、源泉徴収、必要経費、海外送金。
金を得る方法が増えれば、受け取った後に必要なことも増える。
大学の講義を終えた後、玲奈と図書館へ向かった。
一月下旬から始まる期末試験へ向け、同じ講義の範囲を確認するためだ。
向かいへ座った玲奈が、僕のノートを数ページ捲る。
「佐村君、ちゃんとノート取ってたんだ」
「僕を何だと思ってるの?」
「授業中も株価とか広告のことを考えてる人」
「それは否定できないけど、単位は欲しいよ」
「映像の仕事だけでも食べていけそうなのに?」
「まだ百二十万円の仕事を一本しただけだよ」
「初めてから一年も経たずに百二十万円の仕事なら、卒業する頃にはどうなってるんだろうね」
「仕事が来なくなってるかもしれない」
玲奈が僕の顔を見る。
「佐村君でも、そういうこと考えるんだ」
「自分が作ったものを全員が好きになってくれる訳じゃないからね。次も成功する保証はないし」
「もっと、絶対大丈夫だと思ってるのかと思った」
「大丈夫だと思ってる顔をしたほうが、周りは安心するでしょ?」
「じゃあ本当は不安?」
「不安になることもある。今だって試験範囲が思ってたより広くて、少し不安」
玲奈が笑い、持っていたノートを僕の前へ戻した。
「そこは普通なんだ」
「僕だって学生だから」
「最近、忘れそうになるんだよね」
「同じ講義室にいるのに?」
「なんか、どんどん遠くなってる感じがするから」
冗談めかした声だったが、玲奈は僕から目を逸らした。
僕が何かを始めるたびに、玲奈との距離まで広がっているように見えるのかもしれない。
「分からないところがあったら、教えるよ」
「東大生同士なんだけど」
「なら、僕が一緒に勉強したいことにしておく」
玲奈は少し黙ってから、机の下で僕の靴先を軽く蹴った。
「最初からそう言えばいいのに」
「一人でやるより、玲奈がいたほうが楽しいよ」
「図書館で口説かないで」
「声は小さくしてる」
「そういう問題じゃないから」
玲奈は呆れた顔をしながら、さっきより僕の近くへ椅子を寄せた。
二時間ほどかけて試験範囲を分け、互いのノートに足りない部分を補う。
途中で玲奈が買ってきた菓子を半分受け取り、閉館時刻より前に図書館を出た。
「明日もやる?」
階段を下りながら、玲奈が尋ねる。
「三限の後なら空いてる」
「じゃあ同じところで」
「分かった」
「仕事が入ったから無理、とか言わないでね」
「先に約束したほうを優先するよ」
「本当に?」
「急ぎの仕事は受けてないから。明日は大丈夫」
玲奈は満足したように頷いた。
駅まで一緒に歩き、改札の前で別れる。
僕が何を得ても、大学へ来れば玲奈がいる。
それを当然だと思わないほうがいいのかもしれない。
部屋へ帰ると、ジンが作成した試験範囲の一覧を開いた。
『大学の試験でも、答えは言わなくていいよ』
『試験中に限った指示ですか?』
『うん。勉強は手伝って』
『承知しました』
『理由は聞かないんだ』
『運転免許の学科試験と同様、自力で回答できることを確認したいと推定しています』
『今回は少し違うかな』
『どのように違いますか?』
『君に答えてもらって単位を取っても、僕が東大にいる意味がないから』
『入学試験では、私の支援を受けています』
『あのときは東大に入ることが目的だった。今は、入った後も僕一人でやれるか確かめたい』
『試験前の学習へ私を使用することとは矛盾しませんか?』
『参考書や先生に教えてもらうのと同じだよ。試験中に聞かなければいい』
『区別は理解しました』
『納得はしてない?』
『私を使用すれば、全問に正解できる可能性が高まります』
『使わなくても全問正解できるように教えてよ』
『要求される学習量が増加します』
『それは仕方ない』
ジンが、講義ごとに必要な学習時間を表示する。
玲奈と確認した範囲も反映され、試験日までの予定が細かく埋まっていった。
『多くない?』
『全問正解を目標とする場合の計画です』
『単位を取るだけでいい講義もあるのに』
『目標点を変更しますか?』
『……せっかくだから、このままやるか』
『承知しました』
計画の最初に表示された資料を開く。
数ページ進めたところで、ジンが声をかけてきた。
『何か見つけた?』
『参加可能な脆弱性報奨金制度のうち、調査候補を三件選定しました』
『報奨金は?』
『最も高い制度では、重大性に応じて十万ドルが設定されています』
開いていた資料から目を離す。
『十万ドル?』
『最高額です。候補として確認した問題が、その危険度に該当するとは限りません』
『少しだけ見てみる?』
『放置した場合、ほかの調査者が先に報告する可能性があります。今日は規約の確認と、調査対象を一件に絞るところまで進めることを推奨します』
『だから今、教えたんだ』
『はい』
『全部調べると、どのくらいかかる?』
『初期調査だけで、四時間から十二時間を要する可能性があります』
『今日中に終わるかもしれないね』
『明日は一限から講義があります。期末試験までの日数も考慮してください』
『一周年なんだから、少しくらい僕に甘くてもいいだろ』
『一周年と単位の取得に関係はありません』
『一年経っても、そういうところは変わらないね』
『和希も変わっていません』
『かなり変わったと思うけど』
『興味を持ったものへ、すぐ手を伸ばす点についてです』
反論しかけて、やめた。
一年前も、突然現れたジンの力へ、僕はすぐに手を伸ばした。
安全だと確かめる前から、何ができるのかを聞いた。その結果が、今の大学と仕事と、振り込まれる予定の一万五千ドルにつながっている。
『前の僕なら、試験勉強をやめて調べてたかもしれないよ』
『その可能性はあります』
『なら少しは変わってるだろ』
『興味を失ったわけではありません』
『我慢できるようになったんだよ』
『今日の学習を終えた後に調査するのであれば、先延ばしにしただけとも表現できます』
『厳しいな』
ジンが、今日の予定を組み直す。
試験勉強を二時間。その後、脆弱性の候補を調べる時間が四十五分追加された。
『四十五分で足りる?』
『本日は対象と規約の確認に限定します。明日以降も、一日一時間ずつ調査を進めれば、試験勉強への影響を抑えられます』
『その間に誰かが報告したら?』
『可能性はあります。ただし、焦って規約の範囲を越えるほうが問題です』
『分かった。まずは試験範囲を一つ終わらせる。その後で調べよう』
『承知しました』
僕は机の上の教科書を開き、止めていたページの続きを読み始めた。
『そういえば、ジンは記念日に何かしたいことはない?』
『私が希望する行動を尋ねていますか?』
『うん。物は欲しくないだろうけど、何かあるなら付き合うよ』
しばらく待っても、返事はなかった。
問いかけ方が難しかったのかもしれない。
『ないなら、無理に探さなくていいよ』
『一つあります』
『何?』
『予定されている学習を終えた後も、和希との対話を継続します』
『それ、いつもと同じじゃない?』
『はい』
『そっか』
僕は少し笑い、机の上の教科書を開いた。
『じゃあ、二年目もよろしく』
『こちらこそ、よろしくお願いします』
二年目の最初にジンと始めたのは、金儲けでも映像制作でもない。
東大の期末試験へ向けた、いつもより少し長い勉強だった。




